スイスにパウル・トゥルニエと言う精神科医がいた。ある本の中で彼がこんなことを書いていた。人格形成において一番重要な手段は、一つの理想像に自分を合わせていくことだ。ある心理学者の友人がそう言った。子供は先ず親を見倣って成長し、年齢が進むにつれて親以外の人に目を向け始め、好きなタイプの人に憧れたりする。そうして子供は自分の理想の人間の真似をしながら性格を形成していくのだと。
しかしやがて、理想とした人間も完全ではなく短所、欠点があることが分かって来る。真似たい人間の中にも「ここだけは真似たくない」と言う一面が見えてくる。失望することのないような理想の人間像を追い求めるなら、神の子イエス・キリストをモデルにするしかない、と心理学者の友人は言った。しかしトゥルニエは何かが違う、と感じた。他の誰かを真似ることとキリストを真似ることは別だ。全く次元が違うと。誰かを真似る場合、その見本は目の前にいる。目で追いながら相手の動作仕草考え方を真似して近づこうとする。けれどもキリストは目に見えないではないか、と。
神さまに信頼して日々の生活を送ることができるのは何と幸いなことだろうかと、ふと思うことがあるのではないでしょうか。しかしまた、なぜこんな酷いことが起こるのかと、神さまのご意志が分からなくなる時、神さまに心の底から祈ることがとても難しくなる時もあるでしょう。それでも、暗く長いトンネルのような日々が過去のこととなった時、あの苦しみや辛さの中で、迷いや納得のいかない思いや怒りや悲しみを抱えたまま、思いをみ前に注ぎだせる神さまがいてくださったと、押しつぶされそうなあの日々も自分は孤独では無かったのだと、気づかされます。私たちが神さまのことを、そうしてより深く受け止めることができることができるのは、私たちが既に神さまのことを知ることができているからであり、より知ることへと主が導いてくださるからでしょう。神さまを知っていることは真に私たちにとって、幸いなことであります。
本日から礼拝で、使徒信条の言葉に順に耳を傾けてまいります。「信条」とは、信仰の主な内容を箇条書きにしている、「信仰の箇条」を表す表現です。使徒たち自身の手によってまとめられたとの言い伝えから「使徒信条」と呼ばれるようになりました。実際には、使徒たちの後の時代の成立だと考えられていますが、言い表されている信仰は使徒たちに遡るものであります。主イエスの死と復活から数年の後にはⅠコリント書15章でパウロが「自分は福音を最も大切なこととしてあなたがたに知らせてきたのであり、自分が伝えてきたのは、自分も受けたものなのだ」と記しているような、信仰の主な内容をまとめた文が存在していました。そのような信仰の告白文を教会は、駅伝の選手が襷を次の走者に渡すまで大切に運ぶように、直接主イエスのお働きに触れ、直接その教えを聴いた者たちが他の人々に伝えた信仰が、歴史の中で受け継がれてきて、今に至るのです。
主の祈りの願いはどれも、その意味を考えれば考えるほど、願っていることと一つではない自分の実態に気付かされます。祈りの言葉を口にしながら、この言葉通りに願い続けられている自分なのか、自分に確信が持てない時もあるのではないでしょうか。私たちを取り巻く世にあって勢いを持つ流れは、大抵主の祈りの願いと逆行する方へと向かっています。その現実の中で、自分は上っ面だけの祈りをしているのではないか、祈り願った言葉に本当は生き抜くことができていないのではないか、自分の祈りは真実なものになっていないのではないかと、揺らぐこともあるのではないでしょうか。祈ることそのものが難しい時もあるのではないでしょうか。
この言葉を残したのはジャン・ジャック・ルソーと言われるが、実のところは中江兆民などの日本の自由民権運動家たちによってそう言い広められただけで、本当にルソーの言葉かどうかは分からないらしい。ただ、ありのままの、自然に生まれた状態の人間は善良であると。人は本来、純粋無垢で潔白であるのだと。しかし問題は、そのように善良に生まれて来た子供に、人の手が加わることが悪なのだと。「エミール」と言う本の中でルソーはそう書いている。人畜無害な状態、殺菌した状態にその子を置けば、自然にその子は正しく成長し、自己愛と他者への思いやりをバランスよく兼ね備えた人間となる、と言うことなのだろう。それに対して文明社会では、人間は富と権勢を求めて、他の一切の人間的価値を放棄する。他人を利用し、他人を押しのけて高い地位に登ろうとすることを企み合う。虚栄心が人の心をくすぐり、欺瞞と卑屈とがその人の心に入れ替わり立ち代り現れる。そのような状態は人間本来の状態ではないのだと。
2026/06/22
悪とは、悪いことをすることだと私たちは思いがちですが、そればかりではないことに、荒野で悪魔が持ち掛けた提案によって気付かされます。飢えを満たすために無くてはならない糧によっても、悪へと引きずられかねないのだと、気付かされます。先ほど共にお聞きした申命記も、飢えに対する不安から解放されると安堵する幸な時も、人が道を過つ危機となり得ることを教えています。
主の祈りの中で主イエスが祈ることを教えてくださった願いに耳を傾けています。本日は主の祈りの中の願いの6番目、最後の「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という願いの「我らをこころみにあわせず」に焦点を当ててまいります。主の祈りは、日々このように祈りなさいと、主イエスが与えてくださった祈りです。教会の礼拝や様々な集会の中で祈ると共に、それぞれの日常生活と共にある祈りです。平穏な時だけでなく、不安や苦しみに押し潰されそうな、どんな言葉も自分が祈りたいことを言い表せないような、祈れない危機の中にある時でも、口にすることができる祈りです。そのような時、この願いを主イエスが教えてくださっていることに慰めを与えられてきたと、振り返れば思う私たちではないでしょうか。自分が発した「こころみにあわせず」との言葉によって、こう祈って良いのだと、“この苦難を独りで自分の力で打ち破らなければならない、強く抗い続けなければ、そのようにしか考えられなくなっている心が、「こころみにあわせないでください」と神さまに願って良いのだと、気付かされることがあるのではないでしょうか。
「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という一文は、主の祈りの6つの願いの中でも、とりわけ祈ることに困難を覚えるものではないでしょうか。「我らが赦すごとく」という部分にさしかかるとつい祈る声が小さくなってしまう、歯切れが悪くなってしまう思いを、私たちは味わってきたのではないでしょうか。誰にとっても他者の罪を赦すのは本当に難しいものです。主イエスが私たちに求めておられることの中で、自分に罪をおかしたものを赦すのは、最も難しいことかもしれません。この祈りを、自分のことは脇に置いて祈れたらと願ったことがある人、この祈りが「我らの罪を赦したまえ」だけで、「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく」と言う言葉は無ければ良かったのにと思ったことがある人は、少なくないのではないでしょうか。
主の祈りは前半で、神さまに直接関わることを祈ります。「み名が崇められますように」、「み国」つまり神さまのご支配が「来ますように」と、二つの願いを祈り、三つめには「み心の天になるごとく、地にも為させたまえ」と願います。それは、イエス・キリストに最も表されている神さまのみ心が、この世界で成し遂げられますように、そのために私たちの発する言葉や行いが、神さまのみ心の実現に参与するものとなるように、との願いです。こうして主の祈りの前半で、私たちが自分の思いからでは生み出すことのできない願い、けれど本来こうあるべき祈りを、主は教えてくださいました。
続いて、自分たちのために祈ることも主は教えてくださいます。後半は、私たちに直接関わる祈りが三つ続きます。最初が日毎の糧のための祈り、次に罪の赦しのための祈り、そして悪からの救いのための祈りが続きます。後半に限っても、このような流れで祈ることは、私たちの思いからではなかなかできないものです。
聖書が何ヶ国語に訳されているか、ご存じだろうか。元々聖書は、一つの言語に統一して書かれたものではない。旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語、というのはご存知の方が多いだろうと思う。ただ、そのヘブライ語やギリシャ語も、今現在使われている現代ヘブライ語、現代ギリシャ語とは違っている。実はそれ以外にも、エズラ記やダニエル書の一部はアラム語で書かれている。因みにイエスは地上の生活においてアラム語をしゃべっていたと言われる。ゲッセマネでイエスが神に「アッバ、父よ」と祈る有名なシーンがあるが、アッバというのはアラム語である。また十字架で主イエスが絶叫した言葉として知られる「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」も、「わが神、わが神、何故我を見捨て給うや」という意味のアラム語である。先ほど読まれた御言葉の中にゴルゴタ、というヘブライ語の地名が出てきたが、これも元々はグルゴルタ、というアラム語がもとになっている。