過去の説教

過去の説教 · 2024/06/11
私たちは人間関係や経済的な問題、想定外に降りかかる出来事に、胸潰れる様な思いをすることがあります。自分や家族が心身に抱える困難が、日常を大きく変えることもあります。心の内にずっと生き辛さを抱えながら長いトンネルの中を這うような日々もあるかもしれません。不安を抱かずにいられる人はいません。主イエスはその私たちの心をよくご存知です。その上で「思い煩うな」と山上の説教で言われました。「思い煩わない方が良い」でもなければ、「思い煩わない様にしましょう」でもなく、「思い煩うな」と命じられたのです。
過去の説教 · 2024/06/04
祈りと言うと私たちが先ず思い浮かべるのは、礼拝の中でいつも祈る「主の祈り」ではないでしょうか。私たちにとって身近なこの主の祈りが記されている箇所を、今日はマタイによる福音書から聞きます。この祈りを与えてくださった主イエスの言葉に、とりわけ祈るとはどのようなことなのか教えてくださった言葉に、耳を傾けてまいります。
過去の説教 · 2024/05/27
神から「その木からだけは決して食べてはいけない、食べると死んでしまう」と言われていた最初の人間アダムとエバを蛇はこう囁いて誘惑した。「食べても死なない。むしろ食べれば目が開け、あなたがたは神のようになれる。」実は食べる前からアダムもエバも目は開いていた。最初に誘惑されたエバが木の実を見るといかにも美味しそうで、「食べろ、食べろ」と背中を押されているように感じたと聖書に書かれている。結局二人とも食べてしまい、その結果二人は裸であることに気づいていちじくの葉で腰を覆ったと聖書は伝えている。 二人は「見えるようになった」のではない。むしろそれによって本当に大切なものが見えなくなり、それ以来、二人の子孫であるすべての人間は神と出会うことも、神の声を聞くことも出来なくなってしまった。そうして、本当に見るべきものを見ることが出来なくなっている。
過去の説教 · 2024/05/21
五旬祭の日、エルサレムのある場所に主イエスの弟子たちが集まっていたところに聖霊が降り、弟子たちの群れが聖霊のお働きによって教会とされました。教会の大切な出発点の一つであるこの出来事を思い起こし、お祝いする祭は、キリスト教においてペンテコステと呼ばれるようになり、イースター、クリスマスと並ぶ三大祝祭の一つとなりました。知名度も、盛り上がりも、他の二つに比べると地味な印象を持たれがちなペンテコステを、教会は何故大切にお祝いしてきたのか、今日は使徒言行録の1章を中心にペンテコステの恵みを受け止めてゆきたいと思います。
過去の説教 · 2024/05/13
自分の人生の日々に幸せがあることを私たちは願っています。家族や親しい人々、大切な人々の日々にも幸せがあることを願っています。何を幸せと思うのか、人によって様々でしょう。その人のこれまでの人生や周りの人々、置かれている社会がどのようなものに価値を置くのか、その影響を受けつつ、その人の“幸せ観”といったものが形づくられてきたことでしょう。何を幸せとするのか、それによって、自分の人生で何に重きを置き、何を優先させるのか、変わってきます。
過去の説教 · 2024/05/06
ペンテコステの出来事によって最初の教会とされた弟子たちの群れの一人一人はどのような人々であったのでしょうか。その人々はどのように主イエスの弟子となったのでしょうか。この美竹教会だけでなく世界中の教会で、今日も神さまに礼拝を捧げている人々がいます。最初の弟子たちは、キリストに従う一歩をどのように踏み出したのでしょうか。私たちの今につながる一歩は、どのようなものだったのでしょうか。
過去の説教 · 2024/04/30
皆さんは、これだけは譲れないもの、というものがあるだろうか。人間としての誇り、プライド、自尊心。或いは人間としての良心。それは誰の中にもあるし、なくてはならないものであろう。プライドや自尊心が傷つけられれば、誰もがそれを必死で守ろうとするのではないだろうか。それは当然である。ただ、どうなのだろう。得てして人は、置かれた立場によって変わってしまう。地位や権力を持つ人は、これだけは譲れないものとして今の地位や権力を手放すまいとあれこれ策を弄し続ける。財を積み上げた人は、財産が失われないよう入念に手を打っておくだろう。人間関係においても、若い頃は平気で人を傷つける言葉を口にしていたのに、落ち着いた今は恵まれた人間関係の中にあるとしたら、ヒビが入らないように、心のどこかで計算しているところがあるのではないだろうか。そのように、譲れないものは徐々に変わって来るのかもしれない。志とかプライドは影を潜め、むしろ今の状態を維持する為になくてはならないものこそが最も譲れないものとなって来るように思う。そうして人間は地位だとか名誉だとかお金だとか人間関係だとか、そういうものに縛られていくのかもしれない。
過去の説教 · 2024/04/23
主イエスが荒れ野で試みを受けられたことを、神のみ子は当然試みを退けるのだから、主イエスにはそのような試みは必要なかったのにと、この出来事は主イエスにとって意に反して、思いがけず降りかかったことのように私たちはとらえがちですが、試みは主イエスにとって青天の霹靂だったわけではありません。主イエスの歩みを荒れ野で妨げ、貴重な時間とエネルギーを奪った、余計な出来事ではありません。聖霊が試みを受けるために主イエスを導かれたのであり、神のご意志に従うものでありました。聖霊なる神と父なる神が主イエスと共におられるとはどういうことであるのか、主イエスが神の子であられるとはどういうことであるのか、そのことを深める道を、洗礼に続いて取ってくださったのです。
過去の説教 · 2024/04/15
洗礼を願う者はそれぞれにヨハネと川の中に入ってゆき、水の中に全身を沈めて洗礼を受けていたのでしょう。川のほとりには、洗礼の順番を待つ大勢の人々がいたことでしょう。その日、その人々の中に主イエスがおられたことを福音書は伝えます。ガリラヤの地ナザレから荒れ野のヨルダン川のほとりにやって来られたのでしょう。他の人々と同じように順番が来るのを待ちながら、洗礼を受ける一人一人の姿を見つめておられたのかもしれません。これが、この福音書でクリスマスの出来事以来初めて、主イエスが登場される場面です。
過去の説教 · 2024/04/08
私たちは、神様の恵を心に受け止めること、心に留めることができなくなってしまうほど、不安や怒りや疑問に心が頑なになることがあります。心がささくれ立つようにイライラとしたり、何を見つめるべきなのか分からず、心の視線が定まらず、キリストの苦しみも死も、自分の人生と重なるところの無いものに思えてしまうこともあります。私たちの心はしばしば、岩や石や砂が広がり、緑は僅かしか育たず、水も栄養も保ち続けられない荒れ野のようです。荒れ野に風が吹けば砂埃が巻き起こるように、何か想定外の事が起これば心の中に恐れが湧き起こり、ザラザラとした不快な不安に被われ、視界が遮られてしまいます。  荒れ野のような日々は私たちにとって辛いものでありますが、自分の内側が荒れ野のようであると気づき、荒れ野のような自分であることを認めることができる時、神さまの言葉が初めてその意味をもって響いてくるということがあるように思います。

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