過去の説教 · 2025/04/21
私たちが思い描く喜びとは、どのようなものでしょうか。楽しくて嬉しくて気持ちが高揚してくる、わくわくするような喜びがあります。あるいは、あなたはそのままで良いのだと、よく頑張って来たねと何もかも肯定してくれる、居心地の良い温かさを感じさせてくれる喜びもあります。喜びとはそのようなものなのだと思い、喜びをその枠の中でばかり考えがちな耳に、十字架と復活の出来事は、すぐには喜びの調べを奏でません。
過去の説教 · 2025/04/15
ゴルゴタという所へ「向かわれた」とあるのは、ゴルゴタがエルサレムの都の外にあり、都を出てそちらに向かったということでありましょう。生きている人々のための都を出て、罪人たちを死に引き渡す処刑場へと、罪無き方が向かってゆきます。晩餐の席でペトロは、自分の足を主イエスが洗うことに対して、“そのようなことは私がするべきことで、先生であり、主であるあなたが私の為にすることではありません”と、止めようとしました。しかし、処刑場に向かう主イエスを止めようとする者は誰もいません。
過去の説教 · 2025/04/08
親しい人が亡くなると、その人の死の間際のことが強い印象を私たちにあたえます。その人のことを思う度に死の前のことが思い返されます。まして相手から、このことを覚えていて欲しいと言われたり、このことをして欲しいと言われたことは心に残り、託されたことについて考え続けるのではないでしょうか。主イエスも弟子たちの心に残り続け、託されたことを担ってゆくようになることを願って、十字架にお架かりになる前の晩に、死を前にしたこの時だからこそ、彼らに語り掛けられたことでしょう。
過去の説教 · 2025/03/31
ペトロは自分の弱さを認められなかったのに、主イエスはペトロの弱さをご存知でした。にもかかわらず、“私を知らないと繰り返すお前とはこれまでだ”と関係を切るのではなく、復活したらガリラヤへ先に行っていると言われました。ご自分から離れ、散り散りに去る者たちと、死を超えて共に居てくださる方であることを教えられました。
過去の説教 · 2025/03/24
今から930年前の1095年、時のローマ法王ウルバヌス2世が説教でこんなことを語った。 「キリスト教団は異教徒から聖地や聖なる遺蹟を取り戻すべきだ」。 それはその頃、エルサレムから戻って来た巡礼者たちより、「イスラム教徒たちによって聖地は冒涜され、巡礼者たちがひどい扱いを受けている」との報告を受けての言葉だった。これがその後200年続く十字軍の起こりであった。 しかしその標的はイスラム教徒だけではなかった。これに付随して、ユダヤ民族の殉教の時代の幕が開いたと言われる。「キリストの流した血は、彼を殺したユダヤ人の血を流すことによってかたき討ちするのだ」。そう唱えた指導者がいたからだと言う。  信仰と宗教的情熱とは別物だと思う。信仰は燃えれば燃えるほどその人を神への祈りに、隣人への愛と赦しに誘うように思うが、単なる情熱は目に見える結果を残すことばかりに躍起になり、ありとあらゆる方向に拡散していく。
過去の説教 · 2025/03/17
福音書は、復活された主イエスが弟子たちを訪ねられ、何度も彼らと食事を共にされたことを伝えています。この過越の食卓でされたように、パンを取り、割いて弟子たちに分け与えられる主イエスから弟子たちは受け取り、パンを噛みしめながら、かつて復活されると約束された主イエスの言葉を思い起こし、本当に主イエスは復活されたのだと、生きておられるのだと喜びも味わったことでしょう。私たちが聖餐の食卓で聴く、「取って食べなさい。これは私の体である」「この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」、これらの主の言葉も、この晩主が言われた言葉です。この言葉を聖餐の食卓から聞き、キリストの体と血をいただき、そうして新しい命に生きることができることができる、そのために主が受けられた苦しみがあることを思います。
過去の説教 · 2025/03/10
主イエスはエルサレムに来られる前からこれまで、既に三度に渡ってご自分が民の指導者たちから苦しみを受けて殺されることを弟子たちに告げて来られました。苦しみと死だけでなく復活されることも必ず告げておられました。しかし、彼らの目の前で主イエスが捕らえられ、殺される瞬間が二日後に迫っているこの時、主イエスは十字架に焦点を絞って告げられます。目に見えることだけで決めつけ、絶望に陥っていくであろう弟子たちに、十字架に向かって行かれる方は、栄光の内に再び来られることを約束された方であることを心に刻み付けるようにと、ご自分が見据えている十字架を共に見るようにと、呼び掛けておられるようです。
過去の説教 · 2025/03/03
主イエスはこれまでも天の国のことを語り続けてこられました。しかしご自分の死がすぐそこまで迫っているこの時、人々に伝わって欲しいとの願いは一層増していたことでしょう。主イエスをその目で見ることも、その声を聴くこともできなくなったととき、あなたがたはこう待ちなさいと、キリストの再臨を待ちながら生きることを譬えで語られます。
過去の説教 · 2025/02/25
生まれた時からあなたの将来は既に決まっている。そう言われたら人は何を感じるだろう。出身大学がどこか。勤めている会社はどこで、どんな役職か。そういったことも、あなたがどのような家庭に生まれたかで決まっていて動かせない、としたら、人はどんな思いで生きていくのだろう。成功している人は問題ないのかもしれないが、負け組とレッテルを貼られているような人はどんな気持ちがするだろう。その人たちは明日への希望をいったいどこに見出せば良いのだろうか。
過去の説教 · 2025/02/17
自分たちの復興は都の地に神殿を再建することから始まるのだと希望に燃え、その願いがなかなか実現に至らないことに力を落とす人々に預言者は、神さまの住まいは天であると語ります。天も地も神さまのみ手の業であり、その圧倒的な存在と美しさ、恐ろしさは、全ての上におられる神さまの栄光を表します。その神さまを人が建てるいかなる地上の建造物に入れておくことも、その中に留め憩わせることもできません。神さまが人々と共におられることで人が憩うことができます。神さまによって造られた天も地の一切のものも、神さまのものです。そのご自分のものの中で、天に座しておられる神さまが特に目を注がれるものは何であるのか、それは「苦しむ人、霊の打ち砕かれた人、私の言葉におののく人」だとあります。

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