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悪より救い出したまえ

「試みにあわせず」マタイ4111(詩編661020

2026614日(主の祈り・左近深恵子)

 

 主の祈りの中で主イエスが祈ることを教えてくださった願いに耳を傾けています。本日は主の祈りの中の願いの6番目、最後の「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という願いの「我らをこころみにあわせず」に焦点を当ててまいります。主の祈りは、日々このように祈りなさいと、主イエスが与えてくださった祈りです。教会の礼拝や様々な集会の中で祈ると共に、それぞれの日常生活と共にある祈りです。平穏な時だけでなく、不安や苦しみに押し潰されそうな、どんな言葉も自分が祈りたいことを言い表せないような、祈れない危機の中にある時でも、口にすることができる祈りです。そのような時、この願いを主イエスが教えてくださっていることに慰めを与えられてきたと、振り返れば思う私たちではないでしょうか。自分が発した「こころみにあわせず」との言葉によって、こう祈って良いのだと改めて気づかされることもあるのではないでしょうか。“この苦難を独りで自分の力で打ち破らなければならない、負けてはならない、強く抗い続けなければならない”、そのようにしか考えられなくなっている心が、「こころみにあわせないでください」と神さまに願って良いのだと気付かされます。“神さま、恐ろしいのです、不安なのです、自分の力ではこの苦難を乗り越えることはできません。神さま、私の叫びに耳を傾けてください”と、心の内を神様に注ぎ出して助けを求めて良いのだと、主はこの祈りによって気づかせてくださいます。

 この祈りは、自力で苦難に打ち勝ってきたと思う心にも、気付きを与えるはずです。誰の中にも自分自身を誇りたい思いがあります。不安の裏返しのように、何か自分の中に拠り所を見出して安心したい思いがあります。時には、自分が苦難に見舞われたこと、苦難をくぐり抜けてきたことを誇ろうとします。“自分の味わってきた苦難と闘いは他の人の経験に勝るのだ”と、“並大抵のものではない苦難を自分は自力で闘い抜いたのだ”と、主張したくなる思いを持っています。そのような私たちに主イエスは、「こころみにあわせず」との祈りの言葉を与えてくださいました。この「こころみ」という言葉は、「試練」とも「誘惑」とも訳されています。「試練」について、ヤコブの手紙でこのように言われています、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格な者とされ、神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです」(ヤコブ112)。またこのようにも述べています、「さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています」(ヤコブ123)。ヘブライ書もこのように述べています、「肉の父は暫くの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。およそ鍛錬と言うものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです」(ヘブライ121011)。試練は神さまから来ると聖書は教えています。そのような文脈の時には、「こころみ」という字に「試練」という訳語を用いることが多いようです。厳しい状況の中、もがきながらも乗り越えることを通して、私たちは鍛えられることがあります。信仰においても、信仰に生きようとするからこそ試練に直面する人に、耐え忍ぶ力が神さまから与えられ、報いが約束されていることを聖書は伝えています。

他方、神さまから来るものではないものを指す文脈では、「こころみ」という語に「誘惑」という訳語が用いられることが多いようです。ヤコブ書はこうも述べています、「誘惑に遭うとき、誰も『神から誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、ご自分でも人を誘惑したりなさらないからです。人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(ヤコブ11314)。誘惑は、私たちを神さまからの報いに至らせず、悪へと誘います。どこから来て何処へ向かうのか、その流れの違いによって、「誘惑」とも「試練」とも訳されます。私たちにとって問題となるのは、私たちが直面している苦難が、神さまから来ている試練なのか、悪へと惹きつけられる誘惑なのか、分からないことが少なくないということです。過去の出来事を振り返っても、私たちに降りかかった苦難が試練であったのか誘惑であったのか、簡単に言いきれないことが少なくないのではないでしょうか。私たちの限られた視野と、限られた時間の中で、これは神さまのみ心であり、これはそうではないと言いきれないのは当然のことでしょう。だから、主イエスが「こころみにあわせず」という願いだけでなく、「悪より救い出したまえ」と願うことを教えてくださったことが大切であることに気づかされます。私たちがどこへと向かうのか、見つめることへと促されます。苦難と闘ったことを誇りにしてしまうのなら、途中の自分の闘いしか見えなくなっている状態と言えます。悪の力と共鳴してしまう思いが私たちの中にあるからこそ、悪に陥らないように私たちをお救いくださいと祈るのです。

 この願いが、5番目の罪の赦しを求める願いの後に続いていることの重みにも気づかされます。5番目の願いは私たちに、既に神さまから与えられている罪の赦しを思い起こさせます。自分の力では償うことができない、私たちの神さまに対する大きな負債を、神の御子が代わりに負ってくださり、私たちに赦しをもたらしてくださいました。「罪を赦したまえ」との願いを口にする度、み子の命によって赦しを与えてくださった神さまの許へと立ち帰ることへと促されます。神さまによって与えられている結びつきを見つめ直すことで、自分と隣人との関りを見る姿勢も変えられ、神さまに倣って他者を赦すことへと背中を押されるのです。

自分の罪を見つめ、他者の罪を赦すことへと背中を押され、罪の赦しを求めるこころと共に生きようとする者は、自分が試練や誘惑にとても弱い者であることも認めざるを得なくなります。自分の実態を見つめ、罪の赦しを求める願いをもって生きようとするからこそ、試みの中で自分がいかに意志が揺るがされてしまう者であるのか、もはや見て見ぬふりをすることができなくなります。自分は絶えず自力で義しく在り続けられる、などとは言えなくなります。主イエスの弟子のペトロは最後の晩餐の席で、他の弟子たちの前で、主イエスに向かって、「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております」と断言しました。しかしその数時間後には、主イエスのことを「あんな人など知らない」と三度言ってしまいました。ペトロがそうであったように、私たちを救うために世に来られたキリストの後に従う生き方をしたいという私たちの願いに偽りはありません。しかしペトロのように、何かが起こると私たちの固かったはずの決意はアッと言う間に頼りないものとなってしまいます。後から振り返れば小さな出来事であったと思うような些細なことであっても、進もうとする道を阻むものや出来事が現れると途端に、私たちの足元はおぼつかないものとなってしまいます。

 主イエスは、罪の赦しを求める願いから試みについての願いへと続く、私たちにとってあるべき流れを教えてくださいました。罪の赦しを思えば思うほど、私たちは弱く脆い自分の実態に気づかされます。キリストの十字架による赦しが与えられているから、自分の弱さを認め、試みにあわせないでくださいとの願いを切実に祈るようになります。試みの中で、神さまに助けを心から求められるようになります。それが魂の成長と言えます。そうして、神さまに支えられて試練の中での闘いを重ねてきた信仰者の存在に、私たちはこれまで教会を通して触れて来たのではないでしょうか。その人々に、本当の信仰に生きる者の強さを、教えられてきたのではないでしょうか。

 主イエスご自身が、荒野でこころみを受けてくださいました。それは洗礼を受けられた後のことでした。洗礼者ヨハネが、救い主の到来に人々を備えさせるため、悔い改めへと導くために、人々に授けていた洗礼を、悔改める必要の無い神である主イエスが、罪人である人間の列の中に加わり、その1人として受けてくださいました。マタイによる福音書は、主が洗礼を受けられた時のことをこのように伝えています、「イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。そして、『これは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ31617)。主イエスこそ神のみ子であると、父なる神が天から告げてくださいました。聖霊がこの方の上に降られました。そうして、聖霊に導かれて、主イエスはこころみを受けるために荒野に行かれました。私たちに罪の赦しをもたらすためのみ業を、洗礼と荒野での試みから始めてくださったのです。

主が受けられた試みは、この先の主の闘いを指し示すようなものでありました。荒野を後にした後、主はガリラヤの地から福音を宣べ伝えてゆかれます。その先々で、人々が主イエスに期待するものと、主イエスによって神さまが与えようとしておられるものの乖離が、明らかになってゆきます。自分の要求や自己中心的な思いから主イエスに期待を寄せてしまう人間は、神さまがみ子を世に与えて人に与えようとしておられる、人にとって本当に必要なものを、望むことがなかなかできません。それはまた、主イエスに従う道を世にあって生きてゆこうとするキリスト者たちが闘わなければならない乖離とも言えます。その闘いを、主イエスが先立って、荒野で闘ってくださいました。

主イエスの闘いは、私たちの誰もそこまで到達できない厳しいものでありました。人の悪が主イエスに負わせる闘いでありながら、私たち自身が誰もそこまで闘い抜くことのできない闘いでありました。神のみ子であるからこそ、主イエスは悪と徹底的に闘ってくださったのです。

それは、精神的な修練のようなものでもありません。人としてお生まれになり、肉体を持つ誰もが味わう痛みや弱さや限界を覚えながら、主イエスは、4040夜の断食をされ、その後にこころみを受けられます。やはり4040夜断食をしたモーセでさえ、その場所は神の山と呼ばれることになるホレブの山であり、主なる神の臨在をたえず近しく示されながらの断食でありました。断食は、神の民の魂の糧となる命の言葉をいただくことに備えてのものでした。しかし主イエスの断食の場は荒野であり、悪に流されている人間のため、これから主イエスのお働きを退け、嘲りを浴びせる民のためのものであり、彼らをその悪から救い出すことに備えてのものでした。主イエスが受けられた試練は、偉大なモーセも及ばないものであったのです。

 福音書は、主イエスが荒野で受けられた三つのこころみを伝えています。最初は石をパンに変えてみたらどうかと、次は聖なる都の神殿の上から無事に飛び降りてみたらどうだと、最後は非常に高い山の上から見える世界の栄華の全てを与えるから私を拝んでみよと、次第にスケールを増しながら、悪魔はささやきます。共通しているのは、父なる神より悪魔にひれ伏してはどうかと、その方が神の子らしくなれるとのささやきです。悪魔が示す神の子らしさとは、人間が救い主に期待する神の子らしさです。人間が望む神の子らしくなるということは、神のご意思ではなく悪に従うということです。悪に従うということは悪いことをすることだと、私たちは思いがちです。しかし、悪に支配されつつ、人々からの期待に応え、人々から喜ばれつつ為すこともあるのだと、気づかされます。何をするのかだけでなく、誰を崇めてそれを行うのかが問われ続けます。悪魔を崇めて行ってはどうかとこころみを受ける度、主イエスは父なる神を崇めることを貫きました。聖書の言葉に従うことによって、父なる神とのつながりを守り通しました。主イエスがこころみを一つ一つ退けてくださったことで、主が与えてくださる救いがどのようなものであるのか、知ることができます。たとえ人の空腹をパンで満たすことができても、たとえ自分自身を死から救うことができる不思議な力に溢れた者が現れ、人々を救うと主張しても、たとえその者が世界中の栄華を手中にできても、人を悪から救い出すことができないような救いは救いではありません。主は人を悪から、悪を生み出す罪から、救い出してくださいます。魂の奥底から人をみ言葉と命の糧で養ってくださり、朽ちることのない神の国の中へと導き入れてくださる救いを、主は与えてくださいます。そのために、危機の中でご自身を守るお力を持ちながらもご自身を守る道ではなく、人々からの反逆や嘲笑を耐え抜いてくださる道を歩み通してくださいました。荒野のこころみに露わになっている人間の望む救いとの乖離と闘い続け、死に至るまで神さまのみ言葉に従うことで、救いの道を切り拓いてくださいました。この主イエスこそ、真の神のみ子であることを、十字架の死を間近で見届けた百人隊長が、「まことに、この人は神の子だった」と証言したのでした。

 

 私たちに神さまが与えてくださった人間としての本質を、自分の弱さや自己中心的な思いから損ねてしまう私たちは、み子がこころみを受けられたような仕方でこころみを受けることも、み子のように闘い抜くこともできない者です。けれどみ子は、私たちを諦めることを為さいませんでした。本当に自分に必要なものが見えきれず、真の救いよりも自分の期待に応える相手を求めてしまう私たちを救うために、私たちの罪が生み出す悪に死に至るまで苦しみ通し、真の救い主であることを守り通されました。キリストによって罪の赦しがもたらされているから、そしてキリストが真の人であり、真の神であるから、私たちは父、子、聖霊なる神の許へと立ち帰り、主との交わりを私たちの日々の出発点とすることができます。私たちの実態を私たち以上にご存知である主に、「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と、私たち自身の悪い思いと行動から私たちを守ってくださいと、祈ることができます。み子が先立って闘ってくださり、み子が共におられるから、独りで、自力で試練や誘惑に立ち向かうのではありません。主にあって、こころみに揺さぶられてしまう自分の弱さを認めつつ、主の後を行くように、聖書の言葉に従う歩みを求めることを、祈ることができます。世界で力を振るっているように見える悪の力から私たちを守ってくださいとも、願うことができます。希望が見えない状況にあっても、私たちの悪と闘い通し、私たちの絶望よりも大きな御業によって切り拓いてくださった救いを、願うことができます。主の祈りによってこのように願いつつ、祈りつつ、歩んでゆくのです。