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神の選び

2026.6.28.主日礼拝

イザヤ61:1-2、テサロニケ1:4-5 191

「神の選び」浅原一泰

 

「自然に帰れ」。

この言葉を残したのはジャン・ジャック・ルソーと言われるが、実のところは中江兆民などの日本の自由民権運動家たちによってそう言い広められただけで、本当にルソーの言葉かどうかは分からないらしい。ただ、ありのままの、自然に生まれた状態の人間は善良であると。人は本来、純粋無垢で潔白であるのだと。しかし問題は、そのように善良に生まれて来た子供に、人の手が加わることが悪なのだと。「エミール」と言う本の中でルソーはそう書いている。人畜無害な状態、殺菌した状態にその子を置けば、自然にその子は正しく成長し、自己愛と他者への思いやりをバランスよく兼ね備えた人間となる、と言うことなのだろう。それに対して文明社会では、人間は富と権勢を求めて、他の一切の人間的価値を放棄する。他人を利用し、他人を押しのけて高い地位に登ろうとすることを企み合う。虚栄心が人の心をくすぐり、欺瞞と卑屈とがその人の心に入れ替わり立ち代り現れる。そのような状態は人間本来の状態ではないのだと。彼のこの思想が、あのフランス革命に多大なる影響を及ぼした。圧制に苦しんでいたフランス人民全ての心を瞬く間に動かして、ブルボン王朝と言う既存の権力(絶対主義王政)を否定し、それを打破するために武器を取らせ、立ち上がらせていった。それによってフランスのみならずヨーロッパの歴史、世界の歴史が大きく変革していく。人権、個人の自由が叫ばれていくことになる。その様子をルソーが見たら頷きこそすれ、思い悩む必要を感じることはなかったかもしれない。

 

更にそれより250年以上も前、マルチン・ルターの、大変有名な「罪人は教会によって義とされるのではない、信仰によって義とされる」と言う言葉も、同じような出来事を歴史に残した。彼の言葉を聞いて、それまで教会に服従し、貧しくても教会に捧げ物をしなければならない仕組みに嫌気が差していた農民達が、ルターの言葉によって武器を持ち、それまでの封建制度を打破するための戦争を巻き起こしたからである。早い話農民の一揆である。ただルソーと違うのは、ルターは、この農民の戦いを鎮め抑えるために力を注いだと言うことである。何故ならその戦いは、ルターの言わんとしたこととはかけ離れて、言葉が独り歩きした結果だったからである。そのためにルターは農民から非難され、対立せざるを得なくなった。罪を赦す神の義の発見により、罪の呵責から解き放たれたルターを待ち受けていたのは、なおいっそうの苦悩であったと言っても過言ではない。

 

既存の権力や権威を打破すれば自由が得られ、新しい未来が待っている。そのような甘い囁きに人間はそそられ易い。現状を変えたい。変えることが明日につながる。多くの人の心はそこへと引っ張られ易い。

キリスト教も、旧約聖書の中心である律法からの自由をもたらすために生まれた、と言われることがある。福音とは律法の束縛から解き放たれることだと考える人は少なくない。だからキリストを信じていても未だに律法を守っている人(主にユダヤ人)は信仰が未熟だと。特に異邦人の中にそう考える信者がいた。パウロ自身、異邦人に神の福音をのべ伝えるために神に召された伝道者であった。しかしパウロは、そのような異邦人に対して彼らを煽るのではなく、「思い上がってはならない」と説いた。それは彼が、神との交わりを忘れて、人間の優劣を競い合うことにうつつを抜かす人間の本性を直視させられていたからだと思う。

 

福音と言う宝が世にもたらされたのに、それが外気に触れてしまうや否や忽ちにして錆びついてしまう。人の手に渡るや否や輝きを失ってしまう。全てがそうだとまでは言えないとしても、それが事実であることは、皮肉にも世にある教会の現実の歩み、教会の歴史が証明している。ならば、その宝を外気に触れさせなければ良いのか。無菌状態に置けばそれでよいのか。違うと思う。そのような場所を探しても、世の闇の中に光はないからである。無菌状態などないからである。

 

宝は腐っていない。腐ってしまうのではない。それを腐らせてはならないと考える我ら人間、この世自体が実は神の栄光よりも人の栄光、自分の栄光を求め続けている。宝がもたらされたのに、宝を受け止める人間の側が、それを自分にとって都合の良いように摩り替えてしまっている。ルターが直面した苦悩は、彼が初めて苦しみ戦ったものではない。そもそもパウロが直面し、葛藤していたものであった。新しい宝がもたらされるや否や、古い宝に依存していた者たちはそれをかたくなに拒み、新しい宝しか知らない者たちはそのような過去を引きずる者たちを罵り非難する。互いに、自己を正当化するため、自分の栄光を求めるために相手を非難し迫害まで加える。パウロがこの手紙を書いた時、実際に彼を捕え迫害ようとするユダヤ人達がいた。宝を自分の好きなように摩り替える異邦人は未だ現れていなくても、宝そのものを拒むユダヤ人はいた。しかしそれとは別に、このテサロニケの町にはパウロ、シルワノ(シラス)、テモテがのべ伝える福音を聴いてキリストを信じる人々がいた。大胆に言ってしまえば、誰一人宝を宝として受け止められないこの世に、宝がもたらされことを喜び、そのために働きと労苦と忍耐を惜しまぬ異邦人達と僅かのユダヤ人が確かにテサロニケにいたのである。教会が確かに生まれていたのである。

 

「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私達の主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしている」。先ほど読まれた4節のすぐ前の3節でパウロはそう書いていた。そして今、パウロは明言する。「神に愛されているきょうだいたち」と。新約聖書の中で最古の文書であるこの手紙において、今ここで初めてパウロはテサロニケの教会の人々を「きょうだいたち」と呼ぶ。無論パウロが考え出した呼び方ではない。旧約において既にこの言葉は使われていた(45:15,133:1,エレミヤ22:18)。但し何故兄弟なのか。その根拠が違う。そのことについては後で触れたい。その前に、彼らが主に愛されていると言うだけではない。更に新しくもう一つのことがここで付け加えられている。

 

「あなたがたは神から選ばれたことを、私達は知っています」。

選び。これを皆さんはどう思っているだろうか。旧約において、神はアブラハムを選んだ。その子孫イスラエルを選びエジプトから贖い出した。それは神が、ご自分の御心を映し出させるため、他の被造物を守り支える使命を託すためにご自身の姿に似せてあのアダムを造られたように、神とはどのような方であるかを世の隅々にまで証させるために神はイスラエルを選ばれたのであった。つまり神が望み求めることのために彼らは選ばれた。しかし新約聖書において選びの基準は全く変えられた。

 

「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちが傍に寄ってきたので、イエスはこれらの人々を癒された」(マタイ21:14)

「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)

 

神に選ばれているとは、キリストがその者を選んだ、と言うことである。キリストを我が主と信じる信仰へとその者は選ばれている、ということである。それはあなたがイスラエルだから、割礼を受けているから選ばれている、と言うことでは全くない。あなたは洗礼を受けているから、有名な教会に属しているから選ばれていると言うことでは全くない。聖書をよく読み理解しているから選ばれていると言うことでもない。人間が神の選びを証明することはできない。先ほどのマタイの言葉によれば、病人、収税人、弱き者など、ただ神の恵みによって選ばれた者だけがそこにいる。人間の側に何のいさおしもない、何の根拠もない、キリストに選ばれた者だけがそこにいる。キリストに出会いキリストに引き寄せられた者だけがそこにいる。その選びに何の制約もない。何の分け隔てもない。ただ恵みのみによる選びが実現した。世にもたらされた。それがキリストによって神が世に示された選びなのである。

 

ロマ5:8には「しかし、私たちはまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」とある。選びが既になされていて、その選ばれた者のためだけにキリストは死んだのではない。選ばれた者だけが信じて、信じない者は選ばれていないのではない。かつてのアダムやイスラエルのように、ある役割を果たすために選ばれたのでもない。神がこの世を愛するが故に選ばれたのである。世の誰もが罪人であるのに、神に従う者などいなかったのに、その罪人の為にキリストが死んで下さった。テサロニケの教会は、キリストに示された神の愛によって振り向かされた人々・選ばれた人々の集いとして生まれた。従ってそれは、選ばれている者と選ばれていない者とを区別する選びではない。イスラエルが異邦人よりも優っていることを示す選びでもない。神を知らない世の人々よりも教会が優っていることを示すための選びでもない。神の選びとは、神の言(キリスト)がその者の命に宿ることである。信じる者全てに分け隔てなく宿ることである。そうして神の愛・キリストの姿かたちがその者の命に映し出され、世に証されることなのである。

 

では何故、パウロはテサロニケの主を信じる人々を「きょうだいたち」と呼んだのか。何故教会に集う我らは「兄弟姉妹」と呼び合うのか。神が全ての者の造り主であるからか。勿論そうである。しかし最も大切なこと、それはイエスが神を「アバ、父よ」と呼ばれたからであろう。ロマ8:29にこう書かれている。

「神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです」。

 

イエス・キリストが信じる者全ての長子であると。御子キリストの故に、キリストを信じる我らも神の子とされたのであると。つまり教会とはアブラハムの子孫の集いでも、異邦人の集いでもない。長子であるキリストによって、その恵みによって招かれた者たちの集い。血筋によらず身分によらず、ただ一方的にキリストからの招きによって、恵みによって一つとされた神の家族であると。それがあなたがたに伝えられた「私たちの福音」である。パウロはそう言い切ったのである。

 

誰によってであれ、どこに向けてであれ、いかなる外気に触れようとも、福音は生きた神の言葉に他ならない。ユダヤ人であろうが異邦人であろうが信じる者全てに分け隔てなく、生けるキリストが宿ることに他ならない。「私たちの福音」。それはパウロの特権ではない。その生ける神の言葉を運ばされている担い手が「私たち」だと。パウロであり、シルワノ(シラス)であり、テモテなのだと。しかし更に大切なのは、それを担い運んでいったのはパウロだとしても、それがあなたがたに伝えられたのは、パウロによってではない、と言うことである。もし宝が人の力や言葉によって伝えられるのなら、如何にしてその宝を腐らせないようにするかを思い煩えば良い。腐らせないような、どこか良い保管場所、殺菌された良い教会はないか、思い巡らすが良い。そうして宝そのものを見ないで、見えるもの、耳で聞こえるもの、手で触れられるものだけにこだわっていれば良い。人の言葉で伝えられると思う伝道者がいるなら、言葉に磨きをかけることに思い煩い、人の心を打つ話をする技術を身に着けようともがけばよい。しかし間違ってはならない。それでは、福音はあなたがたのところに決して伝わらない。御言葉はそう言っている。

 

「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからです」。

人の言葉だけによるのではない。では何によって伝えられたのか。聖霊によったからだと宣言されている。それを語ったのはパウロ達であったにしても、それが聴く者の心を砕き、悔い改めさせ、それを受け入れさせたのは聖霊によるのだと言うのである。力とは、神とキリストから発せられた言葉をとりなし、聴く者の心を砕く聖霊の力、神が生きて働きかける力のことである。強い確信とは、聴く者受け取る者の心に聖霊が働き、聴く備えが整えられた状態のことである。

 

「私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした」(1コリ2:4)。コリントには、聞く者を喜ばせるため心に平安を与えるために知恵を駆使して神の言葉を用いる者がいたから、パウロはこう言わざるを得なかった。ガラ3:2.「あなたがたにこれだけは聞いておきたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか」。ガラテヤの教会では、キリストを信じるだけではなく律法も行わなければ義とされないと説いてまわる者たちがいて、それによって揺さぶられ、パウロの言葉を捨てる者たちが現れ始めたためにパウロはこう言わざるを得なかった。宝を自分にとって良いように摩り替える者がいたからである。

 

 

何年信じていようと、或いはまだ信仰に入ったばかりであっても、皆さんが信じたのは人の言葉を聞いたからではない。聖霊を受けたからである。聖霊によってキリストがあなたの心に宿ったからである。聞いて分かったとか、理解したからでは全くない。聖霊によって、ただ恵みによって聴いて信じた世の初めのキリスト者達の歩みは、何年経っても、いずこの地にあっても、全ての教会に、我らの教会にも、キリストを信じて従う群れの歩みが何であるかを示してくれている。そうではないだろうか。