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God is our refuge and strength

おはようございます。自己紹介をさせていただきます。ベッツィ・ウィンと申します。本日はどうぞよろしくお願い申し上げます。本日、このように機会をお与えくださったトム先生、そしてミエコ先生に心より感謝申し上げます。また、私は日本語が不得手でありますので、通訳をしてくださったトム先生にも深く感謝しております。ありがとうございます。

 

さて、今朝、ご一緒に耳を傾け、心に刻む御言葉は、「神はわれらの逃れ場、我らの力」という詩編46編の御言葉です。このメッセージは、先日、私の教会の女性たちと分かち合ったものです。
ご婦人たちは、「神のみ力とは何か」を共に考えたいと願っていました。
というのも、私たちの生きるこの世界は、あまりにも不安定であり、多くの人が不安を抱え、落ち着かないまま日々を送っているからでしょう。そのようなときこそ聖書に立ち返り、み言葉に頼り、信仰の励ましをいただきましょう。

 

詩編46編は、はっきりと語ります。
どのような困難の中にあっても、真の避けどころ、真の力は、ただ神にある――と。

この詩編には、三つの「困難」がはっきりと描かれています。
皆さんにとって、最も不安を掻き立てるのは、どの困難でしょうか?
どんな時に、神を「避けどころ」とし、「力」とする必要を痛感するでしょうか。

 

まず一つ目は、自然界の混沌です。「地が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移り、
水が騒ぎ、沸き返る。」私の住む地域では、気候変動の影響が現実のものとして感じられています。かつてはまれであった大規模な山火事が、私たちが住むワシントン州、太平洋岸北西部において、この10年ほど、ほぼ毎年のように発生しています。夏の間、何週間も濃い煙に覆われることが続いています。2年前には、私たちの町の近くで火災が発生し、多くの家屋が焼失しました。教会員の中にも、自宅を失い、持ち物すべてを焼失した方々がいました。

この冬、近くの山々に十分に雪が降りませんでした。春先から、友人たちは、夏に川の水が十分にあるだろうか、もしかしたら干ばつに襲われ、さらに多くの山火事が起こるかもしれない、と語り合っていました。自然界の混沌は、遠い出来事ではなく、私たち自身の問題として迫ってきます。とても恐ろしいことです。だからこそ、神様がどのように私たちの避けどころであり力であるのかを、改めて学ばなければならないのです。

 

福音書で、主イエスが、それがどういうことかを具体的に示してくださいました。神の御子として、自然を凌駕するみ力を現されたのです。嵐が弟子たちの乗る舟を襲い、皆が恐れに包まれていたその時、主イエスは、ただ一言「静まれ」と命じられました。すると風も波も、まるで従順な犬のように、ぴたりと静まりました。自然さえも、主の御声に従うのです。イエスは、神が私たちの力であるという約束を成就されたのです。

 

しかし、自然界の混沌というのは、壮大なスケールだけでなく、私たち自身の身体にも現れるものではないでしょうか?病にかかったり、年齢とともに体が衰えたりするとき、自然の秩序が乱れているかのように感じられます。「なぜ肩にこんな痛みがあるのか」「これまで健康だったのに、なぜ自分ががんになるのか」といった思いは、誰しもが抱くものです。

このようなときにも、主イエスは自然を凌駕するみ力を示されました。あらゆる病を癒されたのです。私は教会で、高齢で病を抱える方々だけでなく、不安やうつに苛まれている方々とも関わっています。そのような中で、あらゆる癒しが、主イエスのみ力によるものであることを日々目の当たりにさせられています。神は医療を通して、医師を通して、祈りを通して、そしてキリストの体なる教会の弛まぬ支えを通して働かれるのです。

たとえ完全な癒しがこの地上で与えられないとしても、主イエスは、私たちの内に働いて平安と恵みを与えてくださり、希望と信仰をもって、病や痛みに耐える道を歩ませてくださるのです。詩篇にある「川」とは、このキリストご自身です。神の癒しと命を与える力が、絶えず私たち(神の民)の中に流れ込んでいるのです。主イエスにあって、神は私たちの避けどころであり、また力なのです。

 

自然界には混沌があります。それでも、神は私たちの避けどころです。ただ、この世界には他にも混沌があります。7節でこう語られます。「すべての民は騒ぎ、諸々の王国は揺らぐ」。

私の教会で、そしてアメリカ全体で、これはまさに現実です。多くの人々が今の国の状態や文化の状況について、とても大きな不安を抱いています。政権が交代して、政策立案の仕方やリーダーのあり方について同意できない人たちにとって、国全体が波乱の極みにあると感じざるをえません。特にここ最近8年から12年ほどの間、その傾向に拍車がかかっているように思われます。けれども、いつの時代にも「昔はこんなではなかった」と語るのを聞いてきたのではないでしょうか。それが1950年代であれ、1980年代であれ、インターネットが今ほど普及していなかった20年前であれ、同じように感じてきたとも言えます。

国際秩序も確かに「揺らいで」います。同盟関係は変化し、優先課題も変わります。また文化も変化し、自分たちの手に負えないように感じます。若者にとって有害に思えるような、あるいは家族のあり方を壊すような風潮が蔓延っているのを目にします。また、意見の異なる人々に対して平気で使われる品のない言葉や、かつては受け入れられなかった行動が今では許容されていることにも驚かされます。

けれども神がひとたび御声を発せられると、「地は溶ける」。この詩がもたらすイメージは絶大です。主の言葉は力に満ちており、神はご自身の民と共におられることを選ばれた! 神の言葉は、私たちのあらゆる「混乱、波乱」を冷静に見極めさせます。いかなる政治的権力も文化的勢力も神には到底、勝るものではないのだ。目の当たりにしている今日のあらゆる混乱は、どれほど大きな力に見えるとしても、神の御前では、一時的なものに過ぎないのだ、と。権威は神によって立てられ、神によって終わるのです。詩篇が書かれて以来、数千年にわたり、人類が経験してきたことは、変わっていません。古今東西、国も文化も社会も、この点において、神の力のもとに限界を定められているのです。

ローマの信徒に宛てたパウロの言葉を思い起こします。「神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたもの(です)」(ローマ131)。私たちの避けどころであり力であるのは神さまであって、指導者でも文化でも国家でもありません。ましてや私たちの国民性でも信念でもありません。主イエス・キリストこそが、すべての文化と社会を超えて、あらゆるものがひざをかがめるお方なのです(フィリピ210)。

 

この詩編は、最後の部分で、戦争、紛争、そして暴力という第3の課題を直視させます。毎週のように新たな戦争が起こっているかのように見える昨今です。弓だの槍は使われませんが、ドローンやミサイルが使われています。それでも詩編の詩人は、神がこれらの戦いの道具を支配しておられると語ります。「弓を砕き、槍を折り、戦車(楯)を焼き払われる」と。

日本でも軍備に関する議論があることを存じ上げています。軍事費をどのくらいにすべきなのか?どの程度までの攻撃能力を有するべきなのか、敵基地攻撃能力まで備えるべきなのか?といったような。

 

アメリカでも、私たちは同じような問いに直面しています。けれども、対立は遠い場所や公の議論の中だけにあるのではなく、私たちの地域社会や身近な人間関係、さらには家庭の中にも入り込んでいます。政治的な意見の違いによって深く分断され、同じ家に暮らしながら、ほとんど口をきけなくなってしまった家族を知っています。対立は実に苦しく、重いものです。近年では、そうした人と人との緊張関係が、これまで以上にしばしば暴力へと噴き出しているように感じられます。

神は私たちにこう呼びかけておられます。「静まれ、わたしこそ神であると知れ」。神は「もっと戦え」とは言われません。「どんな手段を使ってでも論破せよ」とも「軍事的勝利をおさめる道を示そう」などとも言われません。ただ、「わたしこそ神であると知れ」と言われるのです。対立のただ中に、神がどのような方であるかという真理が突入すると、実に不思議な仕方で、解決がもたらされうるのです。

イエス・キリストにおいて、私たちは争いに対する神の究極の答えを知ります。すべての争い、暴力、戦争の根源には罪があります。この罪が解決されない限り、戦争が終わることはありません。十字架だけが唯一の答えなのです。キリストの贖いと和解の御業こそが、「戦車(盾)を火で焼き払われる」神の示される道です。キリストの十字架が私たちの内にあるならば、もはや戦いの道具など必要ありません。

神は私たちの避けどころ、また力です。自然界が混沌にあるときも、国々が騒ぐときも、戦いがそこここに満ちるときも、神は避けどころ、また力なのです。パウロの言葉がこのことを思い起こさせてくれます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき(なさい)」(ローマ122

 

しばしば、自分の置かれた状況が不安定で、どうにも解決の糸口が見えないと感じるときがあるでしょう。そんなとき、まず聖霊によって自分の心と思いをイエス・キリストとひとつに一致させることに心を向けると、解決への道が開かれてくるものです。祈りと、聖書に示された真理を黙想するとき、私は主の力とそのご計画を思い起こします。そして、自分自身の限界と、同時に神が私に求めておられることを改めて知らされます。そうして私は、自分の思いではなく、神の御心に従って、目的をもって力強く行動することができるのです。

私たちが経験した一つの出来事をお話させてください。数週間前、アメリカ政府はハイチ人を含む移民に対する「一時的保護資格」を終了する決定を下しました。それは彼らをアメリカから退去させ、かつて戦乱を逃れてきた祖国へ送り返すことを意味していました。

私の住むスポケーンには小さなハイチ人コミュニティがあり、私たちの教会は、以前からルーク牧師とその家族を通して彼らと関わりを持っていました。ハイチ人信徒と牧師は「どうすればよいのか分からない」と言うのです。スポケーンで平穏に暮らし、口に糊して働き、家族を養い、この国に貢献したいと願っているにもかかわらず、追い出され、行き場がないのです。彼らの答えは一つでした。「私たちは祈ります」と。

そこで私たちはデモ行進ではなく、祈祷会を開きました。400人以上が私たちの教会に集ってハイチ人の兄弟姉妹と共に祈りました。神を賛美し、彼らの話に耳を傾け、共に神に呼ばわり、憐れみを求めました。悲しみと恐れの中にも、恵みと、望みなき中でなお望む希望がありました。

翌日のことだったのか、二日後だったのか、今となってははっきり思い出せませんが、Washington, D.C.からの知らせが届きました。政策が変更されたのです。私たちのハイチ人の友人たち、そしてさらに何十万人もの人々は、引き続きアメリカに滞在できることになりました。まるで奇跡のように感じられました。

とはいえ、こうしたハイチの人々や、他の不安定な国々から来た多くの人々にとって、移民として正式な身分を得るための明確な道筋は、今なお示されていません。私たちは今も、食料品店へ行くことを恐れて外出できない人々の家に食べ物を届けたり、移民裁判所への出頭日には、何時間も車を走らせて最寄りの裁判所まで送り届けたりしています。けれども、私たちにはなお少しの時間が与えられました。それは神からの賜物です。

 

キリストにおいてのみ、私たちは自然界の混沌よりもなお強い避け所と力を見いだすことができます。国々の興亡や騒乱よりもなお確かなもの、そして暴力と争いに対する究極の答えを見いだすことができるのです。主イエスは、国際的な規模の争いにおいても、家庭や個人の間にある対立においても、それを終わらせる道を示してくださいます。主の赦しと恵み、そして平和によって成し遂げてくださるのです。

主に感謝!ハレルヤ!アーメン。

 

祈ります。

主なる神よ、あなたが私たちの避けどころであり力であられることを感謝し、賛美いたします。
あらゆる困難と課題の中で助けてくださるあなたの力と恵みに感謝いたします。

どうか私たちが、いかなる困難に見舞われようとも、常にあなたに目を向け、あなたの道を求めることができますように。
この世界の争いにあなたの御手が働き、イランやウクライナの戦争、そしてハイチでの暴力を終わらせてくださいますように。
また、私たちを分断するすべての苦しみが取り除かれますように。あらゆるリーダーたちにあなたの御手の導きを祈ります。

主イエスよ、私たち一人ひとりの内にある恐れと不安の中に共にいてください。
聖霊によって、日々あなたに立ち返り、平和と恵みと真理と勇気に満ちた歩みをなすことができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

 

アーメン