悪より救い出したまえ

「悪より救い出したまえ」申命記61013、Ⅱテサロニケ315

2026621日(左近深恵子・主の祈り)

 

 主の祈りの願いに順に耳を傾けてきて、先週は最後の「こころみにあわせず悪より救い出したまえ」という願いについて聖書から聞きました。本日はその願いの後半、「悪より救い出したまえ」に特に焦点を絞ってまいります。

 先週、「こころみ」という言葉は「試練」とも「誘惑」とも訳し得ることに触れました。試練は神さまから来るものであると、その中でもがきながらも試練と対峙しようとする人に、耐え忍ぶ力が神さまから与えられ、その先に神さまからの報いが約束されていると、聖書は伝えています。他方、神さまから引き離し、悪へと陥らせるものについて語られている文脈では、「こころみ」という言葉は「誘惑」と訳されることが多いようです。人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのだと、聖書は伝えています。誘惑は私たちを神さまからの報いに至らせず、悪へと陥らせます。そのような試みを、主イエスは福音を宣べ伝えるお働きに先立って悪魔から受けてくださったことを、先週、マタイによる福音書から聞きました。悪魔は主イエスに、人々の期待に応える救い主像を提示しては、そのような救い主になってはどうだと囁きます。そうして、神さまのみ言葉よりも悪魔の言葉に従う道へと、おびき寄せようとします。けれど主は聖書の言葉によって一つ一つそのこころみを退け、人々を悪から救い出す、真の救い主の道を守り通してくださいました。

 マタイが伝える荒野での試みの物語で、悪魔は最初の内、「試みる者」とだけ呼ばれています。石をパンに変えて、40日の断食による空腹を満たしてはどうだ、そのような奇跡をこの先人々のために行って人々の飢えを満たせば、人々はあなたを神の子だと信頼し、あなたに従う者の数はうなぎ上りに増えてゆくだろうと持ち掛けましたが、そのように人々の期待に応えても、それは本当に人々を生かす救いにはならないことを主イエスに暴かれて以降、悪魔は「試みる者」ではなく「悪魔」と呼ばれるようになります。人々の期待や欲望を隠れ蓑にすることを諦めたかのように、こころみが悪魔からのものであることをもはや隠さなくなります。悪魔からのこころみであることが明らかにされていなければ私たちは、石をパンに変えてみてはどうかという提案は、人間の切実な課題に解決をもたらしそうな、非常に魅力的な話しだと、最初のこころみから惹きつけられてしまいかねない者であることに気づかせる、マタイの語り口です。試みる者が空腹に苦しんでおられる主イエスに近付いて来て話しをもちかけたように、悪はそれを私たちの所に運ぶ誰かがいるから、私たちの耳にするところ、目にするところとなります。誰かが悪を実行しているから、その影響力に私たちは揺さぶられます。悪魔と言う表現が登場すると、私たちの現実とは接点の無い話のように聞こえてしまいがちですが、誰かを介して悪が運ばれ、人がそれに共鳴し、人々の間で悪の力の影響力が増幅してゆく悲惨さは、私たちが知る現実ではないでしょうか。

 悪とは、悪いことをすることだと私たちは思いがちですが、そればかりではないことに、荒野で悪魔が持ち掛けた提案によって気付かされます。飢えを満たすために無くてはならない糧によっても、悪へと引きずられかねないのだと、気付かされます。先ほど共にお聞きした申命記も、飢えに対する不安から解放されると安堵する幸な時も、人が道を過つ危機となり得ることを教えています。奴隷の地から救い出された神の民イスラエルの荒野の40年の旅は、水も食糧もほとんど無い、死の危険にいつもさらされている環境の中で、神さまが与えてくださる天からのパン、マナと、神さまが備えてくださる水によって養われる日々でした。かつてイスラエルの父祖たちに神さまが約束し、与えられ、この民に約束してこられたカナンの地にようやく導き入れられ、徐々にその地に住む場所を得て、移住する時、荒野しか知らない世代となっていた神の民はそれまで味わったことのない豊かさを知ります。カナンの地には既に高度な文明が栄え、大きな素晴らしい町があります。豊かな土壌を活用した農耕が盛んになされてきたその地には、あらゆる財産で満ちた家々があり、水を湛えた貯水池もあり、そこで暮らしてきた他の民が耕し、植え、世話をしてきたぶどう畑とオリーブ畑があります。神の民自身は労せずして、他の民の働きの実りを継承することになります。その豊かな糧を食べて、豊かな生活に浸る時、主を忘れてはならないと申命記は忠告します。満ち足りると、神の民の心は神さまへの感謝には向かわず、高ぶり、どなたが主であるのか見失いかねません。自分の力がこの豊かさを自分にもたらしたのだと、自分を自分の主としてしまいかねない。カナンの民が豊作を願ってひれ伏すカナンの偶像の神々を主としてしまいかねない。またそれらを真の神と並べてしまいかねない。そうではなく、あなたがたの中におられる生ける神、「あなたの神、主を畏れ、主に仕え」なさいと命じます。奴隷の地から救い出してくださり、ご自分の民としてくださり、ご自分との契約に生きる者としてくださった、神さまが与えてくださった神さまとの関係に、豊かさに満たされる時も生きる者であるのです。

悪とは、神さまから離れて良いのだと、神さまでないものにひれ伏す方が現実的な救いとなるのだと、そう思わせるものです。あるいは、神お一人を崇めなくても良いと、神に並び立つ力があると、そう思わせるものです。そう思わされ、悪に引きずられることが人間にとってどんなに危ういことなのかよくご存知であったから、主イエスは福音を宣べ伝えるために、先ず自ら、神さまから引き離そうとするこころみと闘ってくださいました。神さまから離れることの深刻さをなかなか認識せず、こころみとがっぷり四つに組んで闘うことも難しい私たちに、主の祈りによって、先ず「み名を崇めさせたまえ」との願いから祈り始めることを教えてくださり、「悪から救い出してください」との願いで祈りを閉じることを教えてくださいました。自分が直面するこころみが、神さまからの試練なのか、神さまから引き離す悪であるのか多くの場合分からなくなってしまう私たちに、「悪と闘い抜き、悪に勝利させてください」と、威勢の良い願いによってではなく、「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という願いを神さまに率直に訴えて良いのだと、その救いを願う祈りで終わることを教えてくださいました。この祈りが「私たち」「我ら」と、複数形で祈る祈りとして与えられていることにも、大きな励ましを私たちは見出し続けます。こころみに会う時、悪に引きずられる時、共に「こころみにあわせないでください」「悪から救い出してください」と祈っている誰かがいることを、いつも思い起こすことができるのです。

今日はⅡテサロニケの言葉も聞きました。パウロが二回目の宣教旅行において、ギリシア北部のテサロニケという町で仲間たちと福音を宣べ伝えたことで誕生した教会に宛てた手紙です。パウロ達が去った後、生まれて間もないキリスト者の群れはまだ信仰が未熟であったため、信仰の理解をめぐって教会内に問題が生じます。教会は迫害の危機の中にもありました。そのことを伝え聞いたパウロは、信仰について説き、力づけようと、第一の手紙と第二の手紙を送ったと考えられています。

第二の手紙は1章、2章で、キリストについて説き、励ましてきました。第一の手紙でも、後の他の手紙でもそうですが、パウロは3章で、自分たちのために祈ってくださいと頼みます。テサロニケの人々のために祈って来たパウロ達ですが、自分たちも祈りが必要であることを率直にテサロニケの人々に伝えます。パウロは、福音を宣べ伝える旅へと踏み出した時から、パウロを送り出した教会の祈りによって支えられてきました。パウロたちの働きを通してテサロニケに信仰者の群れが生まれ、テサロニケの教会はパウロ達が去った後もパウロ達の祈りに支えられてきました。それはまた、パウロたちを支えてきた他の教会の祈りによっても支えられてきたということでした。そしてテサロニケの教会は、祈られるだけでなく、パウロを支える祈りの輪に加ええられてゆきます。教会はそれぞれが、互いに祈り合う祈りによって、教会であることを支えられてゆくのです。

パウロはテサロニケの教会の人々に、祈って欲しいことを二つ、伝えます。一つは、パウロ達が伝える「主の言葉」、つまり福音が、テサロニケでそうであったように他の地でも「速やかに広まり、崇められますように」という願いです。「速やかに広まり」という文は、「走る」という言葉で表現されています。福音が走るように、速く、広く伝わって欲しいと願いながら、パウロたちは宣べ伝えているのです。「崇められますように」とは、勿論パウロが崇められることではなく、福音が証しする神さまが崇められますようにと、福音が届いたその地でも神さまの栄光が称えられますようにとの願いです。主の祈りは、神さまのみ名が崇められますように、との願いから始まりますが、パウロ達が福音を運びのも、神さまのみ名が崇められるためです。人々から相手にされないこと、耳を傾けてもらえないことが少なくなくても、迫害の危険にさらされても、神さまのみ名がその地でも崇められ、神さまの栄光をこの地でも独りでも多くの人と賛美したいと願って、「良い知らせを伝える者の足」となって、駆け巡ろうとしています。そのために、テサロニケの教会にも祈って欲しいと求めるのです。

パウロのもう一つの願いは、「よこしまな悪人たちから逃れられ」ることです。「よこしま」と訳されている元の言葉は“場所から外れている”ことを表します。そこから“道を外れた、不正な、邪悪な”といったことを意味します。神さまは、人は、本来神さまから与えられている性質を自ら損ね、神さまのみ心にお応えする在り方を貫けず、悪にひきずられてしまっています。そのような人間を救い出すために、神さまはみ子を世にお与えになり、み子の命によって人々に救いをもたらしてくださいました。この福音を伝える者たちの行く手を阻み、その道から引き剥がそうとする人々の邪な手から、逃れることができるようにと、パウロは願っています。キリストの福音を宣べ伝える者たちの働きへの妨害、キリストの福音に生きようとする者たちへの迫害は、ユダヤの地でも、異教の人々の地でも、起こってきました。テサロニケの人々も、そのために苦しみを受けていることが、第一の手紙に記されています。テサロニケの教会に手紙を書いた時、パウロはコリントに滞在していたと考えられていますが、そのコリントでも、福音を語るパウロに対し口汚く罵った人々が居たことが、使徒言行録に記されています(使徒1856)。この先も、邪な力がパウロ達に向けられることは避けられないことをパウロは覚悟しつつ、その力から「逃れられ」、福音を宣べ伝え続けられるようにと、強く願っています。「全ての人が信仰を持っているわけではない」からと言い添える言葉にも、厳しい道を見据えながら、進んで行こうとする姿勢がうかがえます。しかしそれは、自分たちだけで切り拓く道ではありません。同じようにキリストに従っている信仰の仲間たち、福音を宣べ伝えよとのキリストの命令に従う道を阻まれる辛さを、同じように知っている、迫害と苦難を受けてきたテサロニケの人々に、祈られながら進む道であるのです。

「すべての人が信仰を持っているわけではない。しかし主は真実な方だ」とパウロは記します。真実なる主が、自分たちと同様、苦しみ多い現実の中にあるテサロニケのキリスト者たちのことも、強め、悪しき者から守ってくださることを、パウロは確信しています。自分たちのために祈って欲しいと頼んだテサロニケの教会の人々に、今度はパウロからこの言葉を贈ります。テサロニケの人々が闘ってきた悪しき者との闘いは、勝つか負けるか分からないようなものではありません。主は十字架にお架かりになる前の、最後の晩餐の席で弟子たちに遺言のように教えを語られ、その最後をこう締めくくられています、「これらのことを話したのは、あなたがたがた私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ1633)。主の弟子として生きるキリスト者たちには、主の弟子として歩むからこそ苦難もあることを、主が一番よく知っておられます。その主が、十字架の死によって悪に勝利し、主の救いに対して悪を無力なものにしてくださっています。キリスト者は、主が救いをもたらしてくださっていることに力づけられ、主の勝利によって実現されている平和を求めつつ、勇気をもってキリストに従う道を進みます。悪しきものの力に押しつぶされそうな時、自分の弱さを認め、私たちを悪しき者から守ることのおできになる主に、「守ってください」と助けを求めるのです。主に助けを求めることができる主との繋がりを、み子によって与えられている恵みを、主の祈りの度に思い起こすのです。

パウロはテサロニケの人々の生活がこれからも、キリストによって聖なる者とされ、神の子とされた恵みに相応しい歩みとなってゆくことを確信しているとも伝えます。そう確信を持つことができるのは、テサロニケの人々が特別に立派な信仰者だからではなく、テサロニケの人々を思うパウロの思いが特に強いからでもありません。主にあって、確信しています。テサロニケのキリスト者たちが主によって教会につなげられているから、教会の頭であるキリストが、そのえだである一人一人と共におられ、聖霊が一人一人に働いておられるから、主によってこの人々のこの先の歩みも信頼することができるのです。

 最後の5節でパウロはテサロニケの人々のために祈ります。今はそれぞれ離れた地にありますが、パウロ達とテサロニケのキリスト者たちの、祈り、祈られ、また祈る交わりは、続いてゆきます。パウロは、「どうか、主があなたがたの心を、神の愛とキリストの忍耐へとまっすぐに向けてくださいますように」と祈ります。悪しき者たちの妨害に疲弊し、苦難が心を覆い尽くすような現実の中でも、主があなた方の心をまっすぐにしてくださいと、真っすぐに主へと向かわせてくださいと、祈ります。頽れそうな心、先が見えずに迷う心に、神さまが注いでこられた愛を見つめさせてくださいと祈ります。それはまた、神さまから注がれてきた愛をもって他者を愛することを求める祈りへとつながります。またパウロは、キリストが試練と苦難の中で持っておられた忍耐を持たせてくださいと祈ります。キリストの忍耐に倣ってキリストの後に従うことを願う祈りであるでしょう。

 

私たちの力もどの道を行くのか見出す内なる目も、私たちの愛も忍耐力も、主から与えられています。主に真っすぐに向かおうとする歩みに、主からいただいてきた賜物は発揮されます。私たちは主から救いをいただいている者であり、主のお働きが無ければ悪に陥っていってしまう者であると知ることが、真の平和と力を知ることへとつながります。そうして、歩みの姿勢を祈りと共に整えられる日々であることを願います。