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心の貧しい人の幸い

「心の貧しい人の幸い」詩編42:1~7a、マタイ5112

2024512日(左近深恵子)

 

 自分の人生の日々に幸せがあることを私たちは願っています。家族や親しい人々、大切な人々の日々にも幸せがあることを願っています。何を幸せと思うのか、人によって様々でしょう。その人のこれまでの人生や周りの人々、置かれている社会がどのようなものに価値を置くのか、その影響を受けつつ、その人の“幸せ観”といったものが形づくられてきたことでしょう。何を幸せとするのか、それによって、自分の人生で何に重きを置き、何を優先させるのか、変わってきます。

 

 先ほど共にお聞きしましたマタイによる福音書の箇所は、「山上の説教」としばしば呼ばれる、57章に渡る主イエスの教えの中にあります。新約聖書の元の言葉で今日の箇所を見てみますと、8つの教えはどれも「幸いである」という言葉から始まり、幸いとは何であるのか、繰り返されます。何が幸いであるのか、聞き手が受け止めることを求める主イエスの願いが伝わって来るようです。私たちが何を幸いとするのか、それが私たちにとって非常に大切であるからこそ、主イエスは8回、同じように語られたのではないでしょうか。

 

この教えは、主イエスが人々の間で働きを始められてから間もない頃であったことを、マタイによる福音書は伝えています。このところこの福音書から聞いてきておりますように、大人になられた主イエスが最初に人々の前に現れてくださったのは、洗礼者ヨハネが人々に罪を悔い改めるための洗礼を授けていた、ヨルダン川のほとりでした。他の人々と同じようにヨハネから洗礼を受けられた主イエスは、荒れ野に行き、そこで悪魔から試みを受け、人々を神さまから離れさせている罪の力と対峙されました。その上でガリラヤの地域で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、福音を宣べ伝え始められました。ガリラヤ湖で魚をとっていた4人の漁師を弟子となることへと召され、また人々を癒やされました。癒しは、天の国が近づいたと告げるみ言葉の意味を示すものでした。この方のお話を聞きたいと大勢の人が集まってくるようになりました。ご自分を求めて集まってきた群集をご覧になった主イエスが山に登られ、語られたのが、山上の説教です。

 

 主イエスは山に登られると、腰を降ろされました。それを見て弟子たちは、傍に集まってきます。人々が集う場所に来て腰を降ろすのは、律法学者やラビと呼ばれるユダヤ教の教師たちが人々を教える時の所作であるので、弟子たちは、これから主イエスが教えを語られるのだと備えたのです。主イエスの傍に居たのは弟子たちです。しかし群集たちにもその声が届いていたことが、「山上の説教」を主イエスが語り終えられた7章終わりで、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群集はその教えに驚いた」と記されていることから分かります。主イエスが教えを語られたのはそもそも、ご自分を求めて集まって来たこの群集を見たからでした。主イエスの教えに、群衆も耳を傾けました。そして彼らは驚きました。それは主イエスが、群集たちの身近にいる「律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったから」だとあります(72829)。主イエスは、他の教師たちのように腰を降ろして語り始められましたが、この方は他の教師たちのようではなかったと、教師以上の特別な権威を持つ方なのだと、驚いたのでした。

 

 山上の説教の初めに主イエスが語られたのが、今日の幸いについての教えでした。私たちが思っている幸いとは逆のようなことも「幸いである」と語っておられます。では主イエスは幸いをどのようなものとして語っておられるのか、先ず「幸いである」という言葉の意味を受け止めたいと思います。

 

 「幸いである」と語ることは、既に旧約聖書から為されてきたことでした。主なる神に信頼することができずに神さまに背き、結果としてバビロニア帝国の捕囚となっている神の民に、預言者イザヤは、神さまが救いの時をもたらしてくださることを告げ、「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む者は」と語っています(イザヤ3018)。今はまだ見えていない救いを、主に信頼して待ち望む者は、幸いであると語ります。

 

エレミヤも、神さまではなく人間を頼みとしてしまっている神の民に、神さまの言葉を告げた預言者です。人間を頼みとすることは、肉なる者を自分の腕とすることであり、その者は荒れ地のねずの木のようになると、それは幸いが来ても見ず、荒れ野の乾いた地、人の住まない塩の地に住むようなものなのだと、孤独と渇きの中で干からびていくようなものだと語り、そうではなく主に信頼しなさいと、「祝福されよ、主にしんらいする者は」と呼び掛けます。その人に与えられる祝福とは、主がその人のよりどころとなられ、その人は水のほとりに植えられた木のようになり、川の流れにその根を張り、暑さが来ても恐れることなくその葉は茂り、干ばつの年も恐れることなく絶えず実を結ぶことであると告げます(エレミヤ1758)。これらの預言者たちが語るように、聖書において「幸い」は、神さまに信頼し、神さまのみ言葉に耳を傾ける人々の、神さまとの正しい結びつきにもたらされるものを表わしてきました。神さまのご意志を受け入れる人々において神さまが為してくださることが、「幸い」であるのです。

 

イザヤの言葉に「幸い」が登場し、エレミヤの言葉に「祝福」が登場したように、山上の説教で用いられている「幸い」という言葉も、「祝福」と訳すことができます。この言葉には「幸福な、幸せな、祝福に満ちた、恵まれた」という意味があるのです。「幸い」という日本語の表現にあまり親しみを感じられない、堅い、という印象を持つ方もあるかもしれませんが、豊かな表現で語られていることが分かります。

 

8つの教えのそれぞれ後半には、その人々にもたらされるものが語られます。受け身の形で語られることによって、間接的に、それらをもたらしてくださるのは神さまであることが示されます。神さまとの関りの中に自分自身を置き、神さまのみ言葉と導きに従うことを求める歩みに、神さまが応え、もたらしてくださるものこそ、私たちにとって幸いであり、幸福であり、恵みであり、私たちを祝福で満たすのです。

 

 8つの幸いを一回の説教で語ることは難しいので、今日は第一の幸いに特に耳を傾けたいと思います。主イエスは「幸いである、心の貧しい人々は」と語られます。「心の貧しい人々」と訳されている言葉を語順そのままに訳すと、「貧しい人々、心において」となります。「心において」という説明から、主イエスが語っておられる貧しさは、経済的、物質的な状態を言っておられるのではなく、人の内側についてであることが分かります。では、内側が貧しいとは、どのようなことを表しているのでしょう。ここで用いられている「貧しい」という言葉は、何も無いことを表します。通常、財産の不足を示すために用いられるのは別の言葉です。ここでは、足りない状態、働くなり何らかの方法で補う必要のある、補うことのできる状態ではなく、全く財産を持っていない状態を指します。全く無いので、生活の必要を満たすために物乞いをしなければならないほどの状態であります。この言葉は物乞いすることも意味するような、極めて貧しい状態を表わすのです。

 

 心において貧しいとは、自分が生きていくことを支えるものが自分の中に何も無い状態です。与えられなければ生きていけない状態です。けれど私たちは、自分の中にそれなりに豊かさがあると主張したくなる者です。例えば社会的に高く評価される経歴を持っているとか、これまで貴重な経験を積んできているということを、豊かさだと言いたくなります。自分が携わっていることにおいて成功したとか、得難い人脈を持っているということや、高い志を持って生きているということを、自分の誇りとし、それらを自分の人生の拠り所とできると言いたくなります。

 

しかし、神さまとの関りの中で私たちが持っているものを改めて見つめると、自分を本当に生かし、支えられる確かなものは持っていないことに気づかされます。私たちが誇りとする一つ一つは大切な宝ではあるものの、不動のものではありません。社会の価値観が変われば評価も変わるかもしれません。過去の経験がこの先にも通用するとは限りません。自分が得て来たそれらの宝を、自分の人生の何のために生かすのか、自分の歩みは何を目指すべきなのか、決断を下す拠り所となる確かさも自分の中にありません。願いを持っていても、その願いを実行に移して行く中で自分の力の足りなさや、自分を重んじるように他者を重んじきれない自分の歪みに、歩みが揺さぶられます。自分の命と人生を委ね、依り頼むことのできる確かさが自分に必要であるのに、必要なものを自分は持っていないのだ、自分は極めて貧しい者なのだと気づく人、自分に神さまが必要なのだと気づく人、それが「心の貧しい人々」です。ここで主イエスは、裕福であることや社会的に地位が高いことが、神さまのみ心に反していると言われているのではありません。貧困の中にある者、社会的に地位の低い者がすなわち敬虔な者であると言っておられるのでもありません。財産や社会的な評価にかかわらず、自分の内なる貧しさに気づき、そのような自分であることを神さまのみ前で認め、神さまに信頼し、ただ神さまの憐れみを求める人々を、心の貧しい人々と言われています。

 

自分の中に自分を生かす確かなものが何も無いことを知る者は、神さまを求めます。自分自身や誰かの力では何とかならない貧しさの中で、心から神さまを求めます。先ほど詩編の言葉を聞きました水を求めて川にやって来た鹿が、日照り続きで干からびている川床に水を求め、悲しく鳴き声を上げている、この鹿の姿に詩人は自分を譬えています。神さまを渇望し、神さまに近づこうとしています。神さまがおられなければ自分は衰えるしかありません。神さまという命の水がなければ生きていけません。詩人は、神として何となくイメージされるものへの何となくの憧れを綴っているのではありません。生きておられる神さまが授けてくださる、自分の命を回復させ、守ってくださるものを切望しています。詩人は今、異教の地にあると考えられています。かつてエルサレムの神殿で務めを担っていたと考えられるこの人が、異教の地で、異教の神々を信じる人々から、“こんな目にあなたを遭わせたままで、「あなたの神はどこにいるのか」”と、“お前は神に見捨てられたのだ”と、昼夜問わず嘲られ、命の神を求めているこの詩人の糧は涙ばかりです。それでも詩人は神さまに祈ります。かつて神の民の導き手として神殿で奉仕をし、人々と共に神さまを礼拝した時の喜びと賛美の記憶が祈りへと向かう力となり、魂を注ぎ出します。自分を救うことができるのは、生きて働かれる神さまだけです。「私の魂よ、なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め」と、「私はなお、神をほめたたえる。『御顔こそ、わが救い』。わが神よ」と自分に語り掛けます。かつて自分を喜びで満たしてくださった神さまは、今も自分を見捨てるはずがないではないか、だから神さまを待ち望もうと呼び掛け、神さまに信頼し、命の水なる神さまを待ち望む希望に堅く立つのです。

 

生きて働かれる神さまが共にいてくださることが、人が生きていくために無くてはならないことを、詩編の詩人は、涸れ谷で水をあえぎ求める鹿に譬えて語りました。イザヤも、乾きのイメージをもって語りました。エレミヤも、主に信頼する者を、水のほとりに植えられた木に譬えて語りました。このように神さまに信頼し、神さまを渇望する人々に、神さまは天の国を与えてくださると主イエスは言われます。イエス・キリストが世に来られたことによって天の国、つまり神さまの王としての支配は、人々の近くへともたらされました。その神さまのご支配を与えてくださると言われます。神さまに渇きを潤されるその人の、信仰によって重ねる歩みに、神さまが葉を茂らせ、実りを結んでくださいます。神さまがもたらしてくださる実りの豊かさは、イエス・キリストが再び来られ、救いが完成される終わりの時に、最終的に明らかになります。実りの全てを今見ることはかなわないでしょう。それでも、神さまが葉を茂らせ、実りを結んでくださる約束に信頼して歩むことのできる者は、この先訪れるかもしれない危機への恐れが消え、真の王なる神さまだけを畏れ、生きて働かれる神さまが潤してくださることを求め続ける者となります。その中に神さまのみ前で誇れるものが何も無い心を抱えた私たち、他者を受け入れることに小さく、澱みを自分の努力ではきれいにすることのできない心を抱えた私たちは、幸いな者では全くありません。その私たちを救うために、神さまはイエス・キリストの十字架によって決して揺らぐことの無い赦しを与え、私たちに幸いをもたらしてくださいました。貧しく、濁った私たちの心を、神さまの恵みで満たしてくださいました。だから私たちはもはや、自分の中により確かな拠り所を獲得しようと内に足し続ける、どこまでいっても安心することのできない戦いを戦わなくて良いのです。主イエスが既に私たちの罪に勝利しておられるのです。私たちは、今を起点に、自分の人生にこの先何を得られるのかによって幸いを測ろうとする生き方から、終わりの時に完成される幸いから今を見る生き方へと、変えられたのです。

 

マタイによる福音書は、ガリラヤで福音を宣べ伝え始められた主イエスにおいて、預言者イザヤを通して言われたことが実現したと語り、イザヤの言葉をこのように引用しました、「闇の中に住む民は/大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に/光が昇った」(マタイ416)。主イエスはその教えを通して、そしてご自身の命をささげることを通して、闇の中にいた人々に、光をもたらしてくださいました。神さまの命の水を得られず、乾ききってしまう死の危機にある人々に、生ける神の現臨を示してくださり、キリストに従って歩む人々に、死を超えて終わりの時から今を照らす光を示してくださいました。

 

 今、自分の中に、自分が依り頼める確かなものが何もないことを神さまのみ前で知る人は、既に幸いの道にあります。闇を貫く光に照らされつつ、神さまの祝福を数えながら進む幸いの道を歩み始めています。この幸いに感謝いたしましょう。