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罪を赦したまえ

「罪を赦したまえ」詩編32、マタイ182135

202667日(主の祈り・左近深恵子)

 

 「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という一文は、主の祈りの6つの願いの中でも、とりわけ祈ることに困難を覚えるものではないでしょうか。「我らが赦すごとく」という部分にさしかかるとつい祈る声が小さくなってしまう、歯切れが悪くなってしまう思いを、私たちは味わってきたのではないでしょうか。誰にとっても他者の罪を赦すのは本当に難しいものです。主イエスが私たちに求めておられることの中で、自分に罪をおかしたものを赦すのは、最も難しいことかもしれません。この祈りを、自分のことは脇に置いて祈れたらと願ったことがある人、この祈りが「我らの罪を赦したまえ」だけで、「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく」と言う言葉は無ければ良かったのにと思ったことがある人は、少なくないのではないでしょうか。

「我らが赦すごとく」という表現は、既に赦したことを意味します。マタイによる福音書6章に記されている主の祈りでも、罪の赦しの箇所を主はこのように言われています、「私たちの負い目をお赦しください/私たちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」(マタイ612)。私たちが既に人を赦したと、そう主のみ前で祈ることが求められています。“これから赦すことに努めますから”ではなく、「赦しました」と祈るのは、非常に難しいことだと、そのようなこと言えるだろうかと、祈る口が重くなってゆく思いがします。また、「我らが赦すごとく」という言葉は、私たちが他者を赦すことが、私たちが赦される条件のようにも聞こえてしまいます。もし私たちが人を赦すことが条件ならば、「我らの罪をも赦したまえ」と祈ることなどできないと、暗澹たる気持ちに陥ってゆきます。では主の祈りの罪の赦しの願い込められた主イエスのみ心はどのようなものであるのか、マタイ18章の主イエスの教えにも耳を傾けてまいります。

それは、自分に対して罪を犯した者を、「何回赦すべきでしょうか」とのペトロの問いから始まります。ペトロは7回までですかと、完全さを表す7という数字を挙げて、この自分に完全な赦しは為し得るのでしょうかと尋ねます。“自分に完全な赦しなどできるはずが無い”という私たちの思いと響き合うようなペトロの問いです。それに対し主イエスは、7回どころか770倍まで赦しなさいと、ペトロが思う完全さを遥かに上回って、完全さに完全さを掛け合わせ、これ以上無いところまで赦しなさいと、赦しには天井が無いのだと、赦すことに終わりは無いのだと告げられました。そして、天の国はこのようなものであると、ペトロや私たちに、自分自身の限界や、自分が赦せないことの、自分には正当に思える理由から目を挙げて、天の国を思うこと、神さまのご支配を思うことを促します。そして、ある王と家来たちが清算を始める話を語られました。

神さまのご支配についての譬え話に「清算」という言葉が登場するのを聞いたペトロをはじめとする弟子たちは、神さまの裁きをここで思ったかもしれません。「清算」という言葉は、終わりの日に神さまが下される裁きを示す言葉でもあったからです。

王と清算を始める家来たちは、王から国の財政業務を任されているということでしょう。しかし登場した家来は望まれていた成果を上げることができなかったということでしょう、王に対して莫大な借金を負う状況に至っています。「借金」と訳された言葉も、6章の主の祈りで、罪の赦しを願う箇所において「負い目」と訳されている言葉も、同じ言葉が基になっています。既に主の祈りを教わっている弟子たちは、罪を赦すことに終わりは無いと教えられて語られた譬え話で、家来が借金を追っていたことと主の祈りの「負い目」を重ねつつ聞いたかもしれません。罪とは、借金のように負っているものであります。自分がその罪を悔いればそれで終わりということではない、償ない、解決しなければ、負債のようにいつまでも誰かに負い続けるものであることを、借金と負い目という言葉から思わされます。

この家来は王に対して借金を負っていました。その額、「一万タラントン」は莫大な値です。譬え話を聞いていた弟子たちの感覚では、一個人が返せる額では到底ないものだったでしょう。弟子たちにはこの家来の状況は、現実味の無いもの、自分とは遠いものに思えたことでしょう。返済できない家来に王は、負債を解決する方法を示します。家来自身もその妻も子も持っている財産も、全部売って返済するようにと言うのです。自身や家族を奴隷として売って借金を返せと言う命令は残酷に思えますが、これはイスラエルの民を支配してきたエジプトやローマ帝国の社会ではかつて為されていたことでした。その後そのような返済方法は制限され、借金を負っている者を牢に入れ、その者の親族や友人が肩代わりして返済したら釈放するという方法が一般的になってゆきます。譬え話を聞いていた弟子たちにとって、かつて為されていた、今もどこかの国では為されているかもしれない方法が、王から家来に命じられたということでしょう。

家来はひれ伏し、全額返済することを約束し、それまでの猶予を懇願します。自身や家族を奴隷に売ることはともかく、持っているものを何一つ売っていないこの家来に対し、王は借金全額について、返済を免除します。家来を憐れに思って、赦したのです。莫大な額の損失を全て王が被ることで、家来の負債を解決することを決断したのです。弟子たちにとって、天文学的な数字の借金も現実味が無ければ、その借金を全て帳消しにして王自らその負債を負うという展開はより、現実味の無いものだったのではないでしょうか。

場面は移り、負債を免除され、王の前から去ることを許可され、家来は外に出たところで、仲間の家来の一人を見つけます。それは自分に借金をしている者でした。先ほどまで借金をしている側であった家来でしたが、ここでは借金をされている側へと立場が逆転しています。しかし借金の額は先ほどの60万分の一、100デナリオンです。当時の労働者が100日働けば達する額です。慎ましい生活をしながら貯めれば、1年後には返済することが可能であったのではないでしょうか。弟子たちにとっても自分たちの生活から遠くない現実的な、解決が可能に思える額であったでしょう。

見つけた仲間を家来は捕らえ、首を絞め、借金の返済を迫ります。仲間は、先ほど家来が王に対してしたように、家来の前にひれ伏し、先ほど家来が王に対してしたように、返済を約束し、猶予を懇願します。しかし、王は家来のことを「憐れに思」いましたが、家来は仲間の願いを「承知」しません。仲間を牢に入れて、仲間の代わりに誰かが借金を返済するまでそこに拘留するという道を選びます。王が初め家来に命じたように、奴隷として自身や家族を売って返済するように仲間に命じることをしなかったのは、100デナリオンが奴隷の値段よりも少ない額であったからだと考えられています。

事の次第を、家来の他の仲間たちが見ていました。家来も、隠れてこのことを為すつもりはなかったかもしれません。その必要は無いと、間違ったことはしていないと思っていたかもしれません。家来が借金の返済の仕方として仲間に対して取った道、自分に対する借金を返済できない者を牢に入れて、その親族や知人からの返済を待つと言う道は、先ほども触れましたが、一般的な感覚では際立って酷いものでは無かったと考えられています。普通に行われていた手段を自分も取ったまでだと家来は思っていたかもしれません。この出来事だけしか見えていなければ、家来を擁護する意見も多くあるかもしれません。

主イエスのなさる譬え話はまことにリアルです。私たちの視野は限られています。その中で、次々と起こる具体的な出来事や問題に揺さぶられ、何とかより正しい道を選び取ろうともがいています。この家来のように、一般的な、常識的な手段で、自分が不利益を被らない、自分の生活を守れる道を求めることも多い私たちです。そうして私たちが選び取った道は、限られた自分の視野の中では正しいと言い張れるかもしれません。同意してくれる意見も多いかもしれません。しかし、この家来には見えなくなってしまっている第一の場面があるように、私たちには見えなくなってしまっている神さまのご支配が私たちの視野の外にあります。私たちが既に経てきている、既に神さまから与えられている赦しがあります。自分が神さまから負債を赦された者であることを認めたくない思いは、私たちの奥底でいつもくすぶっています。私たちが神さまに負っている負債を解決するために、私たちに罪の責任を問うことなく、罪を知らないみ子を、私たちのために罪となさったことから目を逸らしたがる私たちの頑なさは、私たちの視野を狭めます。しかしみ子を私たちのために罪となさり、私たちをご自分と和解させてくださった父なる神は、和解の務めを私たちに授けてくださっています(Ⅱコリ51821)。み子によって既に罪の赦しを与えられている、このことが私たちの他者との関りの根底に無ければ、他者との間にある問題の解決を心から願うことができません。私たちが自分に対する罪に苦しむ前に、主が苦しまれ、私たちが他者を赦す道を求める前に、主が私たちを赦しておられる、そのことを主イエスは譬え話の第一の場面で教えてくださったのではないでしょうか。第一の場面で赦されているから、それも比べ物にならない膨大な負債を赦されているのだから、家来は仲間に対して下した判断を問われるのです。

家来の他の仲間たちから事の次第を聞いた王は家来を呼び出します。「不届き者」と訳された呼び方を直訳するなら、「悪い家来」となります。世の常識の内では普通と言い張れても、王の前ではその悪は明かです。王はこの家来に免除した負債を返済するように要求し、拷問係に引き渡します。それは残酷な裁きのように私たちの耳には聞こえますが、借金を返済しない者を拷問にかけることで、親族や友人に肩代わりを迫るのも、弟子たちの置かれている社会においては見られてきたことと考えられています。

王は家来を「不届き者」「悪い家来」と呼んで、「私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と、家来が取るべき正しい道は王に倣うこと、王の後に続く道であったことを告げます。「私は」と言う言葉を敢えて強調する仕方で、王は家来を憐れんだことを思い出させます。最初の場面で、王は家来を「憐れに思った」とありました。その時の「憐れ」という言葉とは別の言葉が、第三の場面の「憐れむ」には用いられています。最初の「憐れに思って」は、内臓を痛めるという言葉が基になった、自分のはらわたを痛めるように相手の困窮を同じくするといった意味の言葉です。他方、第三の場面の「憐れむ」は、憐れみを行為で示すこと、相手の思いを自分も同じくしていると行為で表すことを意味します。マタイによる福音書の山上の説教の冒頭、「幸いである」と繰り返される5章の教えで、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」と主が言われる箇所の「憐れみ」がこの言葉です。その後この福音書では、盲人や、異教徒の女性や、悪霊に取りつかれた息子を持つ母親が、主イエスに向かって、「私たちを」「私を」「息子を」「憐れんでください」と助けを求める場面で用いられてきました。神さまが、イエス・キリストが、自分たちに対して為さって来たことを、他者に対し、行為によって表すように、主イエスはこの譬え話において、王の言葉を通して、弟子たちに呼び掛けておられます。私たちが返済すべき負債を神ご自身、み子の命の値をもって既に償っておられ、私たちは既に神さまから赦され、神さまとの和解の中に入れられている、この私たちの常識とは比較にならない膨大な、莫大な、赦しの光の下で、他者との関りを見ることへと促されています。私たちの思い、私たちの意志の力では生み出すことのできない憐れみです。罪の赦しを願う祈りは脇に置きたくなってしまう、時に、他者を赦せない自分を自分で正当化までしてしまう私たちです。自分に対して負債を負う者を、はらわた痛めるように憐れむことや、その相手を憐れみ、赦すことの難しさについてなら、幾らでも語り続けられる私たちです。そのような私たちが、主から憐れみと赦しを受けているからこそ、主の言葉に耳を傾けることへと導かれます。共にいてくださる主にあってその人の思いを僅かでも同じくすることへと背中を押され、共に重荷を担ってくださる主にあって憐れみを行為で表すことへと力づけられます。

 

主の祈りの「我らが赦すごとく」と言う言葉は、私たちが他者を赦すことが、私たちが赦されるための条件であることを意味しません。神さまの私たちに対する赦しは既にもたらされています。神さまの赦しが先行しています。終わりの時に完成される神さまのご支配の中を、私たちは神さまの憐れみに倣いつつ、歩んでゆきます。私たちが主から憐れまれたように、生涯他者を深く憐れんできたか、終わりの時に裁き主なる神さまのみ前で問われます。その終わりの時まで私たちは、「我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈り続けます。私たちの真の王、神さまのみ前に自分自身を置き、神さまに倣って他者を憐れむという、神さまから与えられた生き方の筋に添って生きて来たか、神さまの圧倒的な赦しの光の中を歩み、他者との関係がその光の中にあることを、行動をもって示してきた歩みであったかどうか、振り返りつつ、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しました」と、日々祈りを重ねてゆくことが求められています。主イエスは主の祈りを与えてくださり、自分では決して償うことのできない罪を赦された恵みに日々立ち帰ることを得させてくださっています。日々の歩みに必要なこの祈りを、「我ら」「私たち」と、信仰の兄弟姉妹と共に祈りつつ、共にもがきつつも、歩んでゆける幸いも感謝します。