ヨハネ19:28~30、出エジプト12:21~28、詩編69:17~22、35~37「成し遂げられた」
2026年3月29日(左近深恵子、レントⅥ)
ヨハネ福音書は主イエスのご受難の時を、「主イエスの時」と幾度も言い表してきました。主イエスご自身も、「私が上げられる時」と、その時のことを述べてこられました。「上げられる」とは先ず、十字架の上に上げられる受難と死の時を指します。そして、死者の中から上げられる復活の時、更に父なる神の御元へと上げられる昇天の時を意味しました。この重要な十字架の出来事をヨハネによる福音書は、言葉をそぎ落とし、内容を厳選し、核に焦点を絞り、そこだけにライトを当てるようにして語っています。そうして私たちは、十字架上で絞り出すように発せられた主の言葉と、ほとんど自由を奪われた中で主が為さったことに集中することを、促されます。
そぎ落とされた文で伝えるのは、主が苦しみの極みの中で死なれたということです。この苦しみはこの時始まったものではありません。旧約聖書は、神さまがご自分の民の苦難を常にご自分の苦しみとし、彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、担ってくださったこと、それなのに神の民は、神さまに対して背きを重ねてきたことを語ってきました。このような人間を救うために、神さまは神のみ子を世に与えてくださいました。私たちと同じように、血の流れる肉体を持ってお生まれになったみ子は、私たちと同じように、内に、外に、痛み苦しみを覚えながら、死に向かう体において生きてこられました。私たちが味わうことから逃げてきた苦しみをも、担ってこられました。人は、神さまが到来されることを、本当に心から喜ぶ者ではありません。見栄を張って取り繕って来た自分の闇も、偽りで覆い隠してきた自分の実態も露わになってしまうと、自分が自分の神でいようと、神さまを退けようとします。主イエスを自分たちの中から排除しようとする人々の抵抗、頑なさ、攻撃による苦しみを、主は負ってこられました。ヨハネ福音書はその冒頭で、世は言なる御子によって成ったと、言はご自分の民のところへ来たが、民は言を受け入れなかったと述べています。背き続ける人間を救うために世に降られたみ子は、み心を実現するために苦しみを耐えてこられました。そして十字架に上げられる時、神さまのみ心は最も明らかにされるのです。
十字架の上で主イエスは「渇く」と言われたことを、この福音書は伝えています。苦痛の時間を敢えて引き伸ばし、長い時間をかけて死に至らせる十字架刑において、処刑される者は耐えがたい渇きに苦しんだことでしょう。また真昼から十字架に架けられ、暑い日差しの中、汗によって水分も少しずつ失われていったことでしょう。この時の十字架刑が、両手両足を釘で打ち付ける仕方によるものであったなら、釘で打ち付けられた部分に全身の重みがかかり、そこから絶え間なく出血があったことでしょう。主は前の晩に逮捕されて以来、大祭司の館から総督の官邸へと、次々と引き回され、拷問を受けられ、ほとんど眠ることができていません。十字架を背負わされて、ゴルゴタの丘に来られ、十字架に付けられた主の衰弱は、通常十字架刑に処せられる人々よりも進んでいたことでしょう。死に向かう時に味わう肉体の渇きを、主は最も過酷な状況で味わってくださいました。
焼けつくような渇きに主イエスが苦しんでおられたのは確かでしょう。けれどこの福音書は、主の肉体的な渇きについて語りません。息をする度に体に激痛が走り、言葉を発すれば一層衰弱が進む状況の中で、主は、「すべてのことが成し遂げられたのを知」って、「渇く」と言われたと述べます。福音書の書き手も主の言葉に続いて、「こうして、聖書の言葉が実現した」と述べます。30節でもう一度、主は28節と同じように「成し遂げられた」と言われます。聖書を通して証しされてきた神さまのみ旨が、主イエスの苦しみの極みにおいて実現したことに焦点を当てています。福音の頂点、主イエスのご生涯とお働きの頂点がここにあります。
「成し遂げられた」「実現した」と訳された言葉はどちらも、「最終ゴール、目標、目的」を意味する同じ名詞から派生した動詞です。「終わりに達した、完成した、全うした」といった意味の言葉です。短い今日の箇所に、同じ名詞から出た同じような動詞によって三度畳みかけられ、神さまのご計画が成し遂げられたことが強調されています。主イエスのご生涯とお働きが全うされたことが告げられます。「成し遂げる」を意味する言葉は、これまでも幾度もこの福音書に登場してきました。主イエスはかつて、ご自分に対し食事をするようにと勧める弟子たちに、「私には、あなたがたの知らない食べ物がある」「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方のみ心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました(4:32~34)。その時に言われた「成し遂げる」も、今日の箇所と同じ名詞を基にしています。また人々にこう言われたこともありました、「父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている」(5:36)。十字架の前の晩、弟子たちと囲まれた、最後の晩餐と呼ばれる食事の席では、教えを語られた後、「父よ、時が来ました」との言葉で祈り始められます。その祈りの中でも、「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」(17:5)と言われています。これらの箇所で「成し遂げる」と訳されている言葉も、最終ゴールや目的を表す名詞から派生した言葉です。主イエスのご生涯は絶えず最終ゴールに向かってゆくものであり、日々の生活それ自体がゴールのためであり、その目的は、父なる神のご意思を完成させることなのだと、み子ご自身が弟子たちに、人々に、御父に、述べてこられました。そして、死の前の晩には、「あなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上で栄光を現わしました」と父なる神に祈り、死の時、「すべてのことが成し遂げられた」ことを知り、「成し遂げられた」との言葉を最後の言葉とされました。人は、主が成し遂げてくださったみ業を恵みとしていただくだけです。神さまの言葉に従いきれない、自らの救いのために何も貢献することができない、自分で自分を救うことができない人間の、神さまへの抗いをみ子は受けながら、神さまのみ言葉に従う道を、主自ら前へ前へと進み続けられました。ご自分を捕らえようと武器を手にやってきた兵士たちや、ユダヤの指導者たちが遣わした下役たちに、剣を抜いて打ちかかったペトロに対しも、「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(18:11)と言われました。ペトロをはじめとする弟子たちは、主イエスの言葉を誰よりも聞いてきたけれど、自身を救うための道に立ち切れずに、自分の力で道を開こうとします。そのペトロに主エスは、父なる神の言葉に聴き従い、神がお与えになった死の杯を飲むべきだと、これこそが父なる神がお定めになった道だと告げられます。そして主イエスはその道を進んで行かれます。主イエスの十字架の死は、人の目には、追いやられて、逃げることができず、なすすべ無く罪人として裁かれて死んでゆく死かもしれませんが、主は自ら十字架へと向かわれます。ユダと、ユダが手引きしたご自分の民や異教の兵士たちに囲まれた闇の夜も、十字架の死の時も、支配しておられるのは神さまであるのです。
主イエスが逮捕されると、弟子たちのほとんどは主イエスを見捨てたり、距離を取りました。しかし主は、晩餐の席で、弟子たちを代表する者の一人であるペトロがご自分に従うことができないことを弟子たちに予告しておられたように、弟子たちの離反を見据えておられました。それが、ユダの裏切りと主イエスの逮捕によって現実となってゆきます。人々の罪が、弟子や群集から尊敬を受け、慕われていた主イエスの傍からこれらの者を奪いました。それだけでなく人々の罪は、主イエスを罪人の中心に据えました。やはり十字架刑で罰しなければならない罪を犯したと考える二人の犯罪者を主イエスの両脇で十字架に架けたのです。神の民の王としてでも、敬愛される先生としてでもなく、犯罪者の一人としての死なせようとします。そして兵士たちは、十字架に付けられた主イエスから服を奪いました。処刑される者の衣服は、処刑の任務に当たる兵士たちの取り分とされていたようです。主は無言の内に、ご自分が纏ってこられたものも渡されました。
死へと引き渡されてゆく主イエスの時は、これまでの地上の歩みの中で与えられてきた一つ一つを、ご自分に敵対する者たちに渡して行かれる時でもありました。主イエスが十字架に架けられたのは、過越しの祭りで賑わう神の都エルサレムです。ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架にお架かりになった時を、過越しの食事を人々がする前の日、過越しの食事の準備の日としています(19:14)。この日、過越しの小羊が屠られます。この準備の日に主イエスが死なれたことを語ることで、この福音書は、主イエスこそが過越しの小羊であると証ししているのだと教会は受け止めてきました。ファラオの支配の下から神の民を救うために、屠り、その血を家の鴨居と柱に塗るようにと神さまがご自分の民に告げられた犠牲の小羊のように、人々を罪の支配から救うためにみ子がその血を流し、肉を裂かれる十字架にお架かりになりました。主イエスを消し去ろうとする人々は、神からも自分を慕って来た人々からも見捨てられた死を、主イエスに死んでゆかそうとします。その人々の手に、主がご自分のものを一つ、また一つ、渡してゆかれたのです。
十字架上で主は「渇く」と言われました。その言葉が、この十字架の時も神さまのみ手の中にあり、全てを支配しておられる神さまの救いのみ業が今や全うされることを見つめて発せられたものであることを、人々は理解できません。父なる神のご意思を為すことこそご自分の糧であると弟子たちに教えられた主イエスが、み言葉を実現することを死の淵にあっても飢え渇くほどに求めておられることが、理解できないのです。だから、酢を含ませた海綿を主イエスの口元に運びます。「酢」とも「酸っぱいぶどう酒」とも訳されるこの言葉は、酸化してすっぱくなった安物のブドウ酒を意味すると考えられます。肉体と尊厳を最も残酷な仕方で踏みにじる十字架刑において、処刑される者に更に嘲りを加え、屈辱の内に死んでゆかせるために、酢を与えたと考えられています。この福音書は、主イエスがこれを口にされたことを伝えます。人の罪の闇が生み出すものを最後までその身に受けてくださり、死の際まで、「父がお与えになった杯」を飲み、神さまのみ旨を行うことを、み子は求めてくださったのだと語り掛けます。
酢を受けられた主は、「成し遂げられた」と言われ、頭を垂れて息を引き取られました。「息を引き取られた」と訳された言葉を直訳すると、「息を引き渡した」となります。これまで、逮捕から、裁判、十字架に至るまで、主は静かに、ほとんど沈黙の内に、苦しみを引き受け、主こそがこの時の支配者であることを示してこられました。死の瞬間にも、自ら息を引き渡されます。かつて主イエスは、ご自分は羊の囲いである、良い羊飼いである、良い羊飼いは羊のために命を捨てると言われました。こう言われました、「私には、この囲いに入っていない他の羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聴き分ける。こうして、一つの群れ、1人の羊飼いとなる。私は命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる」(ヨハネ10:16~18)。このお言葉通り、父なる神の最終ゴールに向かって、ご自分の羊たちのために、既に囲いに入っている者も、まだ入っていない者も救うために、主ご自身が息を引き渡されます。引き渡すと言う言葉は、ここまで常に、神さまに背き、渡してはならないものを、渡してはならない相手に渡してしまい、結果として主イエスを裏切る人間の行為を表すものとして用いられてきました。人の罪を言い表す言葉でした。その同じ言葉によって主は、自らの命を神さまに引き渡されます。罪に支配された人の在り方を全て、根底から覆す死を、死んでくださいます。この主の十字架があるから、人がなお神さまに背き、神で無い者に自身を支配させかけても、それは終わりではありません。私たちの最終のゴールは、主が十字架によって勝ち取られた、神さまの愛にあります。
私たちを惹きつけ、神さまに背を向けさせる罪の力のしぶとさを、私たちは知っています。しかし、み子を世に与えてくださるほど、私たちをご自分のもとに立ち帰らせることを望まれた主のみ心はより強く、み子の十字架と復活によって実現された主と私たちの結びつきは、より確かです。主が、私たちを愛し抜かれた事実は、何よりも大きいのです。今日の箇所で用いられている「成し遂げる」「実現する」と訳されている動詞の基になっている名詞、「最終ゴール、目的」を意味する名詞は、ヨハネによる福音書では13:1にのみ登場します。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」と訳されている文の、「最後まで」という言葉がそれです。十字架の死が目前に迫ったことを知った主イエスが、ご自分の者たち、ご自分の羊たちを、最終ゴールに至るまで、愛し抜かれたと述べます。主イエスは神さまが定められた犠牲の小羊として、死を迎えられました。最後まで苦しみを受け続けられたその死は、人の目には敗北にしか映らなくても、私たちの罪に対する勝利を成し遂げられる死でありました。主イエスは人の罪の闇に全てを引き渡し、死の淵に自ら立ちながら、勝利の宣言、救いの完成の宣言をされました。私たちはみ子の十字架の死に、父なる神の御旨に従い、ご自分に属する者たちを愛し抜かれ、罪からの救いを求め続けてくださった主の愛を見ることができます。人間の闇が最も深く濃くなったその時、主イエスの死は闇にかき消されない光を示しました。だから私たちは、大切な人の死や自分の死に、死の深みに立ってくださった主を思うことができます。私たちの死が、死の淵へと追いつめられた結末の死のように思えてしまう時にも、死の深みで父なる神のみ心を成し遂げたと勝利を宣言してくださったキリストを思うことができます。罪の故に混沌とした闇の中に沈んでゆく滅びの死を死ぬしかなかった私たちが十字架の死によって主が切り拓いてくださった光の道へと招き入れられる者となったのです。み子によって既に救いは成し遂げられました。だから私たちは終わりに至るまで、私たちを愛し抜かれた主の愛の中を歩むことができるのです。
