「地に満ちる祝福」創世記1:24~2:3、コロサイ1:14~17、詩編95
2025年5月11日 左近深恵子
私たちの存在、私たちの命の源に何があるのか、その源にどなたがおられるのか、創世記の初めに記されている天地創造の物語によって私たちは知ることができます。天地も、そこに生きるものたちも神さまによって造られたこと、先ず天地とそこに生きるものたちを願われた神さまの願いがあり、存在へと招き出された御業があり、招き出してくださった一つ一つを喜ばれた神さまの喜びがあるのだと、知ることができます。
神さまが天地をお造りになったのは、混沌とした深淵が広がり、その上を闇が覆っている状態に対してであることも知ります。自由に生きることができない、自ら正しい在り方にまとまろうとしない、虚しく、形を取ろうとしない状態が広がっていました。それは、この箇所の最初の聞き手となったと考えられる捕囚の人々の現実と重なるものであったでしょう。混沌とした状態の中、神さまへの信仰によってまとまろうとする動きが起こってもその動きも深淵の流れは呑み込み、その動きを窒息させ、死に至らせてしまうような状態です。この底知れぬ暗い澱みの上を神さまの霊だけが動いておられたと、神さまだけが自由であったと創世記は告げます。互いに絡み合い混濁し、神さまのみ心が貫かれることを自ら求めることができない流れに対して、ただお一人混沌や深淵や闇の力から自由な方である神さまは、創造の御業をお始めになりました。「光あれ」と、ご自分の光をもたらされ、光と闇を分けてくださいました。創造は新しいものを造り出すことだけではないと、先週もお話ししました。寧ろ第一の日から第四の日まで、神さまは分けることを重ねてゆかれます。自ら形を取ろうとしない混沌に、神さまがここにおられ、神さまのみ心がみ業となって働いておられることを示すように光をもたらし、闇から光を分け、水の力を上と下に分け、水と大地を分け、こうして生き物が生きてゆくための世界を整えて行かれました。神さまは光に昼と、闇に夜と名を付け、光の中にある時間も、闇さえも、神さまのお力の下にあることを示されました。二つの大きな光るものを造られ、一つは昼を治めるもの、もう一つは夜を治めるものとされ、星々も造られ、それらに時間のサイクルを刻ませます。太陽、月、星は、捕囚の民を支配しているバビロニア帝国の民にとっても近隣の諸国の民にとっても、礼拝の対象でした。バビロニアの民は、イスラエルの都がバビロニアに攻め込まれ、滅ぼされたということは、バビロニアの神がイスラエルの神に勝利したということだと、バビロニアの巨大な偶像の神々の勝利も誇っていました。闘いにおける国の勝利は、その国の民が信じる神々の、敗戦国が信じる神々に対する勝利だと見做すのが常識であった世界です。お前たちの神は一体どこにいるのだ、お前たちの神はバビロニア帝国が力をつけて行くこの時代にあってはもはや支配する力を持たない、イスラエルの民の限られた地域ではまだ力を持っていたとしても、広い世界では支配する力を持たない神だったのだと嘲る声に、捕囚の民は揺るがされる思いであったでしょう。しかし創世記は、イスラエルの民を戦いで滅ぼした民が信じる神々も、太陽も月も星も、神さまがお造りになり、それらが刻む時さえも、神さまの支配下にあることを告げます。次々と新興国が台頭し、それぞれの地域にも次々と新しい王が現れては消えてゆく歴史の中で、その時代その時代の覇者が神なのではない、全ての始まりに天地を創造された神さまがおられるのだと告げるのです。
闇から光を分け、水と水を分け、水から大地を分け、そうやって順に秩序立ててくださった世界を、神さまは生き物たちの住まいとしてくださいます。水中にも大空にも、生き物たちが創造されます。大地には、生き物たちをお造りになる前に、更に備えを為さいます。種をつける草と、種を結ぶ果樹を生やしてくださったので。それら草や木々の種や実や葉や茎は、後からもたらされる生き物たちの食糧となります。種や実によって植物は大地に増え続け、豊かに繁り、生き物たちを養い続けるものとなります。こうして住まいも生命を育んでゆくものも整えてくださった所に、家畜や這うもの、獣たちが創造されます。人の創造はそれからです。
それまでは分けることによって世界は整えられてきました。整えられた水や大空や大地に、生態系をお造りになり、それらをご覧になって「良し」と喜ばれました。そこに最後に人をもたらされました。神さまが丁寧に整えて、その出来を神さまが満足されている素晴らしい世界が、神さまが人の住まいとしてくださった所なのだと、こんなにも大きな祝福の中に私たちは存在を与えられたのだと、私たちを包んできた恵みに気付かされます。自分を取り巻く環境に今生じている歪みや欠けの方ばかりに目が向きがちな私たちの狭い視野には収まらないほど、大きな神さまの恵みの中に今在ることに気付かされます。歴史が動いてゆく中で翻弄されている捕囚の民も、日本の社会の中でキリスト者として生きることに時にもがいている私たちも、この神さまの恵みの中に在るのです。
日々の歩みを続けてゆくことにいっぱい、いっぱいになると、自分で自分を存在させているような気になってしまうところが私たちにあるのではないでしょうか。故郷も神の都も神殿も奪われ、バビロニア帝国の支配下で存在し続けるしかない、神の民としてのアイデンティティーが危機にさらされて来た捕囚の民にとっては尚更、バビロニア帝国が自分の存在を許しているから自分は存在しているのか、自分の力で自分を存在させているのか、そのようにしか考えられなくなっていたかもしれません。しかし、人の創造主は支配国でも自分でもなく神さまであります。天地創造の御業の中で、生き物たちが水や大空や大地にもたらされる際、「造る」「創造する」という言葉も用いられましたが、ところどころでありました。それが人については、重ねるように何度も用いられます。神さまが人をお造りになることを願いお造りになったのだ、神さまが創造されたのだ、創造主は神さまなのだと、私たちの心に幾度も念を押すように繰り返されます。
天地創造のこの物語は、礼拝の中で朗読されるために記されたと考えられています。国を滅ぼされ、捕囚にされる苦難を知る人々に、神さまが人間をお造りになったのだと礼拝で告げることの重みを思わされます。人が苦難の中で聞きたいのは、“あなたたちだけを神は特別な仕方で造った”、そのような物語ではないでしょうか。しかし聖書がここで語るのは、イスラエルの民の創造物語ではありません。人の創造です。捕囚となっている民だけのものではありません。その捕囚の民を“お前たちの神はどこにいるのだ”とあざ笑い、“私たちの神はお前たちの神に勝利した”と誇る人々も、神さまが創造主です。創造物語にこれまで示されて来た、世界に注がれている神さまのみ心、造られたもの一つ一つを「良し」と喜ばれる神さまの喜びが、全ての人の始まりにあります。全ての人が、神さまが為してくださった備えと祝福の内に招き出されていることを礼拝の中で聞いてきたのが、神の民であるのです。
では、全ての人がこの神さまのみ心にお応えできているのか、全ての人が、神さまが喜んでくださった者としてあり続けられているのかと問われると、捕囚の民の前にも私たちの前にも、そうではない混沌とした現実が広がっています。自分も、その混沌に加担していないと言い切れない者であることも思わされます。他者との間に争いや対立を生み出してしまう人と人との関係に私たちは苦しむことが多いのですが、神様との関わりが問われていることにはなかなか気づけないところがあります。私たちの視野を超えるほど大きな恵みで包んでくださっている創造主のみ心が、自分にとってどれほど重要であるのか気づかないでいるのは、私たちの本来の在り方ではないことを、思わされます。
人をお造りになることを宣言される神さまが、複数形で「我々」と書かれていることに、古来から様々な解釈がなされてきました。その一つ一つを述べることは今日はできませんが、このような表現によって、神さまが他のものたちの創造に増して人の創造を重んじられたことが示されているということは、言えると思います。人の創造に特別に深い願いを込められた神さまのみ心を、受け止めたいと思います。そのみ心によって、ご自分の「かたちに」ご自分の「姿に」人を造られました。この言葉に捕囚の民はどんなに驚いたことかと思います。
バビロニア帝国も含め、古代世界では、神のかたち、神の姿とは、王のことでありました。王は神の代理人であり、王が神を体現するのだと考えられていました。支配者こそが神の現れだと、現人神だとする考えは、古代に限らないことを私たちの国の歴史が示しています。王のような立場にある者だけを神のかたちとすることを常識とする人々に、神さまは王だけでなく全ての人をご自分のかたち、ご自分の姿に造られたのだと、男の人であろうと女の人であろうと、どの民族や人種であろうと、一人一人が神さまから神さまのかたちを与えられている、一人一人が神さまの代理人です。特別に深い願いを込めて人をお造りになったことを「我々」という表現によって受け止めましたが、その神さまの深い願いとは、誰もが神さまの姿を何か表しつつ生きることと言えるでしょう。
それは目に見える姿形のことではないということは、聖書の様々な言葉を通して私たちは分かるのです。それは、心や魂において、神様のみ心にお応えすることから始まります。自分は神の姿かたちだから何をしても良いのだ、何をしても神の姿を表すことになるのだ、ということでは無く、神のかたちだから、神様の恵みにお応えできる者であるということです。神さまは人に言葉によって語りかけ、人を契約を結ぶ相手としてくださり、その人を通して祝福を他者にもたらす者としてくださいます。神さまの言葉に聴くことで神さまからいただいている恵みを知り、感謝することへと導かれます。神様の言葉に聴くことで人も生態系も世界も神さまから祝福された存在であることを知り、神様の祝福にふさわしい生涯を歩もう、神様の祝福にふさわしい関係を他者との間に築こうと願うことへと導かれます。他者に喜ばれているかどうか、自分が自分を喜ぶことができているかどうかが、自分の存在を決定づけるのではなく、神さまが存在を喜んでくださり、祝福してくださった、そのことが私たちに与えられた、決して揺らぐことの無い始まりです。その始まりが他者にもあることを受け留めることによって、他者の存在と命を尊ぶことが本当に可能となります。混沌とした暗い深淵の力からも自由な神さまが私たちの創造主であり、神様の姿かたちを表して生きることができる者として造られていることが、私たちの希望です。
最もご自分の姿かたちを表しておられる方を、神様は私たちに救い主として与えてくださいました。「み子は見えない神のかたちである」と、コロサイの信徒への手紙は記します。神さまがどのような方であるのか、神様の独り子ほど表しておられる方はありません。混沌とした状態の中で弱り、諦め、混沌に同化してしまうことに引き寄せられそうになっている人々、深く暗い死に至らせる闇の中に落ち込み、自らの罪によって裁きを引き寄せてしまう人々を、み子は見捨てられず、悔改めに応えてくださる方であります。悔改めに応えるために、血を流し、肉を裂かれて、罪の支配から救い出してくださいました。救い出されたのだから、古い自分を脱ぎ捨て、神様のかたちに造られた新しい自分を着なさいと、エフェソ書も呼び掛けます(4:22~23)。旧約聖書、新約聖書のみ言葉に聴かなかったら、知ることができない恵みです。知ることができなければ、何に喜び、何に感謝し、どなたに応答し、自分の歩みを通して何を表したら善いのか分かりません。安息日にみ言葉に耳を傾けることでいただいてきた恵みを知り、感謝し応答することへと導かれるのです。
神様は第六の日まで創造のみ業を重ねてこられ、「第七の日に、その業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた」とあります。み業を続けたのか、それとも休まれたのか、一体どっちなのだろうかと思ってしまう表現でありますが、「その業を完成され」たのです。安息することも創造の一部です。神さまは第六の日にお造りになったすべてのものをご覧になって、極めて良いと大いに祝福されました。その喜びの内に第七の日に休まれます。六日間重ねてこられたみ業が、お働きを振り返り、七日目に喜びの内に休むことにおいて、しっかりと結び合わされます。それは、ただ働きを休止するということとは随分違うものであります。たまたまこの日は休めるから休んでおこう、そのような休みを取っておられるのではありません。神さまはその日を他から分けて、特別な時とされています。分けるということが創造の御業の中で大きな役割を持ってきました。何から何を分けるのか、そこに神さまが通すべきとされる道筋が示されてきました。第七の日にも分けることを為さっています。この日自体を、他の日から分けられます。決して予備日のようなものとしてではなく聖なる日とされ、祝福されています。お造りになったものたち一つ一つ、一人一人のことを喜びながら過ごすこの時をまるごと、祝福されています。
神様の姿かたちとして造られている私たちも、六日間の働きと七日目の安息と言うリズムによって私たちの日々を整えます。安息の日、礼拝のために特別に他から分けられ、聖別されたこの日、神様のみ前に集うことへと招かれ、み前に進み出てようやく、それまでいただいてきた恵みを振り返ることができるような私たちに、神さまが与えてくださった、私たちの歩みに無くてはならないリズムです。キリスト者にとってこの日はまた、キリストの復活と、キリストによって与えられている罪の赦しに感謝し、キリストに結ばれる人は誰でも新しく創造された者であることを受け留め、救いが完成される終わりの時への希望を新たにされる日です。この日があるからいただいてきたものを喜び感謝することができ、この日があるから先が見通せない道であっても踏み出すことができます。