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み名をあがめさせたまえ

「み名をあがめさせたまえ」出エジプト31314、ヨハネ172426

202653日(左近深恵子・主の祈り)

 

 十字架にお架かりになる前の晩、主イエスは弟子たちに集中して語る時間を持たれたことをヨハネによる福音書は伝えています。ご自分のお働きと存在を疎ましく思ってきた人々の手によって死の力に引き渡され、弟子たちの傍を離れる時が迫っていることを主はご存知です。弟子たちがこれから、恐れていた仕方で主イエスが彼らから奪われてしまったと打ちのめされ、深い悲しみに襲われることもご存知です。彼らが、主イエスに敵意を向け、苦しみと死をもたらす者たちが力を持つ世に残され、彼らにも敵意が向けられることもご存知です。弟子たちは、主イエスとの出会いを与えられ、主の招きにお応えして主に従うことを望み、それまでの生活を後にし、神さまにつながって生きる自分たちの拠り所はイエス様だと信じてここまできた人々です。その拠り所である主を見ることができなくなることで、神さまに従う道まで見失うことが無いように、主イエスを拒んだ世の人々から彼らも拒まれる辛さの中でも、真の主、真の神を見失わないように、この晩弟子たちに幾度も、心を騒がせず神さまを信じなさい、ご自分を信じなさい、動揺してはならないと呼び掛けられました。彼らを揺さぶるのは、周囲の人々の敵意や拒絶だけではありません。主イエスを退けた人々を動かす思いは誰の中にもあり、弟子たちの中にも潜んでいます。彼らの中にもこのような思いが湧きおこることもあるでしょう、“イエスという者は、神さまがお遣わしになった者ではなかった。イエスという者は神さまに至る道ではなかった。その言葉は、神さまからの言葉ではなかった。もし神さまが遣わされた方だったなら、世の流れに追いやられて十字架に架けられたりしなかっただろう。もし神さまがイエスという者を遣わしたのだったら、神さまを大切に思っているこの自分を辛い目に遭わせたり、人々から受け入れられないような目に遭わせたりしないはずだ。自分の願う生活や活動や生き方に役に立つことを為さるのが神のはずだ”と。弟子たちがそのような思いに呑み込まれず、ご自分につながり続けるようにと、主イエスは葡萄の木の譬えも語られました(ヨハネ15章)。主イエスという葡萄の木につながる枝であること、主イエスも彼らとつながっていること、葡萄の枝としてつながって木につながり、農夫である神さまの守りと養いを受け続けることで実を結ぶこと、つながっていない枝は、枝の力だけで実を結ぶことはできないことを語られました。弟子たちに身近な葡萄の木を通して、父なる神とみ子イエスとの交わりの中に彼らは加えられているのであり、この交わりの中につながり続け、父なる神とみ子と一つであり続けるようにと語ってくださったのです。

 これらの教えを語られた後、主イエスが彼らのために最後になさったのは、祈ることでした。その祈りの最後の部分を先ほど共にお聞きしました。祈りの中でも主イエスは、ご自分と父なる神において一つとなることを幾度も願っておられます。今、主イエスの目の前に居る弟子たちについても、今ここには居ない他の弟子たちについても、そしてこの弟子たちがこの先宣べ伝える福音の言葉によって、ご自分をキリストと信じることへと導かれ、教会に加わることになる将来の信仰者たちについても、全ての人を一つにしてくださいと主イエスは祈っておられます。今日の箇所の直前である2123節でも、主は三度も彼らが一つとなることを祈っておられます。なぜ主はここまで、ご自分を信じる人々が一つとなることを願ってくださるのでしょうか。

 私たちも、私たちを招き、手を差し伸べてくださる主に手を伸ばすようにして、主イエスというぶどうの木の枝の一つになることができ、ぶどうの木から養分や水分を受けて実を結ぶ者とされています。心騒ぐ時途端に、私たちのつながる力は心もとないものであることを露呈します。その私たちのために主は23節で、「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と祈ってくださいます。「完全に一つになる」と訳された文は、終わりの時のキリストの業の完成を意味するものとして聖書で用いられています。「成し遂げる」と訳されることも多い言葉です。キリストという木につながって実を結ぼうとする私たちの生活や活動や生き方も、信仰者たちの群れが主にあって一つとなろうとすることも、終わりの時に完成される道の途上にあります。主につながり続け、そうして主にあって互いに一つであり続け、一つであることが成し遂げられるために、父なる神のお力が無くてはならないから、主イエスは私たちも含めすべてのご自分の弟子たちのために、繰り返し祈ってくださったのでしょう。

 キリストにつながることよりも他のことの方を重要に思ってしまいがちな私たちに、父なる神とみ子の交わりを指し示すのは、神様の真理の言葉です。キリストによって真理を知り、キリストが世から出た方ではないことを知り、キリストによって与えられる赦しに与かり、聖なる者とされます。聖なる者とされた自分たちはもはや世に属しているのではなくキリストに属しているのだと、キリストの枝なのだと、キリストがおられ、キリストにつながっているところが私たちの本当の居場所だと知ります。主は、ご自分が私たちの居る所となり続けられるようにと、今日の箇所で祈ってくださっています。良い羊飼いが、自分の羊を一匹、一匹名を呼んで呼び集め、先立って安全な正しい道を導き、獣や盗人から守るように、主イエスは私たちを神さまがご自分に与えてくださった人々と呼んでくださり、私たちが世の別の力の所有物にならないように、ご自分に敵対する者たちの攻撃によってご自分の傍から離れ出てしまわないように、私たちが居る所を見失わないように、祈ってくださるのです。

 主イエスの時代も、ヨハネによる福音書が記された時代も、主イエスと、主に従う者たちを否定する力が勢力を誇っていました。そのような力をこの福音書はしばしば「世」と呼んでいます。この祈りの中でも「世」という言葉は、主イエスを否定する人々や流れを指しています。しかしまた主はこの祈りの中で、世界の源に神さまの創造のみ業があることにも触れておられます。世は神さまの言葉によって造られ、本来神さまの真理を豊かに表すものであるはずです。キリストは、その天地創造のみ業に先立って神さまから愛され、父なる神のみもとで栄光を持っておられる方です。既にこの祈りの中で主イエスは父なる神に、今その栄光でみ前に輝かせてくださいと祈っておられます(175)。今日の祈りの終わりでも、天地創造の前から愛と共に与えてくださっていた栄光を、弟子たちに見させてくださいと求めておられます。悲しみや敵意や迷いに揺さぶられる私たちに先立って、神さまの愛によって輝くキリストの栄光を信仰者たちが見つめることができるようにと祈り求めてくださっています。キリストの栄光を見出し、受け止め、映し出す本来の在り方から離れ出てしまっている世にあっても、キリスト者はキリストの栄光を見出す者であることを、願っておられます。

 神さまご自身を見ることができず、木や石や金属でできた偶像に触れるような仕方で父なる神を知ることができない私たちに、神さまの栄光が、神さまがどのような方であるのか示します。神さまの栄光を天地創造の前から持っておられるみ子が、私たちに神さまの栄光を現わしてくださいます。この祈りの前半で主は、「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」と祈っておられます(174)。人々に神さまの栄光を現わすことが、主イエスが父なる神から託された大切なお働きであり、そのお働きを成し遂げたと言われているのです。父なる神とみ子キリストの交わりにつながる人々は、栄光を示され、神さまを示され、神さまの栄光の中を歩む道を見出します。葡萄の木の譬えでも主イエスは、私たちがキリストにつながり、豊かに実を結び、キリストの弟子となるなら、それによって、父なる神は栄光をお受けになると言われています。主の弟子として実を結ぶのなら、私たちの歩みは、主の栄光の輝きを映し出すものとなれるのです。栄光は、キリストの十字架の死と復活において最も明らかに現わされます。主イエスが語ってこられたことは真理であると知り、受け入れることへと導かれます。十字架を目前にしたこの晩主は目の前の弟子たちのためにも、将来ご自分の民となる私たち一人一人のためにも、「私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください」と、願ってくださるのです。

 神さまはどのような方であり、神さまの恵みはどのようなものであるのか私たちに示す栄光は、神さまの愛と共にあります。栄光の中身が神さまの愛であるとも言えます。葡萄の木の譬えにおいても、主イエスは神さまの愛を繰り返し語られます。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛に留まりなさい。私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛に留まっていることになる」(15910)。今日の祈りの直前でも、「私が彼らの内にあり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります」と述べておられます。父なる神と子なる神の交わりにつながる者の内には神さまの愛が注ぎ込まれ、私たちは一層神さまの愛の内に留まり、その交わりに深く結び付きます。その交わりの深みから発するものなら、私たちの言葉と行いは世に対して神さまの愛を証しすることができるでしょう。何かを言葉にし、何かを為しながら生きている私たちです。いずれにしても何かを発するのだったら、キリストが示してくださった世の闇にかき消されない神さまの栄光の光と、キリストを通して私たちの内に行き渡る神さまの愛を源にした、言葉や行いを発してゆきたいと願います。それは、神さまのみ名を証しする歩みでもあります。

 人となられた神のみ子は、私たちにご自身をお遣わしになった父なる神を示してくださいました。それは、神さまのみ名を私たちに知らせることだったとも言われています。これからも、み名を知らせるとも、約束しておられます。私たちがみ名を知るのは、ご自身を愛される神さまの愛を私たちが受けとめ、ご自身につながり続けるためであると言われます。この約束と約束の目的で祈りを閉じておられます。この後主イエスは、ご自分に対する裏切りと逮捕が起こる場所へと向かって行かれます。神さまのみ名を私たちが知り続けるため、私たちが父なる神とみ子の交わりの中で生きてゆくため、主は苦しみと死に赴かれたとも言えるでしょう。

 神さまのみ名も、その名を持つ神さまがどのような方であるのか表します。み名が表すのは、神さまの栄光と神さまの愛が示しているものとも言えるでしょう。かつてモーセは神さまに、神さまがどのような方であるのか人々に何と伝えたら良いのかと尋ねました。すると神さまは、「私はいる、という者である」と答えられました。神さまは木や石や金属で作られた偶像ではなく、生きておられる方です。救いの御業を世にあって推し進め、神さまの自由の内に私たちと共に居てくださる方です。神さまが生ける方だからその栄光は私たちを真の光で照らし続け、神さまが生ける方だからその愛は私たちを内から生かし続けます。世が神さまを生み出したのではなく、私たちが生みだしたのでもありません。世にも私たちにも属しておられない方だから、私たちは自分自身を輝かすために祈るのではなく、自分の思いに役立たせようと祈るのでもなく、神さまの栄光と愛がこの身に、この日々に実ることを願って祈ります。神さまがこのような方だから、祈りを合わせる仲間がいることにも気づかされます。み子は祈りの中で、「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください」と祈っておられます(11節)。主の弟子たち、つまり教会は、み子を通して神さまを知り、教会と共におられる神さまの守りの内に共にあることを知るのです。

 

 主イエスは「主の祈り」の冒頭で、み名を崇める願いを教えてくださいました。「み名を崇めさせたまえ」との文は、原文の言葉の意味をより直接的に訳すと、「み名が聖とされますように」となります。聖書協会共同訳聖書の主の祈りの箇所も、そのように訳されています。「聖」という言葉は聖書では、神さまのご性質を指します。世が生み出すことのできない神さまの聖さです。日々の祈りである主の祈りによって、み名が指し示す聖なる方の、その聖なることが、今日という一日において聖とされますようにと祈ります。父なる神に造られながら、神さまの子らであることよりも、神さまではないものにひきずられてしまっていた私たちを、神さまはみ子の十字架の死によって聖なる者とされました。世ではなく、キリストに属するものとされ、み子とご自分の交わりにつながる者とされました。与えられているこの恵みを知り、この恵みに感謝することが、自分の生活と活動にあっても、神さまの聖なることが聖とされることを願うことへと私たちを押し出します。濁りや弱さを抱えた自分ではあるけれど、共におられ、守り導いてくださる神さまによって、神さまの栄光と愛を、聖なる聖さを、自分の今日の第一の願いとするようにと、祈りの筆頭に据えて祈るようにと、主は教えておられます。気づけば神さまのことよりも自分を出発点にした祈りばかりになり、いつの間にか自分を今日一日の主にしてしまいがちな私たちに、神さまを主とし、神さまの真理によって聖なるものとされた恵みにふさわしい生活を今日築いてゆくことができるようにと、神さまに願うことで祈りの生活を始める幸いを教えてくださいました。この祈りに生きていくために、神のみ言葉と聖霊のお働きに導きを求めつつ、互いに祈り合いつつ、信仰の闘いが必要な時には闘いつつ、歩んでゆきます。「父よ、み名の栄光を現わしてください」と祈りつつ(ヨハネ1228)、十字架に至る道を進まれたみ子が、私たちのために祈ってくださいました。み名を崇めることは、神さまを礼拝することから始まります。礼拝から主と共に、終わりの時に完成される、一つとされる道へと、踏み出してまいりましょう。