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主の切なる願い

「主の切なる願い」エゼキエル331011、ルカ221423

2026322日(レントⅤ、左近深恵子)

 

 レントの時を過ごしながら、主イエスの十字架に至る道を辿っています。29日からはレント最後の週、受難週に入ります。受難週の木曜日は、最後の晩餐の日の出来事を覚えます。

 マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書によりますと、主イエスと弟子たちの最後の晩餐は、過越祭の食事でした。過越祭は春分の頃に1週間に渡って行われるユダヤ人の三大祭の1つで、イスラエルの民の出エジプトの出来事を記念するものでした。出エジプトは、神さまがイスラエルの民を奴隷状態から救い出してくださったみ業です。エジプト王ファラオと、ファラオに追従するエジプトの人々によって、人として生きる自由を奪われていたイスラエルの民を救い出すために、神さまは様々な災いをエジプトにもたらしました。最後の災いは、エジプト中の初子を打つというものでした。その日の真夜中、初子を打つ災いはエジプト中の家を覆いましたが、イスラエルの家は「過ぎ越し」ました。神さまがイスラエルの民にモーセを通して、小羊を屠り、家の門柱と鴨居にその血を塗るようにと命じておられ、神さまの言葉に従ってイスラエルの民が犠牲の小羊の血を家の入口に塗っていたからでした。自分の民の初子たちを失い、自分の子どもも失ったファラオはとうとう、イスラエルの民が国を出て行くことを認めました。こうして神さまは悪しき力に裁きを下し、イスラエルの民はその裁きの中で守られました。翌日エジプトを後にしたイスラエルの民は、モーセに導かれながら荒れ野を進み、シナイ山で神さまから契約をいただいたのです。

ファラオによってイスラエルの民は、神さまを礼拝する自由も、どのように生きてゆくのか選ぶ自由も奪われていました、人として生きることができずにいました。その民が、神さまの慈しみによって人として生きることのできる命と力を回復され、神さまとの契約の中に導き入れられ、律法によって、互いの間に神さまの慈しみを通わせる人間関係を築き、神の民として形づくられてゆく道を示されました。自分たち神の民の原点には、この神さまの救いの恵みがあると思い起こすのが、過越し祭です。ファラオやファラオに追従する者たちや諸国の民に、神さまがイスラエルの民を贖われたのだと、真の神は、ファラオや世の王たちではなく神さまであると示された神さまの御業を思い起こし、感謝を新たにする祭です。

 主イエスは、この過ぎ越しの食事を弟子たちとしたいと、切に願っていたと、15節で述べておられます。今日の箇所の前には、過越しの食事の準備を主イエスが弟子たちに指示され、弟子たちがその言葉に従って準備をしたことが述べられています。過越しの食事は、家族や親族で囲むのが一般的です。エルサレムの都でこの大切な祭りを祝いたいとそれぞれの町や村からやってきた人たちは、家族や親族に加え、地元の親しい人々と食卓を囲んだかもしれません。主イエスは、過越しの食卓を弟子たちと囲むことを願われました。弟子たちを、過越しの食事を囲むほど親しく近しい者と、ご自分の家族としておられます。食事の場所も主が定めておられます。それは、ある家の二階の広間です。通りかかった人が出入りできるような場所ではなく、弟子たちと落ち着いて食卓を囲み、話すことができる場所であったのでしょう。この食卓の主は、主イエスです。食事の用意も場所も主イエスが定められ、弟子たちを食卓に招き、感謝の祈りを捧げ、パンと杯を弟子たちに与えたのは主イエスです。弟子たちは、主イエスによって主とこの食卓を囲むことを願われ、招かれた者たちであるのです。

主イエスが食事の支度の指示を出される場面の直前で福音書が伝えているのは、エルサレムの神殿や会堂の指導者たちが、主イエスを殺す相談をしていたことです。指導者たちは以前から、主イエスの存在を消し去って、その活動と影響を排除することを画策してきました。今や彼らは、具体的に殺す計画を練り始めています。またこの場面で、12弟子の1人ユダがこの指導者たちに協力を申し出て、主イエスの引き渡し方を相談したことが述べられています。ユダは指導者たちに主イエスを引き渡すことを承諾し、主イエスが捕らえられたら大騒ぎするであろう群衆たちに見つからずに引き渡せる機会を狙っていたことが最後に述べられます。主イエスを消し去ろうとする勢力が増大し、層を厚くし、その準備が水面下で進められ、主イエスへと迫りつつある、それが、この日主イエスを取り巻いている状況です。

主イエスは神のみ子です。神さまが人々を救うために世にお与えになった救い主です。しかしみ子の到来は、世の人々に、神さまに従う祝福の道を行くのか、それともこれまでのように悪しき思いに引きずられ続けるのか、決断を迫ります。乳飲み子主イエスを抱いてマリアとヨセフが神殿に来た時、シメオンは、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」とマリアに告げました。主イエスが神さまの真理を告げれば告げるほど、神さまのみ前で倒されずにはいられない人の悪があぶり出され、悪を自分の主とする生き方にしがみつこうとする頑なな人間たちの、主イエスに対する抗う思いが力を増してゆきます。自分が信仰の対象に望む、自分が思い描く神の像に納まりきらない神さまを宣べ伝える主イエスに、反発や敵意を募らせてゆく人の悪があります。自分のコントロール下に置ききれる救い主を求める、主イエスを自分の支配下に置こうとする悪があります。そのような人々が、主イエスを殺すことにおいてこの晩結託します。主イエスの傍にいた弟子たちも、エルサレムでの数日の間に、主イエスと指導者たちの対立が深まり、主イエスに向けられる悪意や敵意が増していることに、危機感を抱いていたことでしょう。主イエスや自分たちの身に何が起こるのかと案じる者もいれば、闘争心を掻き立てられる者もいたかもしれません。この危機的状況で、毎年過越祭の度に食べる過越しの食事の比重は、弟子たちの中で果たしてどれほど大きかったのでしょう。しかし主イエスは、過越しの食事を「苦しみを受ける前に…この過ぎ越しの食事をしたいと、私は切に願っていた」と言われるのです。

主イエスと弟子たちの周囲で、悪の闇が濃さを増してゆきますが、晩餐の部屋の中も、悪の闇と無関係ではいられません。かつて主イエスは、山に行き、夜を徹して神さまに祈られた末に、弟子たちの中から12人を選ばれました(ルカ61213)。その12人が、ここに招かれた者たちです。しかしその一人であるユダは、既に主イエスを引き渡す裏切りに踏み切っています。今日の箇所に続いて語られるのは、弟子たちが、自分たちのうちで誰が一番偉いのかと言い争った出来事です。そして、この晩の内にペトロが三度主イエスを否むことを主イエスが予告される出来事が続きます。弟子たちそれぞれの内にも、濃淡に変化はあっても消えることの無い闇があります。ユダは自ら、主イエスを殺す計画に加担するため、出向いて行きました。他の者たちは、自分の内に裏切りにつながるものがあることへの認識が無く、やがて自分が主イエスを否んだり見捨てたりするとは露程も思っていません。12人も決して、悪の力から隔絶された存在ではありません。主イエスが救い主であること、神さまが臨在されること、自分を救うためにも神さまが主イエスを遣わしてくださったことに彼ら自身立ってきたつもりであっても、悪は彼らを揺るがせ、主イエスから引き離すことに力を発揮します。主イエスは、ご自分が祈り抜いて選び出された弟子たちが、悪に対して脆い者であり、ご自分がこれから逮捕され、死刑に処せられてゆくに従い、彼らが一層大きく揺るがされること、ユダは既に自分自身を悪に支配させてしまっていることをご存知でありました。ご自分を裏切る者が、ご自分と一緒にこの過越しの食卓に手を置いている現実、そのことを口に出さなければならない現実は、主イエスにとってどんなに辛いものであったでしょうか。神の都で指導者たちは悪しき思いに呑み込まれ、主イエスが傍に置いて教え、導いてこられた弟子たちの内にも、悪しき思いが沁み込んでいます。神の民を捕らえている混沌とした闇の、その濃さが極まってゆくこの晩、主イエスの切なる願いによって、使徒たちは主イエスが主である過越しの食事の席に着いています。「あなたがた」と主は呼びかけ、あなたがたのためにご自身を与えるのだと、あなたがたのためにご自分の体を与え、血を流すのだと、そのことをあなたがたに示し、語り、共に味わうこの日を待ち望んできたのだと告げられます。お祭りの特別な食事を一緒にするのが楽しみだから、お祭りで賑わう都の雰囲気が心躍らせるから、ご自分の語ることや為さることをよく理解し、よく受け止めてくれる弟子たちと食卓を囲めることが嬉しいから、そのような人々の側に根拠があっての、待望ではありません。使徒たちの側に、つまり教会の側には主に切望していただける根拠はありません。一人一人を救いたいと願われる主のみ心だけが、使徒たちがここに居る根拠であり、私たちが今ここに居る根拠であります。

弟子たちも、指導者たちも、自分たちが神さまのご意志に立ち続けることにどんなに脆い者であるのか、神さまから引き離す思いや力とどんなに共鳴しやすい者であるのか、自分たちの内にそのような悪しき思いがどれだけ沁み込んでいるのか、認識が足りないので、主イエスの切実な願いを不思議に思うだけです。私たちもそうではないでしょうか。主イエスが十字架で肉を裂かれ、血を流されなければならないほど、自分たちが救われるのは難しいことなのだと、救われなければならない悲惨な状態であるのだと、受け止めきれない私たちです。自分に救いが必要であることが分かり切っていない者が、心から自分の救いを願うことはできません。その私たちのために、主イエスが切望してこられました。9章の山上の変貌と呼ばれる出来事において、現れたモーセやエリヤと、主イエスは語り合われました。それは、ご自分がエルサレムで成し遂げられることについてでした。モーセは、出エジプトを実現させるために神さまによって立てられました。エリヤは、モーセを通して神さまがお与えくださった契約に生きることを貫けない神の民にみ言葉を伝えるために立てられました。その二人に主イエスは、出エジプトを成し遂げることを告げられたのではないでしょうか。そして、モーセや預言者たちを通して神さまが為してこられた救いのみ業を成就するために、ご自分を殺す者たちが待ち受けるエルサレムに来られたのです。

私たちの、自分の悪や罪に対する認識は、神さまが見つめて来られたもののほんの僅かなものに過ぎないので、主は、忍耐の苦しみを負いつつ切望してこられました。そして主は、私たちの悪しき思いが結託し、大きな渦を巻き、全てを呑み込もうとするその力を用いて、救いをもたらしてくださいました。出エジプトにおいて、神さまこそが真の王であり神であることを認めないファラオの抵抗を主は受け続けてくださり、神さまをも恐れない人間の頑なさが極まった状況で、出エジプトを実現され、神さまの救いのみ業をどのような人間の抗いも阻むことはできないことを、示されました。主イエスの言葉に耳を傾け、主イエスが示される神さまのみ前に自分を据えることができない人々の頑なさと策略が頂点に達し、主イエスを十字架に釘で打ち付けるエルサレムの都でも、人々のその根深く醜悪な罪に対する裁きをみ子が代わりに受けるために、血を流し、肉を裂いて、罪からの赦しをもたらしてくださいます。預言者エゼキエルの言葉を聞きました。エゼキエルは、神の民イスラエルに対して、神さまの裁きを告げ、悔い改めを求める言葉を繰り返しました。しかし、神さまの裁きによって都エルサレムが滅ぼされてからは、神さまはエゼキエルに、神さまの慰めを告げ、悔い改めるものに、神さまこそが真の主であることを告げる役割を与えられました。主は3310以下で、都の滅亡の知らせを聞き、神さまの裁きに打ちのめされている民にこう告げよと言われます。「私は生きている。私は悪しき者の死を決して喜ばない。寧ろ、悪しき者がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。あなたがたがどうして死んで良いだろうか」と。自分たちが神さまに対して罪を犯してきたことを認識し、その罪の重さに絶望し、死の淵で力を失っている民に、神さまは生きておられると、呼び掛けてくださいます。死に向かう絶望に覆われた民の只中で、生ける神が共におられること、神さまは悪しき者の死より、預言者を通して、悪の道から立ち返ることを求められます。民の認識や自覚よりも遥かに深みまで、隅々まで、民の罪を見つめ、忍耐してこられた神さまの願いは何よりも、民が神さまのもとに立ち帰り、神さまのもとで生きてゆくことであるのです。

 

神さまは、あらゆる民に神さまの祝福を伝える源とするために、アブラハムから増え広がる民をご自分の民とされました。神の民は、人間たちの中で神さまの初子のような存在です。その初子を、出エジプトにおいて悪の力から犠牲の小羊の血によって贖ってくださり、本来の命を回復してくださった神さまは、ご自分の真の子、み子イエスの血によって、私たちを罪と死の力から贖ってくださり、神の子らとし、死によって断ち切られない命に生きる者としてくださいます。主イエスは、使徒たちと、使徒たちから増え広がってゆく神の民教会に、ご自身が打たれ、血を流されることで、あなたがたは助けられるのだと告げることができるこの日を切望しつつ、ここまで歩んでこられました。罪が夜の闇のように人々を覆い尽くすこの晩に、悪しき力に対する勝利宣言をしてくださいました。み子イエスが、死に至るまで苦しみの道を歩み通され、神さまがみ子を死者の中からよみがえらせてくださったので、私たちは罪人であるにもかかわらず、主イエスの命の値によって新しい契約の中へと招き入れられています。「私の記念として行いなさい」と主イエスが命じられた言葉に従い、聖餐式においてパンとブドウ液に与かることによって、神さまが生きておられ、み子が共におられ、み子の命の代償によって私たちは生きていることを確かにされます。聖餐を祝う度に、最後の晩餐の主イエスの為さったことを思い、主イエスの言葉を内に深く刻みます。主が私たちに命を与えるために、この食卓を備えてくださったことを新たに心に刻みます。礼拝の席に着いているのは、私たちの意思や頑張りや義務感や責任感が実現させているかのように、時に思えてしまう私たちです。日曜日に教会の礼拝に集うことが当たり前ではない社会で、時間もエネルギーも体力も限られている私たちが礼拝を守ることが容易いことではないのは、事実です。しかし全ての源に、旧新約聖書を通して示されてきた神さまのみ心と、救いの御業があることが、私たちの喜びです。十字架の前の晩、最後の晩餐に弟子たちを招いてくださった主イエスが、今も生きておられ、私たちを今日も聖餐の食卓を囲む礼拝へと招き、救いの御業を推し進めておられる、この真理を私たちの喜びとして、レントの残りの日々も、主の後に従う歩みを重ねてゆきたいと願います。