過去の説教 · 2024/07/23
ある日主イエスはその弟子たちの内12人を、町や村に遣わされたことを先ほど聞きました。この箇所を、これは特別な12人の話だからと、横目で見るように通り過ぎてしまいがちな私たちでありますが、果たしてそうでしょうか。今日の箇所の直前に、この12人について述べられています。12人は、自分でそう思い立って、自分を人々の所に遣わしてくださいと、主イエスの所にやって来たわけではありません。主イエスが彼らを呼び集めました。彼らが選ばれたのは、その能力や資質が選考のための審査で認められたからとは書かれていません。主イエスが12人を選ばれ、呼ばれた、それが理由です。
過去の説教 · 2024/07/15
「指導者」と呼ばれるこの人は、役人、それも上に立つ役職の人であったのだろうと考えられています。この人も、律法を重んじていたことでしょう。そうでなければ神の民の共同体で、指導者として認められることは難しかったでしょう。そのような人が、律法を守ることができずにいる人々と食事をしている主のところへと来ることも、主イエスが人々から批判を浴びているその只中で主の前へと進み出てひれ伏すことにも、驚きを覚えます。この人を突き動かしていたのは、娘を失いつつある親の思いでした。
過去の説教 · 2024/07/10
 水への「渇き」は、命の維持するのに欠かせない疼きと衝動として感じるものです。断食で食べない期間があったとしても、水分は一日と飲まずにいることはできません。今日の詩編は、この命の疼きに重ね合わせるようにして、魂が求める「渇き」を呻くように絞り出しています。「鹿が涸れ谷で水を喘ぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」と。乾ききった川床に、どんなに水を求めても見いだせない鹿の喘ぎになぞらえて「神に、生ける神に私の魂は渇く」と。魂が干上がり干からびて脱水状態に陥っている状態を研ぎすまされた感性で捕らえて言葉にしているのです。 のどの渇きと魂の渇きを重ねて詩編42編は歌いますが、実は旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「のど」も「魂」もネフェシュという同じ言葉なのです。「のど」は息の通るところであり、神の息を吹き入れられて人は生きたもの(原語で「ネフェシュ」となった、生きた魂を持つものとされた(創世記2:7)。   人は「のど」だけが渇くのではなくて、「魂」もまた渇くものなのだ、と。
過去の説教 · 2024/07/02
湖に激しい嵐が起こり、沖に漕ぎ出した舟は波に吞まれそうになります。弟子たちはパニックに陥ります。弟子たちの中にはガリラヤ湖畔で主イエスから召し出された漁師たちもいました。ガリラヤ湖の気象も、舟の扱いも熟知しているプロの漁師たちが同乗していても為す術の無い嵐のただ中で、彼らは何を思ったのでしょう。自分たちは神さまのご支配の中へと進み行くはずではなかったのか、人間の力では太刀打ちできない嵐によって、主イエスの後に従う道も、自分たち自身も、ここで終わりとなってしまうのではないかと、混乱したことでしょう。
過去の説教 · 2024/06/20
苦しい作業を来る日も来る日も行い、そうして家を建てる人を「賢い」と主イエスは言われます。砂地を選ぶ人は、岩が見えている場所や、岩がその下にあるだろうと思っている場所を避けています。掘り下げる労力、疲労、痛み、途方もない作業、どれだけ費やすことになるのか見当もつかない時間を思い、その地から逃げています。そのような苦しい作業を自分の人生において担いたくない、作業し続けるよりも、安全さに不安があってもあまり動かずに済む道を選び取り、結果、雨風と洪水によって倒れてゆく人間を、主イエスは「愚か」だと言っておられます。
過去の説教 · 2024/06/11
私たちは人間関係や経済的な問題、想定外に降りかかる出来事に、胸潰れる様な思いをすることがあります。自分や家族が心身に抱える困難が、日常を大きく変えることもあります。心の内にずっと生き辛さを抱えながら長いトンネルの中を這うような日々もあるかもしれません。不安を抱かずにいられる人はいません。主イエスはその私たちの心をよくご存知です。その上で「思い煩うな」と山上の説教で言われました。「思い煩わない方が良い」でもなければ、「思い煩わない様にしましょう」でもなく、「思い煩うな」と命じられたのです。
過去の説教 · 2024/06/04
祈りと言うと私たちが先ず思い浮かべるのは、礼拝の中でいつも祈る「主の祈り」ではないでしょうか。私たちにとって身近なこの主の祈りが記されている箇所を、今日はマタイによる福音書から聞きます。この祈りを与えてくださった主イエスの言葉に、とりわけ祈るとはどのようなことなのか教えてくださった言葉に、耳を傾けてまいります。
過去の説教 · 2024/05/27
神から「その木からだけは決して食べてはいけない、食べると死んでしまう」と言われていた最初の人間アダムとエバを蛇はこう囁いて誘惑した。「食べても死なない。むしろ食べれば目が開け、あなたがたは神のようになれる。」実は食べる前からアダムもエバも目は開いていた。最初に誘惑されたエバが木の実を見るといかにも美味しそうで、「食べろ、食べろ」と背中を押されているように感じたと聖書に書かれている。結局二人とも食べてしまい、その結果二人は裸であることに気づいていちじくの葉で腰を覆ったと聖書は伝えている。 二人は「見えるようになった」のではない。むしろそれによって本当に大切なものが見えなくなり、それ以来、二人の子孫であるすべての人間は神と出会うことも、神の声を聞くことも出来なくなってしまった。そうして、本当に見るべきものを見ることが出来なくなっている。
過去の説教 · 2024/05/21
五旬祭の日、エルサレムのある場所に主イエスの弟子たちが集まっていたところに聖霊が降り、弟子たちの群れが聖霊のお働きによって教会とされました。教会の大切な出発点の一つであるこの出来事を思い起こし、お祝いする祭は、キリスト教においてペンテコステと呼ばれるようになり、イースター、クリスマスと並ぶ三大祝祭の一つとなりました。知名度も、盛り上がりも、他の二つに比べると地味な印象を持たれがちなペンテコステを、教会は何故大切にお祝いしてきたのか、今日は使徒言行録の1章を中心にペンテコステの恵みを受け止めてゆきたいと思います。
過去の説教 · 2024/05/13
自分の人生の日々に幸せがあることを私たちは願っています。家族や親しい人々、大切な人々の日々にも幸せがあることを願っています。何を幸せと思うのか、人によって様々でしょう。その人のこれまでの人生や周りの人々、置かれている社会がどのようなものに価値を置くのか、その影響を受けつつ、その人の“幸せ観”といったものが形づくられてきたことでしょう。何を幸せとするのか、それによって、自分の人生で何に重きを置き、何を優先させるのか、変わってきます。

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