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主と共に祈る

「主と共に祈る」ホセア1189、マタイ6513

2026412日(左近深恵子)

 

 主イエスが教えてくださった主の祈りは、私たちにとって最も馴染み深い祈りと言えるでしょう。主の祈りは新約聖書の二つの箇所で述べられています。それぞれで主の祈りが与えられた状況は少し異なっています。祈りの言葉も全く同じではありません。何故二つの異なる状況で祈りを教えられたのか理由は定かではありませんが、主イエスが一度だけではなく、異なる状況でも同じような祈りを教えてくださったということも考えられるのではないでしょうか。二つの箇所の内一つは、ルカによる福音書の11章です。ここでは、祈っておられた主イエスが祈り終えると、弟子の1人が「主よ、私たちにも祈りを教えてください」と言います。その願いに応えて主が教えられます。この弟子は、祈りの人である主イエスのお姿を日々目にしてきて、その日も祈っておられる主イエスのお傍で、自分たちも祈ってはいるけれど、主イエスのように、主イエスのような仕方で、祈りと共にある日々を送りたいと、そう思ったのでしょう。

他方、今日のマタイによる福音書は、主イエスが弟子たちと群集に対して、多くの教えを語っておられる、山上の説教と呼ばれる場面です。山上の説教は5章から始まり、6章で主イエスは先ず、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われます。「善行」と訳されている言葉は、他の箇所では「義」と訳されることが多い言葉です。義いこと、義なることを意味します。聖書では特にこの言葉は、「神の義」と言う時に用いられるように、神さまの義や、神さまが人に求めておられる義さを表します。1節の「善行」も、人がそれぞれに思う正しさや、世間で正しいとされることを基準に行うことではなく、神さまに喜ばれることを求めて行うことを意味します。ここで主イエスが語り掛けておられる群集や弟子のほとんどは、自分が神の民であることを自負する人々であったでしょう。アブラハムから神さまは神の民を興されましたが、それは、神さまの祝福を神の民を源として、他の民にもたらすためでした。だからこそ神の民は、他の民よりも神さまの義さに生きることが、神さまから求められます。神の民にとって神さまの求めにお応えして生きるということは、神さまがこのように生きなさいと与えてくださった律法を重んじることであり、それは具体的には先ず、施しと、祈りと、断食の三つを生活の中で守ることだと考えられていました。けれど、神さまの義を映し出すのに相応しいこの三つの善行すら、人は他者から自分が良く見られたくて行いかねない者であることを主イエスは明かにされます。神さまに喜んでいただくための行いを、神さまそっちのけで行ってしまうのです。6章で主は、施しと、祈りと、断食それぞれについて、人がそれらをどのようなこころで為すことを神さまは人に求めておられるのか説いておられます。

主は、三つの務めの中でもとりわけ祈りに重心を置いて語られます。祈りについて説き始める5節でも、先ず主が言われるのは、「偽善者であってはならない」ということです。「彼らは、人に見てもらおうと」すると言われます。ユダヤの民は日に三度、決められた時に祈ります。定められた時間が来たら、その時居る場所で祈ります。自分が信仰深い者であると人々に思われたくて、会堂や大通りの交差点といった、人の注目を集めやすい場所で敢えて祈る人々を主は目にしてこられたのでしょう。「偽善者」と訳された言葉は、「誰かの前で」という意味の言葉と「振りをする」という動詞から成り立っています。人の前で、本当の自分とは違う、自分が人からこう見られたいと思う人物を演じる者です。そうしたくなる誘惑に私たちはひきずられやすい者です。だから人の前ではなく1人になれる所で祈るようにと主は言われます。「彼らは」誘惑にひきずられて人々に見てもらおうとして祈っているが、「あなたは」こう祈りなさいと、群集や弟子の一人一人に「あなたは」と呼び掛けておられます。人々からの良い評価を求める思いによって祈りが歪められることがないように、「あなたは」、「奥の部屋に入って戸を閉め」て祈りなさいと。「奥の部屋」は「倉庫」とも訳すことのできる言葉です。どちらにしても、大勢の人が行き交う大通りの交差点とは対極にあるような、1人で居ることのできる静かな場所です。誘惑にひきずられず、人の視線にこころ揺さぶられず、鎮まって祈りに集中できるところです。そのような部屋や倉庫が私たちにあるかないかが重要なのではなく、私たちが本当の自分の顔になって祈ることを、主のこの勧めに従って私たちが心から求められるかどうかが問われています。人がいる所で祈ることも、礼拝や教会の集会などでしばしばあります。共に祈りを合わせるひと時が、私たちの喜びとなり力となります。そのように共に捧げる祈りだけでなく、神さまのみ前に自分だけで祈ることが、信仰者一人一人の生活にとっても、信仰者の群れがキリストの体として建て上げられてゆくためにも、必要であるのです。

1人になることによって、どうしても気になってしまう他者の視線から自分を切り離すことができます。1人になることで、人々の視線の中に居るよりも祈ることへと備えやすくなります。しかし、1人になれば、自動的に祈りの備えができるわけではないのが私たちの実態です。他者からの良い評価に自分の存在価値を見いだしたくなる思いが私たちの中にあるのも事実であれば、他者から評価されることを拒む思いがあるのも事実ではないでしょうか。他者のアドバイスを自分の生き方の参考にしたり、一部取り入れたりすることはあっても、自分の生き方の根幹に関わることについては他の人から何か言われたくない、介入されたくない、自分でやりたいようにやる、自分の意志、自分の決断が、何よりも重要だという思いを、私たちはなかなか捨てきれません。この思いを、神さまに対してさえ抱いてしまいかねない者です。そのような思いを抱えたままなら、たとえ扉を閉めて奥まった部屋や倉庫に籠っても、自分の内なる扉は神さまに対して閉ざしたまま、あるいは扉半開き程度となるでしょう。自分は神さまから隠れられると、自分が隠したい部分は神さまに隠しておけると、神さまとの繋がりをそのようなものに限定しようとするでしょう。神さまに対してさえ自分の主導権を譲りたくない頑なさを捨てて、神さまのみ前に自分の全てを置くことから、祈りの備えは始まります。

それでも私たちには、祈ることへと真っすぐに向かうことができない時があるかもしれません。自分のこの祈りが神さまに聞かれること、神さまが生きておられること、生ける神がこの祈りに耳を傾けてくださることが分からなくなることがあるかもしれません。苦しい時、辛い時には尚更、祈りは本当に神さまに届くのかと、祈ることもできなくなることもあるでしょう。そのような私たちに主イエスは、神さまは「隠れたところにおられる」と言われます。目に見えるものだけ互いに比べ合っては、一喜一憂することを止められないし私たちの視線や、自分の弱さや醜さを隠そうとする閉まりかけたこころからは、神さまの臨在や神さまのお働きは隠れて見ることができないのではないでしょうか。苦しみや辛さも、私たちの内なる目を塞ぎ、神さまのみ心、神さまの導きが一層見えなくなってしまうこともあるかもしれません。その私たちに主イエスは、神さまは「隠れた所におられる」と言われます。神さまがおられるのは、「隠れたところ」です。神さまはその臨在をさやかに見ることができなくても、おられます。そして神さまは、「隠れたことを見ておられる」方です。人はお互い、相手の苦しみや悲しみを隅々まで知ることはできません。辛さを本当に共有することはできません。しかし、闇のような不安の中で神さまを見出そうともがいていることも、もがくことに疲れ、弱さに呑み込まれそうな中で、神さまを仰いで、声にならない助けを求めていることも、世の誰も気づいていない私たちのそのような祈りを、神さまは見ておられるのです。

主イエスは、祈りに神さまが報いてくださることも、人々に語られます。これまで、他者からの高評価という報いを人から得るために祈るのは、神さま抜きにして祈ることなのだと、主は私たちに気づかせてこられました。人からの高評価であれ、自己満足であれ、祈りは自分で自分に報酬を与える手段ではないことに、気づかせてくださいました。だから祈ることにおいて、報いを望むのはみ心から離れることなのだと思ってしまうなら、それは結論を急ぎ過ぎています。神さまに見ていただくことだけを願って、生ける神さまに自分の全てをもって祈る者に、神さまは報いを与えてくださいます。ただ、どのような報いを与えるのか、お決めになるのは神さまです。私たちは神さまに率直に、正直に願いを注ぎ出すことができます。その上で何を私たちにもたらすのか決めるのは、私たちではなく神さまです。そして神さまは、私たちが願う前から、私たちに必要なものをご存知の方です。だからあなたがたは、くどくどと祈る必要は無いと、主は教えられます。私たちの言葉数が多ければ多いほど、祈りが叶えられるとの考えの根底には、自分の努力で自分が望む報いを自分で自分に与えられるとする思い、自分で自分を救うことができるとする思いがあります。その思いは執拗に私たちを繰り返し惹きつけるので、神さまに対して扉半分で十分だという思いにも、何度でも陥ってしまうのです。私たちに本当に必要なものは何であるのか、私たち自身よりもご存知である神さまは、私たちが自分に必要であることを受けとめられない罪からの救いを私たちに与えるために、独り子の命まで与えてくださいました。私たちの誰が、このような救いを自分に求めることができるでしょうか。誰がこのような救いを自分で実現することができるでしょうか。主イエスは6章で祈ることを教えてくださっていますが、祈ることを知るということは、神さまがどのような方であるのか知ることから始まるのです。

先ほど、ホセア書から聞きました。この箇所で神さまは、ご自分の民に、「エフライムよ」と、「イスラエルよ」と、呼び掛けておられます。11章の初めでは、「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私はエジプトから私の子を呼び出した」と言われています。神の民の歴史は初めから、ご自分の民を子としてくださった神さまの愛に満ちていました。奴隷の苦しみの中、自分で自分を救うことができずにもがいていた民を導き出され、人として生きる自由を回復され、神さまのみ心にお応えする生き方を示す律法を与え、彼らを神の民とする契約をシナイの山で結んでくださいました。それなのにこの民は、異教の神々を崇めることを繰り返します。自分たちに本当に必要なものが何であるのか知らず、自分たちに何も与えることのできない偶像を崇め、これまで愛によって導き出し、神さまの愛にお応えすることのできる道を示し、天からの糧と水で養ってこられた神さまに捧げるべき祈りを、それら異教の神々にささげてしまいます。神さまに捧げるべき信頼も、神さまに委ねるべき自分たちの将来も、大国の力に委ねてしまう過ちを繰り返します。目で見ることのできる偶像の神々の力や、世の王たちの持つ権威や武力によって報いを得られることを期待して、神さまの愛を退け、ご自分のもとに立ち帰るようにと預言者たちを通して呼び掛けられる神さまの言葉に耳を傾けず、悔い改めるこころも失い、それが罪であることに気づく内なる目も閉ざされてきました。ホセアの時代も、神の民は神さまから与えられた約束の地にありながら、異教の神を礼拝し、その地で神さまが与えてくださった大地の実りを、神さまからの恵みとしてではなく、異教の神の力に拠るものとして受けていました。神さまの愛に応えようとせず、神さまに背を向けていました。それでも神さまはシナイの山でご自分の民と結んでくださった契約にどこまでも誠実であられます。そして嘆かれます。「どうしてあなたを引き渡すことができようか」「どうしてあなたを明け渡すことができようか」と。人々の罪の結果である滅びに引き渡すことができない、明け渡すことができないと、胸を熱くしておられるのでしょう。ご自分の民を滅ぼすことはしないと言われます。神さまの愛にふさわしい応答が民からあったから、彼らを滅ぼさず、救うのではありません。神さまの愛に対する人々からの報いはありません。神さまが、人ではなく神であるからです。どんなに立派な人間の親も及ばない不変の愛で、民を慈しみ続け、罪に対する滅びを彼らに下すよりも、彼らがご自分のもとに帰ってくることを願い続けてくださいます。

神さまがこのような方であることを知るから、私たちは本当の自分の顔で、神さまに祈ることができます。私たちの全てをご存知である神さまのみ前で、他人を演じたり、心の扉を閉ざすことの愚かさに気づかされます。神さまとの交わりの中に自分の全てを置くこの幸いな祈りの時を、生活の中で持ち続けることへと、主イエスの言葉によって押し出されます。

 

主イエスがこう祈りなさいと教えてくださった祈りは、そらんじることができるほど、短く簡潔です。これがあなたがたの祈りの骨格だと、このようにこそ祈りなさいと、主は教えてくださいます。主の祈りで祈られている言葉や、祈られている内容、何が先ず祈られ、前半は何について祈り、後半で何を祈るのかといった構造、それらを知り、祈りの骨組みを知ることは、神さまを知り、神さまと私たちとの結びつきの骨組みを知り、神さまからご自分の民とされ、子らとされている私たち自身を知ることへとつながります。この祈りは、弟子たちや群集に、つまり神の民全体に与えられています。だからこの祈りを祈る度、信仰の家族が与えられていることへの感謝の思いが呼び起こされます。この祈りを共に声を合わせて祈ることができる、主イエスから「あなたがた」と共に呼んでいただける、信仰の家族が居ることに、喜びを覚えます。そしてまた、この祈りを日々の生活の中で私たちは一人で祈ることもできます。この言葉のまま祈ることが勿論できます。何を祈れば良いのか分からない時に、既に祈りの骨組みが与えられていることが大きな助けとなります。そして私たちがその時々、神さまに注ぎ出したい思いをこの骨組みに加えることもできるでしょう。言葉数の多さで報いを確かにするためではなく、神さまに対して扉を開き、本当の自分を注ぎ出し、いただいてきた慈しみに応える者となることを願って、主の祈りに、私たちの祈りを続けることもできるでしょう。主イエスが与えてくださり、主が先ず祈ってくださったこの祈りによって、私たちの生活の骨組みが日々整えられ、神さまの慈しみにお応えする歩みを刻んでゆきたいと願います。