「今日も与えたまえ」箴言30:8~9、マタイ6:25~34
2026年5月31日(主の祈り・左近深恵子)
主の祈りは前半で、神さまに直接関わることを祈ります。「天にまします我らの父よ」という言葉によって始まり、この世界を越えた天におられながら、み子によって私たちの方へと降られ、聖霊によって私たちと共にいてくださる神さまへと祈る姿勢に導かれます。それから「み名が崇められますように」、「み国」つまり神さまのご支配が「来ますように」と、二つの願いを祈り、三つめには「み心の天になるごとく、地にも為させたまえ」と願います。それは、イエス・キリストに最も表されている神さまのみ心が、この世界で成し遂げられますように、そのために私たちの発する言葉や行いが、神さまのみ心の実現に参与するものとなるように、との願いです。こうして主の祈りの前半で、私たちが自分の思いからでは生み出すことのできない願い、けれど本来こうあるべき祈りを、主は教えてくださいました。
続いて、自分たちのために祈ることも主は教えてくださいます。後半は、私たちに直接関わる祈りが三つ続きます。最初が日毎の糧のための祈り、次に罪の赦しのための祈り、そして悪からの救いのための祈りが続きます。後半に限っても、このような流れで祈ることは、私たちの思いからではなかなかできないものです。
自分たちのために祈る祈りにも流れがあることが、三つの祈りの内容とその順番によって示されます。最初に日毎の糧の為に祈ることを主が教えられたことは、私たちにとって意外な気がするのではないでしょうか。神さまのことよりも自分たちのことを真っ先に祈りがちな私たちでありますが、では自分たちのことを祈りなさいと言われたら、食べ物のことよりももっと精神的なことを祈らなければならないと思うのではないでしょうか。例えば、次の罪の赦しや、その次の悪からの救いの祈りの方を先に祈ることが、正しいのではないかと。主のみ前でなければ、真っ先に食べ物のことを願いたいと内心思いつつも、それは神さまに捧げる祈りにはふさわしくない、ましてイエス・キリストが教えてくださる祈りには相応しくないはずだと、主イエスに正しい祈りをしていると見られたいと、食べ物の願いを後回しにするかもしれません。私たちには、罪の赦しや悪からの救いと、日々の食べ物のための祈りは、質の違うもののように思っているところがあるかもしれません。食べ物の為の祈りは、罪の赦しや悪からの救いのための祈りより、質が劣ると何となく思っているかもしれません。そうでいて、日々の糧の祈りの部分が一番、自分自身の言葉として、実存をかけて祈ることができるとも思っているのが、私たちかもしれません。そのような私たちに主イエスは自分たちの祈りの最初に日々の糧のことを願って良いのだと教えてくださるのです。私たちが要求したからではなく、この願いから始めることが主の教えに従うことであるから、嬉しく思うだけでなく、大切に祈らなければ思わされます。
主が最初に食べ物のための願いを教えてくださったことに、主が人間のことを良く知っておられることが伝わってきます。人間にとって食べ物のための祈りが切実なものであることを主が知っていてくださることに、力づけられます。たとえ今、私たちが幸いにもそこまで切実に食べ物のことについては願わなくて良い状況にあったとしても、そうではない人々が私たちの身近な所にも、その他の所にも居ることを、主は見つめ続けておられるのだと、この願いを口にする度、ハッとさせられます。
主イエスが糧のための願いを、深いみ心から教えておられることも、私たちの励ましとなっています。主イエスご自身が、日毎の糧を得るために労苦してこられた方でした。都エルサレムから遠いナザレの村で、きょうだいが何人もいる家庭で育たれ、大工として生計を立てておられました。だからこそ故郷の人々は、安息日に会堂で教え始められた主イエスに対し、この者がこのような知恵に満ちた言葉で教えられるはずがない、人を救うような業をその手で為せるはずがない、日毎の糧を得ることで精一杯な自分たちと変わらない者ではないかと、主イエスを拒んだのでした。
また主イエスは荒れ野で悪魔の試みを受けられた時、40日40夜という長期の断食をされました。空腹の辛さに耐えながら、最初の試みを受けられました。それは、そこらに転がっている石をパンに変えてみよと、神の子ならそれができるだろうというものでした。望めば石をパンに変えること、空腹をご自分の力で満たすことができる方でありながら、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と書いてあると、旧約聖書の言葉をもって試みを退けられました。今糧を手に入れられない辛さも、自分も家族も日々の糧を得ることで精いっぱいな暮らしの辛さも全てご存知である主イエスが、最初に糧を願うことを教えてくださったのです。
罪の赦しと悪からの救いに先立って、糧を願うことで、罪の赦しや悪からの救いが神さまから与えられるように、糧も神さまから与えられるものであることを、主イエスは気づかせてくださいます。糧も、神さまに願うものであります。糧は私たちの生命を支えますが、そもそも私たちの生命も、神さまから与えられたものであります。神さまが命を与えてくださり、存在することへと招き出してくださり、神さまの祝福で満たされた日々を生きていくようにと願ってくださっている、その神さまの祝福の中へと、日毎の糧を願う祈りを神さまに捧げる度に立ち帰らされます。糧を求める言葉によって、お造りくださった神さまと、造られ、与えられてきた者と言う、神さまと自分の関係に立ち直すことへと導かれます。
主の祈りは、この神さまが天の父であることも、私たちに思い起こさせます。神のみ子が、十字架の苦しみと死を前にして、「アッバ、父よ」と祈られ、その苦しみと死によって、私たちを罪による滅びから救い出してくださり、私たちに神さまの子らとして新たに生きることができる道を与えてくださったこと、そのみ子が私たちにも、ご自分に続いて「天にまします我らの父よ」と神さまに呼び掛けて祈るようにと教えてくださったのです。
私たちはともすると、自分の力で生きているように思ってしまいます。けれど真の養い主は神さまであることを、主の祈りの度に気づかされます。このことを、マタイによる福音書6章25節以下の主の言葉によっても、示されます。自分で自分を養って行かなければという思いが、私たちの内に不安をかき立てます。自分の生命の維持と繁栄を自分の力で確保しようとして、思い煩いが行動の原動力となることも、私たちには珍しくないのではないでしょうか。人は、呼吸をするように不安を抱き、不安が思い煩いを次々と生み出し、思い煩いは、自分で自分を養わなければという考えを一層頑なにさせかねません。主イエスの時代の人々も、そうした不安に駆りたてられて畑に種を蒔いたり、実った作物を刈り入れたり、紡いだりしていたのでしょう。主イエスはその民の頭上を飛んでいる鳥や、周りの野に咲く花へと目を転じさせ、鳥や花は労働をしていないのに、養われて力強く空を舞い、その美しさはソロモン王も及ばないと言われます。この主イエスの対比に対し、「鳥も植物も、生命を維持するための活動を日々行っているではないか」と論じても、あまり意味のないことでしょう。主イエスは人々に、こうお語りになっているのではないでしょか。“あなたたちが蒔いたり刈ったり紡いだりしているからといって、労働していない鳥や花よりもあなたたちの方に神さまはより多くのみ心を注いでいるとでも言うのか。あなたたちが、神さまが与えてくださる自然の豊かさをただ享受するだけでなく、自らも日々汗を流しながら生計を維持しているから、神さまは鳥や花よりも多くあなたたちに配慮をしてくださっているとでも言うのか。そうではない。あなたたちの労働の対価として、あなたたちを養っておられるのではない。天の父として、子らに慈しみを注いでおられるのだ”と。労働が否定されているのではありません。自分を養い主としたがる思いから自分を解き放ち、本当に養うことができる方、養って来られた方に、幼子が全幅の信頼をもって自分を親に委ねるように自分を委ねることを、求めておられます。神さまに養われて空を飛び続ける鳥や、ガリラヤの貧しい民にパンを焼く窯の燃料くらいにしか見なされていない野の植物は、神さまが、お造りになったものたちにどれだけ豊かな慈しみを注いでおられるのか、身をもって証ししています。鳥や花にこれほどの慈しみを注いでくださる神さまであるのだから、子らとされたあなたたちには尚更のことではないかと、この神さまがあなたたちを養っておられることに信頼するようにと、主は語りかけておられます。
不安と思い煩いを原動力に行動するよりも、命を与え、養ってくださる父なる神にお応えする行動をしたいと願って何かを為すことが、神さまに造られた私たちの本来の在り方でありましょう。不安は生命に必要な食物や衣服をより多く手に入れることにばかり私たちの心を費やさせますが、神さまは私たちの食物や衣服よりも私たちの命を大切に思ってくださっていると、主イエスは教えられます。命を大切にされる神さまだから、私たちの生命に必要なものも大切に思ってくださいます。それなのに、神さまがそれらに全く心を向けておられないかのように、自分を養うのは自分だと不安でがんじがらめにならないようにと、語り掛けてくださっています。
神の民イスラエルはかつて荒れ野で、次の日に与えられることを神さまから約束されていながら、神さまの養いに信頼しきれず、安息日にマナやウズラを集めようとしました。不安や思い煩いはその人の神さまへの信頼を骨抜きにし、自分の力で自分を生かせるとしてしまいかねないことに気づかされる、まるで自分の姿が描かれているかのような荒れ野の出来事です。それは、主が言われる、自分で自分の寿命を延ばすことができるかのように思ってしまう人の思いでもあります。
主の祈りによって、自分と神さまの関係を思い起こし、神さまへの信頼を新たにします。不安から、今日をこの先のための備えの日としてのみ勝手に位置づけてしまうのではなく、この一日も神さまに捧げ、神さまに委ね、神さまに求める生き方へと導かれます。私たちは、自分に必要なことが本当に分かり切っているわけではありません。しかし主は、私たちが願うべきこと、本当に必要なことをご存知です。主イエスは今日の6:33では、「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われました。神の国とは主の祈りで祈る「み国」のこと、神さまのご支配のことです。神の義とは、神さまのご支配に相応しい在り方であり、行いであります。み国を求めるということは、ただ漫然とそのご支配の中に招き入れられるまで待つことではなく、神さまのみ心にお応えすることを自分の日々において具体的に求めてゆくこと、それを自分の在り方、振る舞い方で実践してゆくことであると、主は教えられます。不安に駆りたてられて、不安を少しでも解消したくて、行動することがありがちな私たちに、神さまの御業と慈しみに感謝して、神さまのみ業に参与することを求めてゆくのだと。それは、主の祈りの前半最後の願いで祈った、御心が天になるように、地にも為させたまえと願うことからつながっています。そのようにみ心の実現を自分の一日、自分の生活、自分の行動に求め続ける人々に、天の父なる神は、生きてゆくために必要なものも添えて与えてくださると約束されるのです。
34節以下で主が教えておられることは、主の祈りで糧を願う時に、「日用の糧」と言われたことと、重なるようです。「日用の」と訳された言葉は、「日毎の」とも訳されます。「今日の」「この日の」という意味の言葉です。「明日の」という意味に取ることもできると言われています。祈る時間が一日の終わりであれば、今日与えてくださったように、明日も与えてくださいと願う言葉となるでしょう。日々祈る主の祈りにおいて、一日、一日の糧を願うように、教えてくださいました。
マタイによる福音書6:34も、「明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う」とあります。「その日の苦労はその日だけで十分である」と言う主の言葉に、私たちは慰めを与えられてきたのではないでしょうか。人が担う重荷は、その日の分だけで十分であると、明日やその先に担うであろう重荷のことまで案じることなどできないほど、私たちにとってその日、その日の重荷は十分に重たいことを、主はご存知です。「明日のことを思い煩ってはならない」とは、先のことを考え計画することを全部放棄しなさいという意味ではなく、今日の一日を大切に生きるようにと言われているのでしょう。ここまで主が告げてこられたことを思えば、その日担う重荷は、ただ苦労というよりも、み国と神の義を求めることと切り離すことはできないでしょう。その重荷を負いつつの苦労を、主が、その日一日で十分であると言われるのです。その主イエスは、重荷を一日共に担ってくださってきた方であるとも言えるでしょう。
主の祈りによって、神さまに養われていることを感謝し、この日の養いも信頼し、感謝と信頼を表すために何をできるのかと祈り求めることへと、日々押し出されてゆきたいと願います。手にできているものは不十分なのではないかと、自分で自分を養えないのではないかと不安に陥り、父なる神に養われていることを忘れる私たちです。では豊かであれば常に揺らぐことが無いのかと言えば、豊富に手にできれば今度は、自分で自分を養えていると思い込み、神さまに生かされていることを忘れる私たちです。だから、箴言30章の「貧しくもせず、富ませもせず、私にふさわしい食物で私を養ってください」という言葉もまた、私たちの行く道を照らし続けます。箴言がこう語るのは、糧を十分に手に入れ続けられるかどうかという不安からではありません。自分がこうなりかねないと言う自分の弱さを見据えつつ、神さまの義のために願います。満ち足りることで、神さまを知らないと言ってしまうことがないようにと、また、貧しさから、神さまのみ心に相応しくない振る舞いに陥り、み名を汚してしまうことがないようにと願います。神さまの義が自分において為されることを求める願いであるから、この願いが「虚しいものや偽りの言葉を私から遠ざけてください」との願いに続いていることは、当然のことと納得させられます。地上の朽ちてゆく空しいもの、私たちを真に生かすことのできない偽りの言葉に自分を近しく、親しくさせ過ぎてしまうと、神さまのみ前に歩む幸いから遠ざかってしまうから、虚しいものではなく、神さまの言葉を、神さまからの養いを、神さまによって生かされていることを感謝する日々を、願うのです。
心と体と魂にとって切実な日毎の糧のための願いを、神さまを父とお呼びできる神さまとの親しい交わりの中で、日々祈ることのできる恵みを感謝いたします。
