· 

アーメン

「アーメン」Ⅱコリント11820、申命記7611

202675日(左近深恵子・主の祈り)

 

 主の祈りによって私たちは、主イエスから教えられた一つ一つの願いを神さまに祈ることを教えられました。そして、教会が伝統的に用いてきた、「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」との頌栄の言葉によって、これらの願いを神さまに願い求めることができるのは、国も力も栄光も限りなく神さまものだからです、と信仰を言い表し、神さまを讃美し、最後に「アーメン」と唱えます。「アーメン」という言葉は、主の祈りに限らず、祈りの結びや多くの讃美歌の終わりに共に声を合わせている言葉です。主の祈りの他の部分は日本語に訳されていますが、この言葉は元のヘブライ語の言葉そのままに「アーメン」と言います。「アーメン」は、「真実である。確かである」といったことを意味します。讃美歌の場合であれば、これまで歌ってきたことは、真実です、真にその通りですという意味となるでしょう。

 主の祈りの願いはどれも、その意味を考えれば考えるほど、願っていることと一つではない自分の実態に気付かされます。祈りの言葉を口にしながら、この言葉通りに願い続けられている自分なのか、自分に確信が持てない時もあるのではないでしょうか。私たちを取り巻く世にあって勢いを持つ流れは、大抵主の祈りの願いと逆行する方へと向かっています。その現実の中で、自分は上っ面だけの祈りをしているのではないか、祈り願った言葉に本当は生き抜くことができていないのではないか、自分の祈りは真実なものになっていないのではないかと、揺らぐこともあるのではないでしょうか。祈ることそのものが難しい時もあるのではないでしょうか。

 先ほど、コリントの信徒への手紙二から聞きました。使徒パウロとテモテがコリントの教会に宛てて書いた手紙です。この手紙には、私たちがしばしば抱えるものと同じような問題を見出すことができます。パウロの手紙の中でも特に、パウロたちの苦しみや憂いが多く見られる手紙です。パウロ自身の人柄だけでなく、その強さだけでなく、弱さや揺さぶられる思いも表れています。その背景には、コリントの教会の状況があります。コリント教会のある人々は、パウロたちと対立しています。関わりに困難を抱えている教会に対し、苦悩しつつ、祈りつつ、教会が教会として立ち続け、慰めの共同体となるために、手紙を綴ったことでしょう。
 私たちも、自分の信仰を明らかにし、福音を他の人々に宣べ伝えようとすれば、その日々はただ安らかな時ばかりとは行きません。避けられない苦難もあります。フィリピの信徒への手紙の中に、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(フィリピ129)との一文があります。神さまのみ前に歩みたいと願うからこそ譲れない事もあり、だからこそ苦しむ時があります。パウロたちの使徒としての歩みも、平穏な日々ばかりでありませんでした。この手紙の今日の箇所の少し前、18以下でも、小アジアでどのような苦難に遭ったのか、記しています。耐えられないほど辛く、生きる望みさえ失う苦しみを味わったこと、しかしその苦しみに遭ったからこそ、神さまの恵みを深く知ったと、自分を頼りにすることなく、神さまを頼りにするようになったことを語っています。今、その関係に難しい事情を抱えた相手に記す手紙において、パウロが伝えようとしているのも、神さまのみ心です。この手紙で、コリントの人々の疑問に答え、教会内部の問題に対し指導をしています。しかしそれらも、神さまのみ心がコリントの人々に真に受け止められることを願うからです。人間は、罪の力に引きずられ、罪の故に自身のことも、隣人との関係も損ね、それでいて自分たちでは自分たちのその悲惨さに気づかずに、滅びへと向かってしまう者です。その人々を救うため、神さまはみ子をお遣わしになりました。この救いを、悔い改めをもって受ける者に、真の慰めが与えられることを伝える者として、神さまは使徒たちをお立てになり、人々の所へと遣わされました。神さまからの救いは、人々が互いの間に生じさせ、抱えてしまう問題の中にあっても真の慰めを示すことを、この手紙は示しています。だからこの手紙は、どの時代にあっても、対立や苦しみや悲しみを抱えている人々にも、響く手紙となってきたのではないでしょうか。

 パウロは生きる希望を失うほどの苦しみを通ってきたことで、不確かで不十分な罪に引きずられ続ける自分を、沸き起こる不安を押し殺しながら頼りにしようとする道ではなく、死者を復活させてくださる神さまを頼りにする道を歩むようになりました。自分の知恵や業績を誇りとするのではなく、キリストによって救われたことを誇りとするようになりました。人間の利口さによってではなく、神さまの恵みによって判断し、行動する者となりました。一つ一つの行動の出発点は、キリストによって救われ、神さまのものとなったことにあります。自分の力によってではなく、神さまの恵によって生きることができる、神さまの純真と誠実に生きることができると綴る112以降の文には、喜びが溢れています。

 キリストに拠って与えられたこの救いの確信をもう一度コリントの人々に伝え、恵みを新たに受けて欲しいと、コリントに行く計画をパウロ達は立てました。しかし計画に何か変更が生じました。このことに対し、コリントの教会の一部の人々から不満が出たようです。それが具体的にどのようなことなのかは、明らかになっていませんが、その人々が、パウロの計画にはパウロの真実を疑わせるものがあると受け止めたということが伺えます。パウロは、自分達の計画がコリントの人々から、ただ人間的な考えに拠った、軽はずみなものであると見られていると、捉えています。コリントの人々は、パウロの計画の立て方が、「然り、然り」と言ったり、「否、否」と言っているようだと、そう見ていたようです。

 良かれと思って計画し、判断してきたことが、意図した通りに受け取ってもらえないパウロたちの歯痒さ、ただ福音を伝えたい、共に神の恵みを喜びたいと願っているだけなのに、誤解をされ、非難をされる悔しさは、私たちにも分かるところが多いのでは無いでしょうか。他者の判断や行動を、人間とはこのようなことに拠って事を決め、行動するものだと、自分の物差しで他者を測っては、しばしば思い違いをし、対立してしまう人間の愚かさによって、私たちも苦い思いをさせられたことがあるのではないでしょうか。逆に私たちが、誰かに悔しい思いをさせたこともあるのでは無いでしょうか。パウロたちのコリント教会に対する計画は、神さまから動機を与えられたものです。一つ一つの判断も、そのための行動も、神さまが望んでおられるのはどのようなことなのかみ心を尋ね求めつつ、為してきたことです。だから自分たちがあなたがたに対して行動してきたことは、「神の純真と誠実によ」るのだと、「人間の知恵ではなく神の恵みに」よるのだと、パウロは12節で記しています。

私たちが何かを決定する際、人間的な知恵を用いることなく判断することはほとんど無いのではないでしょうか。パウロは、福音を伝え、神の恵みを分かち合あうことにおいてもは、人間的な知恵を用いないと言っているのでしょうか。パウロがこの手紙でコリントの人々に伝えようとしているのは、パウロたちが人間的な知恵を用いたか用いていないか、についてではなく、何を源とし、何を拠り所としたのか、ということでありましょう。パウロたちは、利己的な喜びから計画したのではなく、人間的な知恵に頼って判断してきたのではありません。神の恵みを分かち合いたいという願いから計画し、神の恵みに拠り頼んで判断してきました。その計画に、人間的な知恵が貢献するなら、用いることもあったのではないでしょうか。私たちも、礼拝に一人でも多くの人に来て欲しい、一人でも多くの人に福音に触れて欲しいと願い、様々な計画をし、行動します。それは私たちの利己的な喜びのためではありません。主の祈りで祈っているように、み名を崇めるため、み国の到来の報せを一人でも多くの人にもたらすため、み心が地にも為されるためであります。そのために必要な知恵と力を、神さまにいつも祈り求めます。神さまから知恵と力をいただかなければ為し得ない、困難なことが少なくない道のりだからです。そしてまた、祈りによって神さまの恵みをこそ誇りとすることに日々立ち帰らなければ、私たちは自分の知恵を誇り、人間的な知恵を拠り所とする方へと流されてしまう者だからです。

自分の知恵と力を誇りとしたがるこころをなかなか捨てきれない私たちです。神さまの救いに感謝している者として、あらゆる決断を神さまの眼差しの下でしたいと、神さまのみ心に適う行動を取りたいと願っているはずなのに、振り返ればみ名を崇めるより、自分の理由、誰かの理由を優先し、そうして神さまが「然り」としてくださったことを「然り」としきれず、神さまが「否」とされたことを「否」としきれなかった自分に、気づかされる者であります。もし自分がパウロのように、“福音のため、神さまの恵を分かち合うためと言いながら、実際には人間的な知恵に頼っているのではないか”と非難されたら、自分の言ってきたことと実態の乖離を見透かされているのかとしどろもどろになったり、必死に自分の正しさを言い張ろうとしてしまうかもしれません。

 パウロも、自分たちの言葉と計画に対して相手が思い違いをしていること、自分たちの言葉は然りと否を曖昧にするようなものではないことを告げますが、それよりも、神さまがどのような方であるのか伝えることに重心を置きます。対立を抱えた人間関係においても、自分の正当性を主張することより、自分たちを遣わされた方を伝えることを本筋とします。自分を遣わされた方を伝えることは、自分たちのこれまでの言葉と行動が確かなものであることを伝えることにも、つながるのです。

 パウロは18節で、神は真実な方だと述べます。神さまが偽りのない方であるから、神さまによって遣わされ、神さまからの恵を伝えるパウロたちの言葉も真実なものだと言います。自分たちが語った言葉が真実である根拠は、自分たちの正しさ、偽りの無さにあるのではないのです。神さまからの恵を伝えるために紡ぎ出す言葉と踏み出す行動であれば、それが不確かなものであっても、神さまがその働きを御業に用いてくださると、私たちは神さまに拠り頼むことができます。人間の罪をも貫いて、人間の不確かさと愚かさを貫いて、キリストの十字架において救いを実現してくださった神さまこそが、私たちの誇りであるからです。

 パウロは19節で、神のみ子イエス・キリストも「然り」と「否」が曖昧になるような方ではないと、この方においては「然り」だけが実現したと言います。それは、神さまの約束が全てキリストにおいて実現されたことを示しています。自分たちがあなた方の間で宣べ伝えたのはまさに、十字架の死に至るまで神のご意志に従い通され、神さまの約束を成し遂げられた、この方のことなのだと言います。だからパウロたちは、そして教会は、この方を通して神さまに「アーメン」と唱え、栄光を帰すのです。私たちが唱える「アーメン」は、神さまの救いのみ業に対する応答であり、主こそ真実な方であるとの信仰の告白であります。自分の知恵と力に自信があるから祈るのでも、教会の活動に力を注ぐのでもなく、自分の不確かさ、人間的な愚かさ故に自信が無いから祈らず、非難されたら返す言葉が無いと縮こまるのではなく、神さまに栄光を帰するために、祈り、語り、行動するのです。

 キリストにおいて神の約束がすべて実現され、神さまの「然り」が「然り」となり、神さまが真実なる方であることが何よりもキリストにおいて明らかとなったことは、コリントの人々にとって福音であります。私たちにとっても、福音であり、喜びであり、力となります。神さまの約束は、今この時も、この先も、実現され続けます。ここで言われる神の約束とは第一に、旧約聖書が伝える神さまの契約です。先ほど共にお聞きしました申命記の7章で告げられていることもその1つと言えます。神さまはイスラエルの民を奴隷としていたファラオの支配から贖い出し、ご自分の宝の民とされました。イスラエルの民にそのふさわしさがあったからではなく、ただ主の愛のゆえ、主がイスラエルの父祖たちにされた約束を守るためでありました。この神さまの救いは、キリストの命の値によって、罪と滅びの末の死から贖い出し、神のものとしてくださった御業において、全ての人にもたらされました。神さまはモーセを通して人々に向かって、「あなたは、あなたの神、主こそ神であり、真実の神であることを知らなければならない」と呼び掛けられました。キリストによって自分が救われていることを受けとめる時、私たちも、主が私たちの神であり、主こそ真実なる方であることを知ります。キリストによって神さまの民の一人として生きる人生が与えられていること、同じ神の民とされた多くの信仰の家族が与えられていること、自分の人間的な知恵を頼りに道を切り拓いてゆかねばならないところから、私たちを愛のゆえに贖い出し、宝の民としてくださる主の招きにお応えして歩む道へと導き入れられたこと、これら全て、神さまから賜った恵みであり、神さまによって「然り」とされていることを知ります。

 

 キリストを仰ぎ、キリストによって神さまの「然り」の中へと入れられている恵みを感謝する者は、真に神さまの「然り」であるキリストによって、祈ることができます。祈りの言葉を「アーメン」と結ぶことができます。真実なる神のご意思を、命を十字架にささげて成し遂げてくださったキリストが、私たちの祈りを執り成してくださるから、祈りが神さまに聴かれていることに信頼することができます。自分の名や誰かの名ではなく、キリストのみ名に拠らなければ祈ることができないことを祈りの度に受けとめ、この方によって祈ることができる恵みを味わう生活を再びここから始めましょう。