預言者ハガイを通して、神が古代イスラエルの民に「山に登り、木を切りだして、神殿を建てよ」(8節)と告げられたことが述べられています。エルサレムの神殿は廃墟のままなのに、神殿を再建することへと動き出せずにいた人々が、神さまの言葉と力をいただいて、動き出したことが語られています。
死が近づく時、人は幼かった日の頃のことを思い出す、と言われる。ドラマや映画のストーリーにおいても、登場人物が死ぬ直前になると子供の頃を回顧するシーンが見られる。空を飛ぶ鳥が自分の巣へと戻るように、或いは海へと泳ぎ出していった鮭が最後に川を上って産卵を済ませて生涯を閉じるように、人間にも最後は出発点に戻ろうとする本能のようなものがあるのかもしれない。一方で、これまでの人生を振り返って悔やみきれない思いに曝され、忸怩たる思いで息を引き取る、という人もあるだろう。死ぬ間際まで頼朝の首を持って来いと叫び続けた平清盛や、幼い息子秀頼の将来を案じて死ぬにも死に切れない思いで息を引き取った秀吉などはその典型だと思う。しかし彼らにも、そして誰にでも、年端のいかない頃には後悔という言葉も知らずに無邪気に生きていた日々があった。始めから恨みつらみを抱えて生まれて来た人間などいない。そのあどけない日々まで思い返すことが出来るなら、或いは明日を担う孫やひ孫の声を聞けたなら、どんなに悔しい思いで死を迎える人であっても、一瞬表情が和らぐことはあるのではないだろうか。
主イエスが大勢の人の空腹を満たされたという、良く知られた出来事を聞きました。何が起きたのかもっと詳しく知りたいという思い、この現象を何とか上手く説明したいという思いも沸き起こりつつ、この群衆の中に私も居たかった、という憧れのような思いも抱くのではないでしょうか。主イエスが天を仰いで祈り、祝福し、分けてくださったパンと魚を、人々と一緒に受け取りたかった。この夕べの時を主イエスと大勢の人と過ごしたかったと、多くの人がこの箇所を聞いてはそう思ってきたのではないでしょうか。
私たちは自分が過ごす人生という時間を、ただ消費するだけのような仕方で過ごしたくはないと思うのではないでしょうか。生活をしていかなければならないのは勿論ですが、ただ日々の生活を回せればそれで良いと思っているわけではないでしょう。自分の思いやエネルギーを注ぐに値するものを見つけたいと、この歩みを少しでも意義のあるものとしたいという願いが私たちの中にあるのだと思います。“この状況で、人生を意義のあるものにするなど、望めるはずがないではないか”と、怒りや悲しみを覚えるような、困難な時もあるかもしれません。自分が自分にする期待や周囲からの期待に応えられる成果を出せていない時、自分は何のために力を注いできたのかと辛く思うかもしれません。人生を意義あるものにしたいという願いを持つには、自分は値しないものだと、自分で自分を貶めてしまう時もあるかもしれません。不安に自分の中の多くの部分がどんどん覆われてゆくような、追いつめられる思いをする時もあるかもしれません。そのような人間にイエス・キリストは、不安に支配されない道、自分が自分の全てを支配するのではない道を示されました。
語ることを終えると主イエスは家を出て、ガリラヤ湖のほとりに行き、腰を下ろしました。人々を癒し、語り、疲れを覚えたのかもしれません。主イエスは神の子でありながら人となられ、私たちと同じように肉体をもって生き、肉体を持つからこそ味わうものを私たちと同じように味わってくださいました。主イエスが味わっておられたのは肉体の疲労だけではなかったのかもしれないと思います。人々は主イエスに期待を抱いて主イエスのもとに集まってきます。特に癒しを求めてきます。癒しを通して主イエスは神さまのご支配とはどのようなものであるのか示してこられましたが、その意味を見て取り、そのことを語る主イエスの言葉に深く耳を傾ける人は、僅かであったことでしょう。
主イエスはその日ある家で、大勢の人に語っておられました。これまでのように、人々を癒やされ、癒しを通して神さまのご支配とはどのようなものであるのか示され、神さまのご支配がもたらされているのだから、罪を悔い改めて、神さまのご支配の中で生きてゆくようにと語っておられたのでしょう。そこに、主イエスの母マリアと主イエスの弟たちが来ました。彼らは何か主イエスに「話したいことがあ」り、やって来たのでした。
ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた「最後の審判」という作品がある。現場に行ってこの目で見てはいなくても、私もそうであるが、多くの人が写真などを通して必ずどこかで目にしたことがあるのではないかと思う。この絵の中心はイエス・キリストであるが、それは十字架の死からよみがえり、天に昇った後に再びこの世にやって来る再臨のキリストの姿である。最後の審判が何時起こるのかは神のみぞ知る謎である。ただその時は、この世の歴史が終わりを迎える時だと聖書は明言する。その時キリストは、死の眠りに就いていた全ての者を起き上がらせ、生き残っていた者たちと合わせて最終的に生ける者と死ねる者、分かり易く言えば救いに入れられる者と滅びへと追いやられる者を分ける、と聖書に書かれている。
17世紀にトーマス・ホッブス(1588-1679)という政治思想家がいる。この人は、人間社会の自然状態は、「万人の万人に対する争い」の状態であると述べたことで知られるが、彼は、このような言葉も残していた。誰も自分を守ってくれない状況の中で、人間は何によって動かされるのか。それは「恐怖」であると。そのことを具体的に示す、次のようなたとえ話がある。
父なる神と子なるキリストと聖霊を通して示される神に、幼子のように全身全霊で向き合うことへと招く祈りをイエスキリストはされた後、言われたのです。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と。
コロナの感染が拡大した時に私たちはそれまで大切に行ってきたことの多くを続けられなくなりました。会いたい人に会うことができない、大勢で集まることができない、些細なことであろうと深刻なことであろうと、会えば伝えられる気持ちをなかなか伝えることができない、思い描いていた自分の計画はタイミングも機会も奪われ、もしかしたら未来も奪われるかもしれない、考え始めると不安で押し潰されそうで、浅い呼吸しかできないような時間を過ごしました。そして私たちは自分の弱さ、脆さを痛感したのではないでしょうか。同時に、自分に力を与えてきたものを再発見したのではないでしょうか。タイミングや計画やチャンスや、大切な人の健康や命までも奪われてゆく長いトンネルのような時間が続いた時、見てきたものの中に見るべきものを見て取ることができるなら、力を得られることを知ったのではないでしょう。