闇から光を分け、水と水を分け、水から大地を分け、そうやって順に秩序立ててくださった世界を、神さまは生き物たちの住まいとしてくださいます。水中にも大空にも、生き物たちが創造されます。大地には、生き物たちをお造りになる前に、更に備えを為さいます。種をつける草と、種を結ぶ果樹を生やしてくださったので。それら草や木々の種や実や葉や茎は、後からもたらされる生き物たちの食糧となります。種や実によって植物は大地に増え続け、豊かに繁り、生き物たちを養い続けるものとなります。こうして住まいも生命を育んでゆくものも整えてくださった所に、家畜や這うもの、獣たちが創造されます。人の創造はそれからです。
創造について語る創世記の冒頭の部分は、危機の中にある人々に対して書かれたのだと考えられています。「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった」。最低限に絞られた簡潔な文の言葉一つ一つが、礼拝で聞く人々の心に響いて行ったことでしょう。危機の中で人は普段は考えずに済むようなことを考えないわけにゆかなくなります。この状況の中で自分は何を源とすべきなのか、この状況の終わりには何があるのか、自分たちは何を見つめてこの時を耐えるのか、今、神はこの時を共にしておられるのか、そのような自分の存在、自分の大切な人の存在の根源にあるものを考えずにはいられません。そのような人々のために紡がれた言葉は、時代を越えて、根源にあるものを問う一人一人の心に響き続けます。
木彫りの獅子。クリスチャンにとってそれは、自分が長年イメージしてきたキリストかもしれない。常に自分に安らぎを与え、いつも自分を赦してくれるような、そんなキリストなのかもしれない。長い間何の疑いもなくそのキリストと戯れ、来る日も来る日も飽きずにその木彫りのキリストを大事にしている。クリスチャンにはそういうところがあるのかもしれない。しかしそれは本物の生きたキリストではない、としたらどうだろう。我々は本物の、生きたキリストをイメージ出来ない。キリストはこういう方だと決めつけることなど出来ない。欠けのある我々罪人の思惑なんかに押し込められるような存在ではないからだ。もし我々の思惑通りにキリストを描いたとしたら、それは本物のキリストではない。本物のキリストは、ただ神からの働きかけによってのみ、恵みによってのみ、本来ならば出会う値打ちもない我々罪人に出会って下さる。そういう存在であるからだ。
私たちが思い描く喜びとは、どのようなものでしょうか。楽しくて嬉しくて気持ちが高揚してくる、わくわくするような喜びがあります。あるいは、あなたはそのままで良いのだと、よく頑張って来たねと何もかも肯定してくれる、居心地の良い温かさを感じさせてくれる喜びもあります。喜びとはそのようなものなのだと思い、喜びをその枠の中でばかり考えがちな耳に、十字架と復活の出来事は、すぐには喜びの調べを奏でません。
ゴルゴタという所へ「向かわれた」とあるのは、ゴルゴタがエルサレムの都の外にあり、都を出てそちらに向かったということでありましょう。生きている人々のための都を出て、罪人たちを死に引き渡す処刑場へと、罪無き方が向かってゆきます。晩餐の席でペトロは、自分の足を主イエスが洗うことに対して、“そのようなことは私がするべきことで、先生であり、主であるあなたが私の為にすることではありません”と、止めようとしました。しかし、処刑場に向かう主イエスを止めようとする者は誰もいません。
親しい人が亡くなると、その人の死の間際のことが強い印象を私たちにあたえます。その人のことを思う度に死の前のことが思い返されます。まして相手から、このことを覚えていて欲しいと言われたり、このことをして欲しいと言われたことは心に残り、託されたことについて考え続けるのではないでしょうか。主イエスも弟子たちの心に残り続け、託されたことを担ってゆくようになることを願って、十字架にお架かりになる前の晩に、死を前にしたこの時だからこそ、彼らに語り掛けられたことでしょう。
ペトロは自分の弱さを認められなかったのに、主イエスはペトロの弱さをご存知でした。にもかかわらず、“私を知らないと繰り返すお前とはこれまでだ”と関係を切るのではなく、復活したらガリラヤへ先に行っていると言われました。ご自分から離れ、散り散りに去る者たちと、死を超えて共に居てくださる方であることを教えられました。
今から930年前の1095年、時のローマ法王ウルバヌス2世が説教でこんなことを語った。
「キリスト教団は異教徒から聖地や聖なる遺蹟を取り戻すべきだ」。
それはその頃、エルサレムから戻って来た巡礼者たちより、「イスラム教徒たちによって聖地は冒涜され、巡礼者たちがひどい扱いを受けている」との報告を受けての言葉だった。これがその後200年続く十字軍の起こりであった。
しかしその標的はイスラム教徒だけではなかった。これに付随して、ユダヤ民族の殉教の時代の幕が開いたと言われる。「キリストの流した血は、彼を殺したユダヤ人の血を流すことによってかたき討ちするのだ」。そう唱えた指導者がいたからだと言う。
信仰と宗教的情熱とは別物だと思う。信仰は燃えれば燃えるほどその人を神への祈りに、隣人への愛と赦しに誘うように思うが、単なる情熱は目に見える結果を残すことばかりに躍起になり、ありとあらゆる方向に拡散していく。
福音書は、復活された主イエスが弟子たちを訪ねられ、何度も彼らと食事を共にされたことを伝えています。この過越の食卓でされたように、パンを取り、割いて弟子たちに分け与えられる主イエスから弟子たちは受け取り、パンを噛みしめながら、かつて復活されると約束された主イエスの言葉を思い起こし、本当に主イエスは復活されたのだと、生きておられるのだと喜びも味わったことでしょう。私たちが聖餐の食卓で聴く、「取って食べなさい。これは私の体である」「この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」、これらの主の言葉も、この晩主が言われた言葉です。この言葉を聖餐の食卓から聞き、キリストの体と血をいただき、そうして新しい命に生きることができることができる、そのために主が受けられた苦しみがあることを思います。
主イエスはエルサレムに来られる前からこれまで、既に三度に渡ってご自分が民の指導者たちから苦しみを受けて殺されることを弟子たちに告げて来られました。苦しみと死だけでなく復活されることも必ず告げておられました。しかし、彼らの目の前で主イエスが捕らえられ、殺される瞬間が二日後に迫っているこの時、主イエスは十字架に焦点を絞って告げられます。目に見えることだけで決めつけ、絶望に陥っていくであろう弟子たちに、十字架に向かって行かれる方は、栄光の内に再び来られることを約束された方であることを心に刻み付けるようにと、ご自分が見据えている十字架を共に見るようにと、呼び掛けておられるようです。