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父なる神

「父なる神」マタイ112527

2026719日(左近深恵子・使徒信条)

 

 神さまに信頼して日々の生活を送ることができるのは何と幸いなことだろうかと、ふと思うことがあるのではないでしょうか。しかしまた、なぜこんな酷いことが起こるのかと、神さまのご意志が分からなくなる時、神さまに心の底から祈ることがとても難しくなる時もあるでしょう。それでも、暗く長いトンネルのような日々が過去のこととなった時、あの苦しみや辛さの中で、迷いや納得のいかない思いや怒りや悲しみを抱えたまま、思いをみ前に注ぎだせる神さまがいてくださったと、押しつぶされそうなあの日々も自分は孤独では無かったのだと、気づかされます。私たちが神さまのことを、そうしてより深く受け止めることができることができるのは、私たちが既に神さまのことを知ることができているからであり、より知ることへと主が導いてくださるからでしょう。神さまを知っていることは真に私たちにとって、幸いなことであります。

 マタイによる福音書の第11章には、主イエスが神さまをほめ讃えた言葉が記されています。祈りの言葉と言うこともできます。今日は27節まででしたが、この後には続くのは有名な言葉です。「すべて重荷を負って苦労している者は私のもとへ来なさい、あなたがたを休ませてあげよう」「あなたがたは魂に安らぎを得られる」と語られる、聖書の中でもとりわけ多くの人に特に愛されて来た言葉です。この言葉に触れる度、“あなたが疲れていること、あなたが負っている荷があなたの一歩一歩を辛くしていることを私は知っている。私のもとに来なさい”と、主イエスから語りかけられているような思いがします。私は負うべき荷を負えているのかと、改めて主のみ前で問われているようで、自ら担うべきものを捉え直します。そして、主イエスに語りかけられ、招かれている者としての自分が回復されます。今日の箇所から30節までを、聖書協会共同訳聖書は、その前の新共同訳聖書と同様に一つの段落とし、「私のもとに来なさい」という見出しを付けています。28節以降の「私のもとに来なさい」との主イエスからの呼び掛けは、25節~27節の、父なる神、子なる神はどのような方であるのか述べる主の言葉が前提にあるからこそ、私たちにとって慰めとなるのです。

このひとまとまりの言葉を主イエスはどのような時に語られたのか、その状況を踏まえることを求めて、この福音書は25節を「その時」という言葉で始めています。それは、主イエスが弟子たち、そしてガリラヤの町や村の人々に語っておられた時です。「その時」という訳文には現れていませんが、元の文には「その時」だけでなく「答えて」という言葉も含んでおり、文字通り訳すと、「その時、イエスは答えてこう言われた」となります。人々や弟子たちが主イエスに何か質問をされていた、ということではなく、これまで語ってこられたこと、なさってきたことに、この時自ら応答されたということでありましょう。

ここまで主イエスは、12弟子を選び立てられ、今後彼らを人々の中へと遣わすにあたり、何を宣べ伝えるのか、何に気を付けるべきか、教えられました。弟子たちの行く手には、弟子たちを受け入れず、その言葉に耳を傾けない者たちもおり、迫害を受けることもあり、そのような町では主イエスの名の故に彼らが全ての人から憎まれることもあることを告げ、人々を恐れてはならない、人々の前で主イエスを認める者は、主イエスも天の父の前でその人を認めると言われました。弟子たちを受け入れる人は主イエスを受け入れ、主イエスをお遣わしになった方を受け入れるのであり、そのような人々は必ず天からその報いを受けるとも教えられました。また、群衆には、主イエスに先立って神さまが人々の中へと遣わされた洗礼者ヨハネを受け入れず、その言葉に耳を傾けなかった者たちのことを語られました。主イエスご自身に対する人々の拒絶にも触れてこられました。今日の箇所の直前では、主イエスがその町の人々に教えを語り、癒しを行なわれたのに、その言葉に耳を傾けず、悔い改めなかったガリラヤの町々に対して、お叱りの言葉が告げておられます。自分たちが神の民とされてきたことを大切にし、救い主の到来を待ち望んでいるはずであるのに、主イエスの弟子たちの言葉にも、洗礼者ヨハネの言葉にも、主イエスご自身の言葉にも、その神の民多くの者は耳を傾けようとしない人々の実態を主イエスは嘆いておられます。受け入れない者たちは、語る者の存在を消し去ろうとまでします。その結果、洗礼者ヨハネは領主ヘロデに殺されます。この後12章以降では、民の指導者たちが主イエスを殺す相談を始めます。主イエスがこれまで語ってこられたのは、自分たちのためにたらされた神さまからの救いを拒み、救いに自ら背を向ける人々の実態です。人々の頑なな拒絶は互いに共鳴し合ってより強固な大きな流れとなってゆく、その現実の中で、そのような人々に対するお答えとして、25節以下を語られたのです。

主イエスのお答えは、神さまをほめ讃えることから始まります。神さまを「天地の主」とお呼びし、天だけでなく地の全ての上に立つ方であることを明らかにします。人々が世の見方、自分流の見方に頼って福音を聞く耳が塞がれてしまい、神さまからの救いを見つめる目も遮られ、神様からの恵みと自分自身との間を自ら隔てることへと向かっている現実の中にあっても、地を支配しておられるのは神さまであることを明らかにされています。主イエスはまた神さまを「父」と呼んでおられます。神のみ子なる主イエスは、これまでも神さまをそうお呼びしてきました。多くの人が、主イエスがどのような方であるのか分からず、主イエスを退ける者も少なくない中、主イエスは神さまを「父」とお呼びする神のみ子であることをこうして示されます。

続いて主イエスは神さまをほめたたえます。「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しにな」ったことを、ほめたたえます。主イエスはこれまで「天の国は近づいた」と人々に語ってこられました。「これらのこと」とは、天の国、つまり神さまのご支配が人々の側までもたらされていること、神様の救いの恵が主イエスによって決定的な仕方でもたらされていることでありましょう。それが、「知恵ある者や賢い者」には隠され、「幼子たちに」は示されていると、今起きていることを説明されます。ご自分への拒絶と敵意が強まっている現実の中でも、神さまが、幼子たちに福音をお示しになっていることが、神さまをほめたたえる理由です。知恵ある者や賢い者たちを神さまが選ばれなかったことを讃えておられるのではありません。神がそのような知者たちは退けたと主イエスが讃えているから、学歴偏重は良くないとか、神が幼子たちを選ばれたことを主イエスが讃えているから、こどもはすばらしいといった、自分の主張に主イエスの言葉を引っ張って来るなら、それは神さまを讃美された主イエスから離れてしまいます。神さまが知者には隠されたままであっても、幼子のような者たちにはお示しになっていることを、讃えておられるのです。

「知恵ある者や賢い者たち」と言われて思い浮かぶのは、先ずは律法学者やファリサイ派の人々と言った、民の指導者層の人びとでありましょう。けれど、ユダヤ社会で高い地位を得ていた、主イエスに敵対していた人々の代表格であるこの人々だけを指して、主はこう言われていたとは思えません。自分には知恵がある、自分は賢い者であると自負している人々、他者から知者と見なされている人々、その誇りとしている知恵や賢さに拠って、主イエスの宣べ伝えている言葉は退けるべきものだとの判断を下している人々のことでありましょう。

では「幼子たち」とは、どのような者でしょう。聖書に登場する「幼子」や「こども」を表す言葉は、幾つかあります。新約聖書で多く用いられているのは、大人たちと同様に主イエスの祝福を受ける存在としてのこども、大人だけでなくその者たちとも共に主イエスが共に居てくださる存在としてのこどもに言及する時に用いられます。例えば、主イエスに手を置いて祈っていただくためにこどもを連れてきた人々を弟子たちが咎めた際、主イエスが「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と言われた出来事で用いられているのが、その言葉です。しかし今日の箇所で「幼子」と訳されているのはそれとは別の言葉です。こちらの言葉は、ほとんどの場合否定的な観点で用いられます。その状態が未熟な者としての子どもを表します。「話す」と言う言葉の頭に否定を表す語が付いたこの語はおそらく、まだ物の言えない状態を表し、そこから幼いこどもを指すようになったと考えられています。今日の箇所のように比喩として、状態や態度が未熟な者、無学な者を表すこともしばしばです。

主イエスは今日の箇所で、目の前の群集、とりわけご自分の弟子たちのことを、この未熟な者を意味する「幼子」と表現しておられます。彼らはガリラヤの町や村の普通の人々です。特別に律法に精通している者ではない、「知恵ある者や賢い者」とは対照的な人々です。その彼らが主イエスの言葉にお応えし、もっと主から教えを聞きたいと集まり、主の言葉に耳を傾けています。特に弟子たちは、それまでの生活を後にして、主イエスの言葉に従う人生を生き始めている者たちです。律法を良く学ぶこと、その規定を生活の中で厳格に守ることがなかなか実行できずにきた、知者たちに比べればまだまだ未熟な人々でありますが、彼らが今耳を傾けているその方こそ、律法によって神さまが示された、神さまに従う道を成し遂げてくださる方であります。主イエスは、この弟子たちや群集にご自分を通して神さまが福音をお示しになっていることを、ほめたたえているのです。

群衆や弟子たちは、知恵や知識を誇る者たちに比べれば、この時、主イエスの言葉を拒絶していません。しかし、自分が思い描く自分の救い方に自分の思うように仕えてくれる救い主を求める思いを捨てきれない彼らは、主の言葉に従って罪を悔い改めることに向き合いきれない実態を、主の十字架の時が近づくにつれて露呈してゆきます。主イエスの言葉は自分が求めていたものではないと、主の言葉を求めるよりも、主を死に渡す方へと傾いてゆきます。彼らにとっての知恵、彼らにとっての賢さによって、彼らも福音を聞く耳が塞がれ、主イエスを見る目が遮られてゆきます。そうして、主イエスの言葉に従わなくても神さまの救いに至ることができると、指導者たちからも多くの人からも否定されるような人ではない、立派な救い主が他に居るはずだと、神さまに至る道を見失ってゆくのです。

「幼子」とは、父なる神とイエス・キリストが、弟子たちや群集をそのようにご覧になっているということです。主イエスが目の前にいる人々をそのように呼ばれたのは、人々自身が、神さまの眼差しを通して自分自身がどのような者であるのか認識することを願っておられるからでありましょう。普通の人びとである彼らと、秀でた律法の知識を身に着けている知者たちの差は、共同体の中では非常に大きなものであるかもしれません。しかしイエス・キリストを通して神さまから与えられる救いを受けることにおいては、決定的なものではありません。人の得る知識量、律法の規定を守るために積み重ねてきた努力の量が、他者より秀でることができた者が、罪を赦されるのではありません。神さまの救いは、人の側のそのようなものを条件にはしていないのです。

知識や知恵は、救いにお応えするために研鑽を積む中で、人の中に蓄えられてゆくことでしょう。しかし、知識や知恵を自分の誇りとし、自分の拠り所とするなら、それらは主イエスを受けとめることの妨げになりかねません。歴史のただ中で、特定の時代の特定の地域で生涯を送り、救いの御業のために罪人として処刑された主イエスを通して神さまの救いの御業が成し遂げられたのだと信じることを、自分が拠り所とする知識や知恵は妨げ、主イエスをその他の偉大な人々に並ぶ一人へと矮小化させてしまうかもしれません。聖書から主イエスの具体的な言葉や御業を取り除き、福音を、主イエスを介さなくても受け止められる抽象的な理念へと変質させてしまうかもしれません。

そして、知識に富んでいようとそうでなかろうと、自分が未熟な者であると認めることが難しいのが私たちです。神さまの眼差しの下に自分を据え、罪に支配されてきた自分もみ子によって罪を赦されたのだ。神の子の一人とされ、神の子として歩むために必要な知恵は神さまから与えられるのだと確信するなら、未熟な幼子としての自分を認めることができるのです。

 

弟子たちや群集は、主イエスが今彼らの傍らにおられること、彼らには既に福音が告げられていることが、どれほど大きな天からの祝福と喜びであるのか、この時はまだ見えていません。その彼らの傍らで、彼らに与えられている恵みのために、キリストは神さまをほめ讃えておられます。主イエスのお言葉に確信を持ち切れていない彼らは、本当のところはまだ、主イエスのもとに来ていないとも言えます。何か彼らを揺さぶるようなことが起これば、彼らは主イエスに背を向けてしまいます。その彼らに主イエスは28節以下で、「私のもとに来なさい」と言われます。「来なさい」と招いておられるのは、救い主であり、神のみ子である方です。この方だから、「すべて重荷を負って苦労している者は」、この方のもとで真の安らぎをいただくのです。救い主は、神さまから福音を示される恵みに与かりながら、自分にその福音が必要であることを認めようとしない人々の頑なさを嘆きつつ、悔い改めるようにと呼びかけ、「私のもとに来なさい」と招いておられます。すべてのことは、父なる神からみ子に任せられているからです。主イエスが神のみ子であることを本当にご存知であるのは、父であられ、み子をこの世に遣わされた父なる神の他いません。父なる神と子なる神はお一人の神です。み子と、み子が示そうと思う者だけが、父なる神を知ることができます。父なる神から全てを任されたみ子が隠されるなら、どんな知者も福音を知ることはできませんし、み子がお示しになることを望まれるならば、どんな愚かで未熟な者でも父なる神を知るに至るのです。み子が御父を示そうと思われた者だけが、イエス・キリストを通して、神さまを示されます。神さまはみ子の父であり、私たちを罪の支配の下からご自分のもとへと救い出し、み子に属する者、神のもの、神の子らとしてくださる方であると、知ることができます。だからみ子は、人々の頑なさと背きに胸を痛めながらも、人々をご自分のもとへと招いてくださいます。だから、イエス・キリストの弟子の群れであり、自分たちの力で身に着けた教養や知識や知恵によってではなく、み子イエス・キリストを通して神さまがご自身をお示しくださったことによって、福音に触れ、罪を悔い改め、キリストの招きに応えて、頭なるキリストのもとへと集った者たちの群れである教会は、自分たちも与かっているキリストからの招きを、一人でも多くの人に伝えようとします。私たちの業を主が用いてくださり、私たちが伝える一人一人に、主が父なる神を示してくださることを願って、福音を隣人に運ぶ群れであろうとします。主の祈りにおいてキリストから、み子と共に神さまを「父よ」とお呼びして祈ることを教えていただいた私たちです。だから、教会が大切に受け継いできた信仰の告白の言葉である使徒信条においても、神さまを「父なる神」とお呼びします。み子を通していただいてきた恵みに感謝し、数多のキリスト者たちと共に、父なる神への信仰を告白するのです。