過去の説教 · 2025/06/30
創造された世界が、その心に計る事ことごとく悪に傾く人間によって汚され、崩され、壊れてゆくことに、後悔と心痛で、内に激しく捻転する思いを持たれ、愛する者たちが悪に魅かれ、身を委ねて、破壊的な陶酔に陥ってゆくことに耐え難いパトスを覚えられた神は、幼い時から悪に足を掬われ続ける人間を裁き滅ぼし尽すのではなく、むしろ、心痛と嘆きの極みにおいて、独り子なる主イエス・キリストの苦難と十字架の死をもって、罪も悪も滅ぼし尽された。御子の裂かれた肉と流された血によって、信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得させるために。
過去の説教 · 2025/06/24
一年の中で、世界中で、またこの日本で教会が最も注目を集める時。それはクリスマスのシーズンかもしれない。教会に最も人が集まる時、と言っても良いように思う。しかし教会は、決してその時だけ存在しているのではない。風が吹こうが嵐に見舞われようが、何が起ころうとも教会は日曜日に礼拝を守っている。それは何の為なのだろうか。そこに、一人も欠けることなく全員というのはあり得ないとしても何人かのクリスチャンは必ず集まって来るのは果たして何の為なのであろうか。
過去の説教 · 2025/06/16
世界と人を含む様々な被造物をお造りになった神さまは、人間たちに、「産めよ、増えよ、地に満ち」よ言われて、この先、人が進み行く道を祝福してくださいました。では増えた人々はどのように生きる者となったのか、その人々に託されている地はどのようになったのか、創世記第6章は明かにします。  人の悪が地にはびこっています。人が心に計ることは常に悪に傾いています。そう5節に記されています。神さまはその様を見つめておられると。
過去の説教 · 2025/06/10
使徒言行録の今日の箇所が伝える出来事は、教会の根源にあるものが何であるのか教えてくれます。教会の根源にあるものよりも自分の今日や明日をよりよく生きることの方が自分にとって重要であるように思いがちな私たちです。けれど、今日や明日をより良く生きたいと願う私たちに、命と存在を与えてくださっているのは神さまです。その神さまの恵みを、私たちは教会を通して知ります。一人一人の日々の土台は、教会を通して与えられます。教会の始まりは私たちの日々の根源でもあるのです。
過去の説教 · 2025/06/09
「シャローム」。主にある平和がありますように。それは誰が聞いても悪い気はしない、聞き心地の良い言葉かもしれない。教会はそういうところなのか、と思ってくれる人もあるかもしれない。それなら、友人知人を誘ってみよう、と思う人もあるかもしれない。しかしそれがただのきれいごとだとしたら。そのような言葉を語って表面だけを綺麗に着飾って見せているだけの場所が教会だとしたら。それは実に重い罪ではなのではないかと感じている。本当の平和とは何であるのか。それをもたらすのは誰であるのか。なぜそれが平和であるのか。そのことをはっきりと伝えることもしないで、人間の罪がどれほど重く根深く救いようのないものであるかを認めもしないで、ただキリストの十字架によって皆さんは赦されているのだからと言う一言で片づけているだけなら、先週の繰り返しになるが、そこには決して神の国は芽生えないだろう。
過去の説教 · 2025/05/26
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」これがこの地上における神の子イエスの宣教の第一声であった。ではイエスを世に遣わした神の第一声は何であったか。「光あれ」である。旧約創世記の第一章で、まだ地は混沌として闇が深淵の面にあった状態のこの世に向かって放たれたそれは神の第一声であった。この創世記の冒頭にある一連の言葉を祈りを深めつつ何度も読み重ねられて生まれた言葉。それが先ほど読まれたヨハネによる福音書の書き出しの言葉であったと言われている。
過去の説教 · 2025/05/19
第二の創造物語が描く始まりの状態は、荒涼とした砂漠、あるいは岩や石がゴロゴロとした荒地のようです。全てが乾ききって、生命を維持できる状態ではありません。第一の創造物語が描き出す情景とは対照的に思えますが、生きていくことができない危機的な状況ということでは同じだと言えるでしょう。第二の物語では、神さまの創造のみ業は、神さまが潤いを与えることから始まります。砂漠のように形が定まらない、あるいは岩のように固い地表が、湿った土へと変えられ、そうして生きることができる世界へと変えられたところに、神さまは人を創造されました。
過去の説教 · 2025/05/12
 闇から光を分け、水と水を分け、水から大地を分け、そうやって順に秩序立ててくださった世界を、神さまは生き物たちの住まいとしてくださいます。水中にも大空にも、生き物たちが創造されます。大地には、生き物たちをお造りになる前に、更に備えを為さいます。種をつける草と、種を結ぶ果樹を生やしてくださったので。それら草や木々の種や実や葉や茎は、後からもたらされる生き物たちの食糧となります。種や実によって植物は大地に増え続け、豊かに繁り、生き物たちを養い続けるものとなります。こうして住まいも生命を育んでゆくものも整えてくださった所に、家畜や這うもの、獣たちが創造されます。人の創造はそれからです。
過去の説教 · 2025/05/05
創造について語る創世記の冒頭の部分は、危機の中にある人々に対して書かれたのだと考えられています。「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった」。最低限に絞られた簡潔な文の言葉一つ一つが、礼拝で聞く人々の心に響いて行ったことでしょう。危機の中で人は普段は考えずに済むようなことを考えないわけにゆかなくなります。この状況の中で自分は何を源とすべきなのか、この状況の終わりには何があるのか、自分たちは何を見つめてこの時を耐えるのか、今、神はこの時を共にしておられるのか、そのような自分の存在、自分の大切な人の存在の根源にあるものを考えずにはいられません。そのような人々のために紡がれた言葉は、時代を越えて、根源にあるものを問う一人一人の心に響き続けます。
過去の説教 · 2025/04/28
木彫りの獅子。クリスチャンにとってそれは、自分が長年イメージしてきたキリストかもしれない。常に自分に安らぎを与え、いつも自分を赦してくれるような、そんなキリストなのかもしれない。長い間何の疑いもなくそのキリストと戯れ、来る日も来る日も飽きずにその木彫りのキリストを大事にしている。クリスチャンにはそういうところがあるのかもしれない。しかしそれは本物の生きたキリストではない、としたらどうだろう。我々は本物の、生きたキリストをイメージ出来ない。キリストはこういう方だと決めつけることなど出来ない。欠けのある我々罪人の思惑なんかに押し込められるような存在ではないからだ。もし我々の思惑通りにキリストを描いたとしたら、それは本物のキリストではない。本物のキリストは、ただ神からの働きかけによってのみ、恵みによってのみ、本来ならば出会う値打ちもない我々罪人に出会って下さる。そういう存在であるからだ。

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