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地にもなさせたまえ

「地にもなさせたまえ」エゼキエル331011、マルコ143236

2026517日(主の祈り・左近深恵子)

 

 主イエスが与えてくださった、主の祈りと私たちが呼ぶ祈りの中の言葉を、このところ礼拝で順に受け止めています。今日は、「み心の天になるごとく、地にもなさせ給え」という祈りの言葉を共に受け止めてゆきます。そのために、十字架の死を目前にされた主イエスの言葉に耳を傾けてまいります。

 エルサレムの都で弟子たちと最後の晩餐を囲まれた後、主イエスは弟子たちを伴って、都の東側の谷を渡り、オリーブ山の麓のゲッセマネと呼ばれる場所に行かれました。ヨハネによる福音書に、「そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられた」とあります(1812)。ユダの手引きによって、主イエスを逮捕する者たちがやがて現れることを主イエスはご存知です。その時が来るまで、弟子たちと祈るために来られたのです。

弟子たちに、ご自分が祈っている間ここに座っていなさいと言われます。これまでのように弟子たちと祈りの時を共にしつつも、十字架が迫りつつあるこの時は、父なる神との特別な祈りの交わりをお一人で為さろうとしています。弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、ご自分が祈りを捧げる場所の近くまで伴われます。大切なことを示される時に、この3人を弟子たちの代表として選ばれるのは、珍しいことではありませんでした。ルカによる福音書はこの場面で、それは「石を投げて届くほどの所」だと記しています。3人にご自分の祈っている姿を目に焼き付け、ご自分の祈りの言葉を内に刻ませようとしておられるようです。いつもであれば主イエスは直ぐに祈りの姿勢を取り、鎮まって祈りへと集中してゆかれるのでしょう。しかしこの日、主イエスがひどく苦しみ悩み始めるのを3人は目にします。主は彼らに、「私は死ぬほど苦しい」とも言われます。主イエスが苦悶しておられることにも、その様を弟子である自分たちに隠そうともされないことにも、死ぬほど苦しいのだと言われることにも、三人は戸惑ったことでしょう。主イエスに敵対してきた民の指導者たちによって、主イエスが命の危機にあることは、弟子たちも知っていました。この直前の最後の晩餐の席でペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い切りました。ペトロだけではありません。「皆の者も同じように言った」と続きました。弟子たちは、自分たちはもう覚悟を決めていると思っています。それは、たとえ主イエスが死なれることになっても、主イエスならば最後の瞬間まで堂々としていてくださるはずだと、苦しいとか辛いとか一切弱音を吐かず、弱さを全く見せず、死も恐れず突き進んでくださる立派な方だと、それがメシア、救い主だと、そう期待していたからでしょう。

その期待が裏切られ、必死に抑え込んできた彼らの内なる恐怖心が膨れ上がったのかもしれません。主に従うことを選んだ人生が失敗に終わり、死が自分たちにも迫っていると、追い詰められる思いであったのかもしれません。今日の箇所はこの先で、3人が主イエスから目を覚ましていなさいと言われたのに、主が彼らの所に戻られる度、彼らが眠りこんでいるのをご覧になる、それが三度繰り返されることが述べられます。主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と彼らに言われていることから、彼らの問題は眠気に勝てないということではなく、祈ることに向き合いきれず、眠りに逃げ込みたい誘惑に引きずられていることにあることが明らかです。この先への不安に駆られれば駆られるほど、恐怖心で心身は消耗し、祈り続ける力まで失ってしまう、自分で何とかしなければと思ってもどうにもならず、これ以上見聞きせずに済む眠りの闇に自分を支配させてしまう彼らの状態は、私たちにも身に覚えのあるものではないでしょうか。彼らの所に戻っては、彼らがまたも眠っているのを目にされる主イエスの悲しみは、私たちが主に負わせてきた悲しみでもあります。

その彼らにご自分の祈りと苦悶の様を見聞きさせようとされた救い主は、私たちの背中を繰り返し祈ることへと押しながら、祈れずにいる私たちに先立って祈られる方であります。私たちに、祈るとはどのようなことであるのか、教えてくださる方です。「たとえご一緒に死ぬことになっても」と、主と共に死ぬ覚悟を表明したその舌の根も乾かぬ内に、祈られる主イエスの傍に置いていただきながら、主イエスを見捨てて見聞きせずに済む眠りに自分を明け渡してしまうペトロたちや、主イエスの大切な祈りの場所を、主イエスを指導者たちに引き渡す場としてしまうユダによって、主イエスの苦しみは一層深いものとなってゆきます。ここで「ひどく苦しみ悩み始め」と言われている文の中の「悩み」と訳されている言葉には、故郷を離れた不安の意味があります。最も近くに伴い教えを与えてこられた弟子たちからの背きが次々と明らかになる度に、主の孤独は深まっていったことでしょう。

そして主の苦しみは何よりも、弟子や私たちを含むすべての者が対峙しなければならない、私たちの罪の結果としての死の苦しみであります。神のみ子である主イエスは、人としてお生まれになりました。主が人となられたのは、見せかけのこと、名目だけのことではありません。苦しむ必要の無い罪無き神のみ子でありながら、人として罪の末の死を苦しみ抜いておられます。肉体を持つ人として、その身において、罪の末の死を滅ぼすために、苦しみと、恐れと、悲しみと、対峙し続けておられます。それなのに、十字架の死へと引き渡すのが弟子であれば、主の苦しみを直視したくないと主に背を向け、見捨てるのも弟子たちであります。そうであるのに弟子たちも私たちも、主が苦しまれること、祈りにおいて、父なる神に、「できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるように」と、「この杯を私から取り除けてください」と祈られたことに、期待外れだと、認め難い思いを抱いてしまうのです。

 主の祈りで主イエスは、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることを教えられました。み心が天で行われるように、地の上でも完全に行われますように、という意味です。「み心」とは、神さまのご意志、神さまのみ旨です。神さまのみ心がもっと地上で実現されることを、誰もが願っていることでしょう。しかし、神のみ心が何であるのかはっきりとは分かりません。自分の思い描いている理想や、自分が願い求めていることが、神さまの御心と全く一致しているとは、誰も言えません。だから私たちは迷い悩みます。では、「み心を地にもなさせたまえ」と、どうやって祈ることができるのでしょう。どうやってみ心を知ることができるのでしょうか。第一に、聖書がみ心を指し示します。神さまが告げられたこと、預言者やその他人々にお遣わしになった者たちを通して告げられたことを受け止めることで、今やこの先についても神さまのみ心を知ろうとする姿勢が与えられます。けれど、今何をしたら良いのか、どの道を進めば良いのか、具体的で細かな道案内を聖書に求めるなら、それは違うということは、聖書に聴いてゆく内に気付かされます。神さまのみ心を求めるもう一つの道は、祈ることです。神さまに祈ることに日々立ち返ります。聖書のみ言葉に耳を傾けることと神さまに祈ること、この二つを重ねてゆきつつ、私たちの判断が、神さまのみ心に従うものとなることを願い求めます。その私たちに聖書は、イエス・キリストを世に与えてくださったことに、神さまのみ心を最も知ることができることを教えてくれます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ316)と主が言われている通りです。

 主イエスの弟子たちは、主イエスに出会い、旧約聖書が告げてきた神さまのみ心が地に今、もたらされていることを信じました。神さまがこの方をお遣わしになり、この方によってみ心が地上で成し遂げられるのだと確信するようになりました。だから、私に従いなさいと主から招かれた彼らは、主にお応えして、それまでの仕事も故郷も家族も後に残して、主イエスと共にここまで来ました。それは、み心が地に為されるための神の御業に加えられた道行きでありました。

かつて主イエスは、パンを求めてご自分を追って来た群集に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である」と言われました。肉体を持って生きている私たちには、食べ物が必要です。しかし、朽ちる食べ物のために働くだけの一生ではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きながら歩む道を示されました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とも言われました(ヨハネ6章)。また、ペトロの手紙一は、「人の欲望によってではなく、神のみ心によって、肉における残りの生涯を」生きるようにと呼び掛けています(Ⅰペトロ42)。迫害の嵐の中にあるキリスト者たちに宛てて書かれたこの手紙は、人となられたキリストも、肉において苦しみを受けられたことを受け取り手たちに思い起こさせ、み心に従って生きることを、主イエスご自身が何よりも求められたこと、そして人々にも、神のみ心によって、生涯を歩むことを望まれたことを、教えるのです。弟子たちは、主イエスにおいてこそ神さまのみ心を知り、永遠の命に至る食べ物のために働く主イエスに従い、神さまのみ業に参与する日々を送ってきた、幸いな人々であるのです。

 主の祈りの一つ一つの言葉を受けとめる中で、この所、主イエスが語られたブドウの木の譬えにも耳を傾けています。主イエスは弟子たちに、ご自分につながっていなさいと、そうしてご自分を通して父なる神の愛を受けなさいと語られました。弟子たちは、主イエスというブドウの木につながる枝であると、ブドウの枝として主イエスにつながり、農夫である神様の守りと養いを受け続けることで実を結ぶこと、木につながっていない枝は実を結ぶことができないことを語られました。主イエスにつながっていられない枝は、実を結ぶどころか、自分の内に蓄えていた僅かな養分を使い尽くし、あっという間に勢いを失い、萎びて枯れてしまいます。み心を行う力は人の内にないのです。主イエスに出会った後も、私たちは自分の内に罪を持ち続けます。また罪は私たちの外からも、執拗に私たちを揺さぶります。主イエスにつながる枝であり、主イエスを通して神さまから水分、養分を受ける者だから、罪人でありながらも、神さまのみ心にお応えすることができます。罪の力に揺さぶられ、引きずられる弱い者でありながらも、その弱さを覆って余りある神さまのお力に満たされて、神さまのみ業に参与し、ぶどうの実を結ぶことができます。

主イエスの弟子たちは、「私に従いなさい」と主が差し出してくださった手を握るようにして、主に繋がって歩んできました。その弟子たちですら、彼らが思い描いてきたメシア像と、主イエスが死ぬほどの苦しみに苛まれながら、死んで行かれることは、重なりませんでした。弟子たちが思っていたのとは異なり、主イエスが恐れておられるのは、生命の終わりの死ではなく、神のみ前に罪を犯した者の裁きの死であります。私たちはしっかり向き合うこと、恐れ抜くことさえできないこの死を、その苦しみを負う必要の無い神のみ子が、苦しみ、悩んでくださることが救いであることは、私たちが内に蓄えてきた、私たちの知恵や私たちなりの理想を越える神のみ心であるのです。

ユダが手引きする者たちが迫るゲッセマネの園で、主イエスは、罪の裁きとしての死の厳しさに極みまで苦しみ悩みつつ、神さまに祈られます。「アッバ、父よ」と、幼子が全幅の信頼をもって親を呼ぶように神さまを呼ばれます。キリストが、最も大きな苦しみの只中で、弟子たちにこう祈ることを示してくださったから、私たちも苦しみの只中にある時、神さまの救いを深く確信し、み子イエス・キリストの霊によって、神さまに「アッバ、父よ」と呼び掛けることができるのです。

キリストは、「この杯を私から取り除けてください」と、罪に対する神さまの憤りの杯としての死が、ご自分から取り除けられることを願います。呻くようなこの言葉に、み子が負ってくださっている、私たちの罪に対する裁きの厳しさに、僅かながらも気づかされます。幼子が親に対する全幅の信頼によって辛さを訴えるように、全能の父なる神に、率直に苦しみ、悲しみを訴え、全てを注ぎ出した上で、祈りは、「み心のままに」との願いへと移ってゆきます。私たちの救いのためです。こうして主イエスが裁きの杯を飲み干してくださったから、私たちの死はもはや、自分の罪に対する裁きの死ではないのです。

裁かれるべき者が裁きを受け、罪無き者は裁かれるべきではない、それが正しさであり、善いことだとする物差しで、キリストの十字架まで測ろうとして、困惑する私たちであります。しかし神さまのみ心は、み子が私たちの代わりに罪の裁きを受けられ、十字架にお架かりになって、私たちのために死なれることであります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と主イエスは神さまのみ心を教えられました。それは、み子が私たちの所に来られ、私たちと共におられる、ということに留まりません。続けて主はこう言っておられます、「み子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ316)。私たちに永遠の命を得させるために、神さまはみ子を世に与え、み子の命までお与えになった、これが神のみ心です。預言者エゼキエルが人々に取り次いだ主なる神の言葉を先ほど共にお聞きしました。神さまのみ心は、罪人への憐れみに溢れています。自分たちの背きと罪に苦しみ、死へと引きずられる罪人たちに主は、悪しき者がその道から断ち帰って生きることをこそ私は喜ぶと、あなたがたがどうして死んで良いだろうかと、立ち返りを繰り返し呼び掛けてこられました。神のみ心は旧約の時代から、何よりも、私たちを救うことにあるのです。

 

祈ることもできない苦しみの中にある私たちのために祈られ、こう祈りなさいと、祈ることも、祈りの骨格も教えてくださったキリストに、私たちも、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることへと押し出されます。この祈りによって、キリストが苦しみ抜かれて私たちにもたらしてくださった救いが、全ての人に届くことを願います。私たちの判断や行いが、神さまのみ心に従うものとなることを願います。キリストを信じる信仰において私たちが求める道は、神さまによって導かれることを信頼して、み子の救いのみ業にお応えする道を、共に祈り求めてまいりましょう。