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み国を来たらせたまえ

「み国を来たらせたまえ」イザヤ49812、ルカ172024

2026510日(主の祈り)左近深恵子

 

先週はヨハネによる福音書が伝える最後の晩餐での主イエスの祈りの言葉に耳を傾けました。「父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください」と、主イエスは私たちのために祈ってくださいました。私たちは、自分にとって居心地の良い所、自分の望みややり方を尊重してくれる所こそ、自分の居場所だと思いがちです。それは言い換えれば自分が王で居られる所、自分が認めた者を王に据えられる所です。そのような私たちのために主イエスは、ご自分のおられる所が居場所なのだと私たちが気づくようにと、ご自分と父なる神の交わりを、私たちが居場所と求められるようにと、祈り求めてくださいました。それは、キリストが私たちに差し出してくださっている手へと、私たちも手を伸ばし、そのみ手を握り返すようなことであります。主イエスはご自分につながっていることが私たちにどんなに大切なことであるのか伝えるために、ぶどうの木の譬えでも語られました。私たちはイエス・キリストと言うぶどうの木の枝であるのだと。枝は木を離れて実を結ぶことはできません。実を結ばないどころか、やがて弱って枯れてしまいます。キリストの枝としてキリストにつながり、農夫として木を世話してくださる父なる神の守りと養いを受け、私たちの内に主の愛が隅々まで行き渡り、主の愛によって生かされる私たちの活動に、神さまは豊かな実りまでもたらしてくださることを、教えてくださいました。

私たちがイエス・キリストからどんなに深く愛されているのか、どんなに父なる神の慈しみとみ業に包まれているのか、人の目に明らかなわけではありません。愛されている自分自身ですら、分かっていないところがあります。だから、神さまのご支配はどこにあるのだと問われるような状況に直面すると、揺らぎます。私たち自身も、神さまがおられるなら病気をしなかったのでは、このような困難に見舞われなかったのでは、正しい願いならばその実現が妨げられるはずはなかったのではと、神さまのご支配に疑問が湧き、キリストのみ手を握っていた手に力が入らなくなることがあります。世で力を発揮し、人々に大きな影響を与えているのは神ではない者たちの自己中心的な言動ではないかと、世を支配しているのは結局は人間ではないかと、キリストの手を離してそのような力の方へと手を伸ばし、キリストと言う木から剥がれ落ちてしまいかねない、私たちです。

神さまのご支配を聖書は神の国と表現します。天の国とも、み国とも言われます。主イエスは町や村で福音を宣べ伝えるお働きを始める前に、荒れ野で40日に渡って悪魔から試みを受けられました。お働きの備えをなさったのでしょう。悪魔は主イエスを次々と試みて、父なる神との交わりから引きはがし、自分が差し出す手を握らせようとしました。試みの一つが、主イエスを高く引き上げ、一瞬の内に世界の全ての国々を見せるものでした。悪魔は主イエスに、“もし私を拝むなら、この国々の一切の権力と栄華とを全部与えよう”と囁きました。ここで悪魔が見せた「国々」は、神の国、天の国と訳される「国」と同じ言葉の複数形です。目に見えない神のご支配を苦労して人々に伝え、その苦労は十字架の死に至る、そのような道を行くよりも、目に見える領土、王国、権力、栄華の全てを手中にできる地上の王になった方が良いだろうと持ち掛けます。人々は、日々、世の王たちの力に生活を左右されており、人々の自己中心的な主張や欲望が他者との関係を壊していく現実を目の当たりにしているのだから、そのような人々を従わせるのに効果的なのは、彼らが恐れている、世で力を持つ世の王たちの、トップに立つことだろうと、主イエスを揺さぶろうとします。主イエスはそれまでの悪魔の試みをみ言葉によって退けてこられたように、この試みも、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてあると告げて斥けられました。そうして主は、私たちを揺さぶるあらゆる試みと私たち以上に向き合ってくださり、闘ってくださった上で、退けられました。そして荒れ野から人々の中へと入ってゆき、福音を宣べ伝え始められました。世の王たちの支配を恐れている人々、自分を王とできる小さな世界の中にしがみつこうとしている人々の所へと行き、神の国が到来したと、神の国はご自身の到来とともに既に始まっているのだと告げられました。主イエスのお働きは、神の国の到来を告げることから始まったのです。

初めだけでなく、主はお働きを通して神の国を示されました。たとえ話を多用して、人々の日常に身近なモティーフによって分かりやすく語られ、また人々から悪霊追い出されたり、病を癒されたり、人々を赦されることを通して、神さまのご支配を具体的に示されました。主イエスは更に、神さまのご支配は、時が満ち、最終的に打ち立てられることも教えられました。み子イエス・キリストが人となられ、世に降られたことで、キリストにおいて神さまのご支配は既に来ています。しかし、神の国は最終的な仕方では未だ来ていません。神さまのご支配が全ての全てとなられるみ国の完成は、終わりの時にもたらされます。主イエスは、そのことを待ち望みつつ祈ることを、主の祈りによって弟子たちに教えてくださいました。それが「み国を来たらせたまえ」という祈りです。元の言葉そのままに訳すと、「来させよ、国を、あなたの」という祈りです。他の誰のでもない、世の支配者たちのでも、この自分のでもない、あなたの国を、神さまのご支配を来させてくださいと、真の王である神さまに祈ることを教えてくださいました。

人々は、主イエスが教えられる前から、神の国の到来を待ち望む思いを抱いてきました。神さまが王であり、神さまのみ心と目的は地に打ち立てられ、やがて永遠になるということは、旧約聖書を通して示されてきたことでした。そのみ国の完成の始まりとして、神さまが世を裁かれる「主の日」が来ることも、預言者たちを通して示されてきました。

主イエスの時代の人々も、旧約聖書が告げる神の国の到来を待ち望んでいました。そしてまた、神の国を、自分にとって都合の良い所だと、自分の願いが叶えられる所と思い描いたり、苦しみや悲しみが無い所と、生活や健康が脅かされることの無い所と捉えしまう人々もいたでしょう。自分の視野の中にあり、自分の要求が全て満たされる所が、神の国なのではありません。自分にとって必要なことは自分がよく分かっていると思いがちな、しかし分かり切っていない私たち全てに主イエスは、祈る時はこのように祈りなさいと、神さまのみ心に私たちがお応えし、真の幸いに至る生き方を求めることができる祈り、主の祈りを教えてくださったのです。

ローマ帝国という大国の圧政下で喘いでいたこの時代のイスラエルの民、ユダヤの民にとって、神の国の到来を待ち望むということは、メシアが到来して神のご支配をもたらすことで、この悲惨な状況を変え、そうしてメシアの栄光を地にもたらしてくれる時を待ち望むものでもあったでしょう。だからこの日ファリサイ派の人々は、その時はいつ実現するのかと、主イエスに問うたのだと思われます。主イエスの働きを否定し、これまで主イエスに敵対的であった人々です。今日の箇所の少し前でも、たとえ話を用いて神さまに仕えることを説かれた主イエスの教えの一部始終を聞いた上で、ファリサイ派の人々が主イエスを嘲笑ったことが伝えられています。神の国について語られる主の言葉を、神さまからの言葉として受け止めていないので、神さまのご支配がどのようなものであるのか、分かっていません。自分の思いに引き寄せた王国の姿を神の国だと思い、いつになったら自分たちの現実になるのか、問うたのでしょう。

主は彼らに「神の国は観察できるようなしかたでは来ない」と言われます。「観察する」という言葉は、「目で観察する」「傍らに立って見守る」といった意味を持ちます。主は、ファリサイ派の人々の、神の国の到来の時期を、目に見える兆しを観察することで推測できるものだと考えている姿勢を明らかにしておられます。傍から神の国を見ているようなファリサイ派の人々に主イエスは、神の国はそのような仕方では来ないと言われます。彼らが、神のご支配がどのようなものであるのか分かっておらず、そもそもどのように到来するのか、思い違いをしていることを明らかにされます。神様のご支配は、「ここにある」とか、「あそこにある」と、目に見える領域で区切られた、場所を指し示すことができるようなものではないと、「神の国はあなたがたの中にあるからだ」と言われたのです。

何度も聞いてきたことのあるはずの箇所でありますが、この主の言葉に打たれる思いがしました。ファリサイ派の人々は、主イエスを敵視し、主が丁寧に分かりやすく語られた譬え話を初めから終わりまで聞いた上で、その話を嘲笑うような者たちです。しかしファリサイ派の人々の言動を思えば思う程、他人事とは思えない彼らの内なる姿勢が浮かび上がってきます。彼らは律法を守ることに熱心な人々です。律法を守ることで神さまに従おうとしているけれど、その熱心さが他者を裁くことへと向かってしまいます。見栄のために長い祈りをし、律法の細かな規定を守っていても、律法を与えてくださった神さまのみ心を最も表す大元にあるもの、神さまの義と憐れみと神さまに忠実であることを見逃してしまっていると、主イエスからその偽善を厳しく指摘されている人々です。その彼らのただ中に、神の国はあるからだと、主は言われます。なぜなら今こうして彼らの所にも、主イエスは来られたからです。主イエスを退け、耳を傾けずに来た者たちの近くにも、彼らが手を延ばせば届く所に、主において神の国をもたらしてくださっている、それはまさに私たちに起きてきたことではないかと思わされました。

続く22節からは主は、弟子たちに向かって、終わりの時について語ります。ファリサイ派の者たちに対しては、神の国が現在人々の近くにもたらされていることを語りましたが、弟子たちには、人の子と呼ばれるキリストが到来され、神さまのご支配が全てにおいて全てとなる日々のことを語ります。弟子たちが、その一日でも良いから見たいとたとえ願っても、それが叶えられないほど厳しい迫害が、終わりの時に先立って起こると、そして、“神の国があそこに来た、ここに来た”と言って弟子たちや人々を翻弄する者が現れると言われます。ファリサイ派の人々は、一歩距離を置いた所から観察するようにみ国を眺めていますが、弟子たちはその中に身を置きたいと、み国そのものを渇望しています。だからこそ、人々の抗いや偽りの言葉に備える心構えが必要であることを、主は教えられます。神さまのご支配よりも、自分の思い通りになる自分の国を欲したり、人を恐怖心で支配するものこそ王としてしまうことに馴染み過ぎている人間の罪が生み出す、神さまのご支配に対する抗いも、み国の到来までも自分の支配下に置こうとする者の言葉も、やはり罪を抱え続けている信仰者たちの心を惹きつけます。だからこそ、揺さぶられることが無いように、揺さぶられてもキリストにしっかりとつながっているようにと、神さまのご支配は、人が疑問を挟む余地のないほどに明らかに到来するからだと、呼び掛けられます。人の子もその日に現れると言われます。天空を切り裂くように閃いて、大空を端から端まで貫く稲妻のように、キリストは再び来られると言われます。だから私たちは、神さまの国が、予期せぬ時に、予期せぬ仕方で到来するからと言って、案じることはありません。「そら、あそこに」「そら、ここに」と人々がその領域を指さすことができるようなものなのかと思って、どこに神さまのご支配を求めたら良いのかと、どこにキリストを探したら良いのかと、彷徨う必要はありません。終わりの時の到来の仕方やキリストの見出し方について思い煩う必要は無いのだと、キリストご自身が明らかにしておられるのです。

「み国を来たらせたまえ」と主の祈りで祈るとき、み国とはかけ離れている目に見える現実へと心は向かいがちです。そして胸痛めつつも、ただ嘆くばかりになりがちです。信仰によって、み国は既に到来していることに立ち直す度に、力づけられます。神さまが旧約の時代から預言者を通して告げて来られた救いが、到来している神さまのご支配に目を向けることへと内なる目を向けることへと促されます。イザヤ書4989は、主の言葉をこう伝えています、「私は恵みの時をあなたに与え/救いの日にあなたを助けた。私はあなたを守り/あなたを民の契約とし、地を再興して/荒れ果てた相続地を継がせよう。捕らわれ人には『出てこい』と言い/闇の中にいる者には『姿を見せよ』と言う」。私たちが罪と罪による死からの救いという恵みを受けることができるのは、神さまが恵みを今ここに、私たちの内に、もたらしてくださっているからです。

み国とは、ただ神さまが王となって全ての者を支配されることではなく、罪と、望みの無い死に囚われていた私たちを、その捕らわれの所から救い出してくださる救いのことです。混沌の闇の中に留まってしまいがちな私たちを、その闇から導き出してくださる救いのことです。神さまのご支配に喜んで従うことのできる道、平安の内に進んでゆける道を、与えてくださることであります。人の罪が混沌を引き起こしている現実の中、み国の完成に向かって、今、私たちの只中におられるイエス・キリストと共に歩むことこそ、私たちの見つめる道です。ご自分の命を捧げてまで、私たちに罪の赦しをもたらしてくださったキリストに導かれて、歩んでゆくのです。

 

「み国を来たらせたまえ」という祈りは、キリストによってみ国が既にもたらされていることに感謝し、み国の完成に至るまで、私たちがキリストと言う木からはがれ落ちてしまわないようにキリストにしっかりと繋がり、キリストを通して神さまの恵みを内に行き渡らせ、思い悩みや誘惑に揺さぶられる時には一層キリストに繋がり、キリストの枝として歩んでゆけますようにと祈ることです。世にあって神さまのみ国に生きる者として、どちらへ手を延ばせば良いのか、今日もみ言葉と聖霊のお働きによって示してくださいと、伸ばそうとするこの手を力づけてくださいと祈ることであり、私たちだけの力では向き合い、退けることが難しい、神さまのみ心に背く力や勢いを、その企てや試みを、どうか退けてくださいますようにと祈ることであります。「あなたの神はどこにいるのだ、いないのではないか」、そのような問いに揺さぶられ、恐怖心や不安に自分の心をそれらを与える力の支配に委ねてしまいそうになる時、神さまを差し置いて自分の国を広げたい誘惑に引きずられる時、「み国を来たらせ給え」との祈りが私たちに、み国の到来を求める歩みへと、主がおられる所へと、立ち返ることを求める思いを力づけます。神さまの国のご支配を共に祈り合い、神さまのご支配に参与する歩みを為していくことができますように、祈ります。