イースター恵みの朝 左近 豊
2026年イースター礼拝
哀歌3:18-24 ヨハネ20:24-29
148、こどもさんびか改訂87「くさのめきのめが」、191、205、541
イースターをご一緒に迎えることができて感謝いたします。イースターは私たちの命の源であり、私たちの終わりの先にある究極の望みです。
今年は2月から始まったレント受難節に、聖書の舞台である中東が戦火に包まれてリーダーたちだけでなく子ども達も殺戮され、ウクライナでの戦争も丸4年続き、死と恐怖と不安と不条理が世界を覆っています。恐怖に浮き足立って、脅威の根を断てば平安を得られるという幻想を追い求めて見境なく拳を振り下ろす愚かしさが繰り返されています。死によって死を駆逐することはできないことは歴史に学んできたはずです。たくさんの犠牲を払いながら。「憎しみによって憎しみを追い払うことはできない、愛のみが憎しみを追い払うことができる、闇で闇を追い払うことはできない。光だけが闇を追い払うことができる」Martin Luther King牧師の言葉です。
確かに死と憎しみと闇の恐怖は絶大です。人は抗うことができない。それでもしぶとく信じて語り続けるのは、恐怖に抗う力の出どころは、私たちではなく、ただ復活の主イエスからのみ来るからです。イースターはこの希望に改めて打ちのめされるときです。死と疑いと憎しみと不安の世界に、楔打ち込む、み言葉をしっかと刻みなおすときです。十字架の金曜日と復活の日曜日をつなぐ聖餐のテーブルを囲んで、死と疑いと憎しみと恐怖と死んで陰府に降ってまで戦い抜かれて、復活の朝日の中で食卓を用意して招いてくださるイエスキリストにまみえる時を共にいたします。
復活の主との出会いは人それぞれです。例えば空になった墓で、泣きながらかがみこんで空しく覗き込んでいた時に背後から名を呼ばれて振り返って復活の主にまみえたマグダラのマリア。日暮れに伸びてゆく影を引きずるようにして議論しながら歩いていたところに、横に並んで歩まれ、聖書の解き明かしで心に火を点され、エマオの宿でパンをとり祝福してさいて渡してくださった主イエスに出会った弟子たち。パウロの場合は天からの光に照らされて「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と呼びかけられた出会いを証ししました。復活の主イエスとの出会いは、背後からのこともあれば、傍らに伴われた場合も、上から唐突に示されることもある。空しさに涙している時、くぐもる議論のさ中、あるいは激しい怒りと敵意に息巻いていた時にも。今日のトマスの場合は、信じたいけれど違和感をぬぐい切れず、復活された主との出会いがもたらした仲間たちの熱狂と歓喜に身を委ねることができずに煩悶していた時に、まっすぐに前から主イエスご自身が近づいてこられてトマスに手の釘の跡と脇の傷を示しながら出会われました。復活の主イエスとの出会いは、一様ではなかったことがわかります。一つ一つの出会いに身を粉にされた復活のイエスキリストの姿があります。一人ひとりを縛り付けているそれぞれに異なる囚われから解き放つために、そしてすべての人を引きずり込む死と憎しみと闇の恐怖の縄目を解いて自由を謳歌させるために、相応しい仕方で、復活のみ体をあらわしてくださった。
見なければ信じない、とかたくななまでに見ることに縋り付いていたトマスでした。自らの目で見て、「自分自身がそれを経験し、試してみることができなければ、何の役に立とうか。死は死であって、願望が人間を簡単に信じる者としてしまう」(「説教」『ボンヘッファー選集8』334頁)ことに危うさを覚える。トマスは、他の弟子たちがイースターの喜びに沸きたち熱狂する中で、その場にいなかったこともありますが、違和感をかかえたまま、1週間、イエスキリストが復活したと口々に嬉々として、あたかも肩をつかんで揺さぶるかのように迫りくる仲間たちの話を聞いていた。熱に浮かされるように、周りに合わせて、信仰の世界へと身を投じることを潔しとしない。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と。熱狂する人々に流される陶酔を良しとせず、醒めた目と自身の手で信ずるに足るかを検証せねば、命かけて信ずることができない。トマスは、かつて主イエスがそばに居られたときには、身の危険を賭して親しい友のもとに向かう主イエスに従ってゆき、死ぬ覚悟ももっている弟子でした。主への忠誠として、その命ささげて惜しくない、「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と他の弟子たちを鼓舞する人でした。ただ、今や十字架で死なれ、葬られた死の現実は火を見るよりも明らか。検証の必要もない。イースターの出来事を疑うものたちや聴いても「馬鹿げたことに思えて・・・信じなかった」(マタイ28:17、ルカ24:11)、そのなかにトマスもいました。ただトマスは、信じることを拒みながらも、次の日曜日、また弟子たちの集まりに戻ってきました。
聞くためだったのでしょう。また群れの中で、聖書に証されてきた救い主についての解き明かしに耳を傾けるためだったことでしょう。復活の出来事を語る者たちの言葉を聞くこと、聖書をだれかと共に読むことを通して、トマスはイースターの出来事を必死に理解しようとしていたのだと言えます。命を懸けるお相手を失った今、すべては結局死で終わってしまうなら、生きていることに何の意味があるのか、あるとすれば刹那的においしいものを食べたり、美しいものを愛でて、楽に楽しく今を謳歌して、まじめに生きるよりは、気ままに苦しみや悩み、責任やコミットを極力さけて、自分が満足できる年月を全うできればそれでいい、命あっての物種、死んだらすべては終わり。そういう生き方にトマスは引きずり込まれることに抗って、復活の主との出来事を信じ語り読む者たちの群れに帰ってきた。トマスは生きること、死ぬことに真剣でした、だから納得できないことは徹底的に疑い、検証せねばならなかったし、できることなら信じる者たちに説得されたい、そんな思いでイースターを祝う日曜日に群れの中に入ってきたのだと言えます。このトマスに、まっすぐに前方から近づいてこられたのが復活の主イエスでした。「あなたがたに平和があるように」と、前の日曜日と同じように言われて入ってこられた。
ボンヘッファーが1940年(ナチスドイツがポーランドに攻め込んで第二次世界大戦が勃発して半年後)のイースター(1940年3月24日)に語った黙想の中で、ここでの「平和があるように」というのは日常的な挨拶というのではなくて、母親や年を経たキリスト者の敬虔な挨拶にあるような重みに例えながら、「~であれsei」よりも「~であるist」という意味を補った方がよい、と述べていました。「あなた方に、平和があるように」という願望や願いというだけではなくて、復活された主イエスによって「あなた方には、平和があるのだ」と。「あなたがたのあらゆる恐れはやみ、あなた方に対する罪と死の支配は止んで、今や、あなた方には神に対する、人々に対する、従って、あなた方自身に対する平安がある、という意味である。ご自身でわれわれのためにこの平安を勝ちとり給うたお方は、そのように語られて、そして戦われ、勝利が獲得された、いわばそのしるしとして、穴のあけられた手と傷ついた脇を示された。「平和があるように」それはご自身がこの平和であるお方、イエスキリストが、十字架につけられ、復活されたお方が、あなた方と共におられる、という意味である」(前掲書332頁)と。
穴のあけられた手と傷ついた脇を示されて、「平和があるように」それはご自身がこの平和である方、十字架につけられ、復活された方が、トマスにまっすぐに近づいてこられた。そしてご自分の手と脇を差し出されて、見ること、触れて検証するよう招かれる。トマスが縋りついていた見ること、触る事で信じるという思いを主イエスははねのけるのではなく、むしろそのどうにもならない格闘と四つに組んでくださった。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい」。触っていい、よーく見て、脇腹に手を入れたっていい、「信じないものではなく、信じる者になりなさい」と。聖書にはトマスが言われた通りに指を手の釘跡に入れ、手を伸ばして脇腹に入れたとは書かれていません。むしろ、もう手に指を入れたり触れようとはしなかったのではないかと考えられます。先ほど紹介したボンヘッファーの黙想でも、トマスはもはや、自分の手も、自分の目も信じなかった。ただキリストのみを信じることができた(前掲書335頁)とありました。自分の目の確かさも自分の手による検証も、自分の経験や確信も、本当には信頼に足らないものとされることが起こった。確かだと思い込んでいた、むしろ信じていたことが。あてにならないことに、トマスは不安よりも真の平和を見出した。「あなたがたに平和があるように」と言われた復活の主が共にいますことの平安でした。トマスは告白します「わが主よ、わが神よ」と。復活のイエスを救い主と信じる信仰が与えられた、喜びの告白でした。
おのれの目で見ること、手で確かめることが信じられなくても、ただ主イエスのみが信じられたトマスに、主イエスは、おそらく優しく「私を見たから信じたのか?見ないで信じる人は、幸いである」と祝福されました。信仰は見ることや検証に耐えることに基づいて確信することができるものではなくて、ただ神の言葉に基づいて確信することができるものです。
そのことを証しして逝かれた信仰の先達を私たちは思い起こします。受難節の中ごろ3週間前の主の日に逝去された美竹教会のメンバーだったNさん。葬儀はご家族だけでささげられましたので、今日は少しNさんの信仰を共に分かち合いたいと思います。復活の主イエスを信じる信仰を告白して、終わりの日の復活の希望をもって召されました。Nさんは5年前に調布にあるホームに入られるまで、ほぼ毎週美竹教会の礼拝を大事にしておられました。ご自分を迷える羊に例えて、説教をうかがって、その時はわかった気になっても家に帰るとわからないことばかり、イエスキリストに呼ばれても群れから迷い出てしまう情けない羊なんだと、決して卑下するのでも冗談めかしてでもなく、真剣なまなざしで何度も何度も訴えかけられました。大学では化学を専攻され、大手鉄鋼メーカーで化学者として歩んでこられ、最後は子会社の社長として経営にも携わって現役を退かれた方でした。妻の信仰は認めても、自分が何かを信じるということからは程遠い人生だったとおっしゃっていました。12年前、私が美竹教会に遣わされ教会にいると、毎週2回散歩のついでに寄られて、お弁当を一緒に食べたり、教会の手入れをしていただきながら、たくさんの話をしました。その度に、もっと若いころ教会に来て話を聞いていたら、自分でも自信がある記憶力や分析力、理解力で分かっていたかもしれないけれど、今はダメなんだ。先生も年老いたらきっとわかっていただけると思うけど、本当に情けない。そうおっしゃっては悔しそうでした。そのNさんが、11年前の春先ののどかな午後、いつものように話をしていたのですが突然席を立たれて帰ってこられたときに、「先生、わたしは全てをお委ねします。洗礼を授けてください」とおっしゃいました。唐突すぎて鉄砲玉を食らった鳩のように固まっていたのかもしれません。Nさんがもう一度、同じことを言われたので、2人で涙流しながら感謝の祈りをささげて、その年のペンテコステに洗礼を授けました。私が牧師として生涯で最初に洗礼を授けたのがNさんでした。Nさんは、ご自分の得意だった記憶力、分析力、理解力によるのではなく、ただ復活のキリストを見ずして信じる信仰によって平和を得られました。Nさんが召された連絡を受けて、急いでNさんが託してくださっていた牧会メモを読みました。葬儀の際に歌ってほしい讃美歌や私たち牧師に知っておいてもらいたい要望が書かれていました。そして大事にしていた聖書箇所については、章節だけではなくて、その聖書の言葉が全文、記載されていました。新約聖書ペトロの手紙I 1:8~9「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです」でした。葬儀に読んでほしいと望まれた聖書箇所は、まさにイースターの主とのの中でトマスが得た信仰を言い表わすものでした。この確信をもって聖霊の息吹の中、新たな命を携えてまいりましょう。
祈ります。
イースターの主、イエスキリストの父なる神様、死が闊歩し悪が春を謳歌するような世界にあって、死を滅ぼし、悪に勝たれ、罪を贖う恵みの朝を告げるイースターを祝う礼拝の群れを養い、強め、祝してください。
