2026.3.15.
ミカ6:1-8、Ⅰテサロニケ5:16-18 298
「神の恵みの前で」浅原一泰
落ち込んで顔も上げられなくなっている友がいるとする。憂鬱な思いに押し潰されそうになっている友がいるとする。そのような友を前にしたら皆は何を思うだろう。何をしようとするだろう。何ができると思うだろう。近年になってやっと理解されてきたことであるが、そのような友に「頑張れ」と言う言葉ほど残酷なものはない。「元気を出せ」と言う言葉ほど無責任なものはない。その人は、それが出来ないから苦しんでいる。ただ、大分少なくなって来たかもしれないが、残念ながら未だに、そのような人のことを「情けない」とか「人間が弱い」とか親の教育に問題があるんだとか。そのように具合に切り捨てる心無い声がある。しかしながら、そのように心苦しんでいる人がこれから益々増えこそすれ、決して減っていかないことは、それ以上に我々が認め、知っておかなければならない現実であろう。
ところで、キリスト者にとっての弱さとは何だろう。直ぐに結果が出るものや眼に見える存在を頼ってしまう信仰の弱さのことだろうか。そして苦しさとは、罪から抜け出してキリストに従いたいのに従えない、むしろ益々罪に跪いてしまう苦しさのことだろうか。しかし私は思う。自分の本当の弱さに気づいているからこそ、そのためにもがき苦しんでいるからこそ、その人は教会の礼拝に出てこれなくなってしまっている。そういうこともあるのではないだろうか。言葉が見つからずに祈ることも出来ないわが身の貧しさを思う余りに、神を礼拝する資格など自分にはないと、そこまで思い詰めているからこそ教会へと足を向けにくくなってしまっている。本当にそうなのではないだろうか。そうであるとしたら、そのように苦しんでいる方々の姿が本当にキリスト者の弱さだと言えるのだろうか。もし我々が、そのような兄弟姉妹の深い悩み苦しみに気づきもせず、共に苦しむこともなく、自分にも弱さ貧しさがあることに目を向けようともしないで、ただこれがあるから、あれがあるから、この役目を果たさねばならないから、と習慣のように、或いは惰性で礼拝を守っているだけだとしたら、本当はそういう我々こそが信仰の弱い者たちなのかもしれない。
人間は決して罪に勝てない。例外なく誰もがそうである。先日、久しぶりに倉田百三の小説「出家とその弟子」を読んでいたが、その主人公の浄土真宗の開祖親鸞も、その息子の善鸞は素行の悪さ故に破門されてしまうのだがその善鸞も、己自身の罪深さと弱さを深く自覚していた。自覚しているからこそ一方は御仏に委ねれば救ってくださると信じて訴え、もう一方の息子はこんな悪にまみれた自分が御仏にすがるなど赦されるわけがない、と己の潔癖さ故に委ねられないまま、親子は決裂して親鸞は死の眠りに就いて小説は終わる。
「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。キリスト教史上最大の伝道者であるあのパウロでさえも手紙の中でそうしたためている。更にもう一人、今から1600年ほど前に必死に神を求めた人物の呻きをご紹介したい。
「私の現世の生活は全てが動揺しており、心は古い酵母(糖を分解して発酵させる働き)からきよめられねばならなかった。救い主そのものである道には心惹かれながら、その道の狭さを通っていく気にはなれなかった。(中略)。私はもうこの世であくせくするのが嫌になっていた。それは非常に大きな重荷であり、名誉と金銭の欲望に駆られてあのように重い屈従の生活をするだけの熱情が、以前のように燃え上がらなくなっていた。それらのものは、(神である)あなたの美しさと、愛するあなたの家(教会)の美しさに比べるとき、もう自分を喜ばせなくなった」。
これはアウグスティヌスと言う、ローマ・カトリック教会の基礎を築いた人物の自伝『告白』の中で、キリスト教の信仰に入る前、つまり回心をする前の場面が書かれている言葉である。このように呟かざるを得なかった時の彼は直ぐに神を、そしてキリストを信じることができただろうか。直ぐに回心できただろうか。そうではなかった。何故なら彼の言葉はその直後に次のように続いていくからである。
「私は自分を責めて、あらん限りのことを言った。自分の魂があなたの後についていこうと努めている自分に従うようにと、あらん限りの裁きの鞭で魂を打った。しかし私の魂は抵抗し、拒否し続けた」。
フラ・アンジェリコ派の作と言われる絵の中に、回心する直前のアウグスティヌスの姿を描いた一枚がある。その絵には、庭の草木の中に蹲り、涙を掌で抑えているアウグスティヌスを後方でじっと見守っている人物の姿が描かれている。苦しみ悶えて庭に蹲る友を、傍らでそっと見守っていたこの人物の名はアリピウスと言った。
「主よ、あなたはいつまでなのですか。終わりの日まで怒りたもうのか。どうか昔犯した我らの不義を思い出さないで下さい」。
苦しみながらそのように祈っていたアウグスティヌスの耳に「取れ、読め」と言う子供の歌声が聞こえて来る。すると彼は振り向いてアリピウスの足元にあった聖書を取り上げる。すると次の言葉が真っ先に目に飛び込んできたと言う。
「馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て、主イエス・キリストを着なさい。欲望を満足させようとして、肉に心を向けてはなりません」(ローマ13:13‐14)。
この聖書の言葉に心を射抜かれたように彼は劇的に回心する。その間、アリピウスは何を思ったであろう。何をなそうとしたのであろう。神に背き続けて来た友が神に捕えられ、キリストを受け入れる様、御言葉によって生まれ変わるその瞬間をアリピウスは片時も離れず、終始見守っていた。しかしそれはアリピウス自身の思いからではなかった。アウグスティヌスに対する友情がそうさせたわけでもなかった。しばらくして、その時のことをアリピウスはこのように振り返っている。
「信仰の弱い人を受け入れなさい」(ローマ14:1)。
この聖書の言葉に自分は従ったのであると。御言葉がそうさせたのだと。つまりアウグスティヌスにも、友アリピウスにも、自分や他人の意志であるとか人間の思いではなく神の言葉がそこに働いたからこそ信じる者が、キリストに従う命が生まれたのであったのだと。
今日は初めに旧約からミカ6章を読んでいただいた。その8節にはこう書かれていた。
「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」
そして新約からはⅠテサロニケ5章を読んでいただいた。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むこと。喜べ。祈れ。感謝せよ。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること。
主なる神が、あなたがたに何を求め、何を望んでおられるか。両者の共通点はそこであろう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」
余りにも有名な御言葉であり、多くのキリスト教学校の標語にも使われて来た。有名であるが故に、この言葉が、悲しんでいる友、苦しんでいる友に対して良かれと思って、しかし無神経に投げかけられることがある。喜びとは何か、祈りとは何かを知らない、信仰とは何かも分からない未信者に、この言葉が勧められることがある。神を信じ従う為にはどうすれば良いか、と問うて来る若者に向けて、自らの信仰に悩み苦しむ兄弟姉妹に向けて、「これこそ神が求めていることだ」と言わんばかりに、それ以外の何の説明もしないで、この言葉が杓子定規に差し出されることがある。感謝がないと自分が感じる相手に向って、反省を促すようにとこの句が手渡されることがある。しかし私は思う。この聖書の言葉が人間の思いや意志の働きによって伝えられるのなら、それはとんでもない間違いであり、不幸な事態を引き起こすだろう。喜んでいなさい、と言うのは、頑張れとか元気を出せとか勇気を持て、と言うことでは絶対にない。絶えず祈りなさい、と言うのは、祈りを忘れてはならないと言う戒め・教訓ではない。感謝しなさい、と言うのは、全ての人・全ての事に感謝しなさい、と言う苦言・提言では全くない。何故ならこれは、神の願い、神が望んでおられることだからである。神がその人に、具体的には信じる者一人一人に、そして教会に求めておられることだからである。苦しみの日々であろうと幸いなる日々であろうと、信じる者全てに「喜び、祈り、感謝せよ」と。常に変わらず、絶えることなく人間ではなく神がキリスト・イエスにおいて望んでおられること、切に求めておられることだからである。
今はレントの季節であるからイエスが逮捕され、裁きの場へと連れて行かれるや否や、その危険が我が身に及ぶことを恐れて弟子達が皆、イエスを見捨てて逃げ去ったことは皆さんご存じだろう。しかし、イエスに背を向け逃げ去る弟子たちを追いかけるかのように、彼らの前に復活のイエスが顕れ、あなたがたの為に十字架で死んだあのイエスこそが私である、と語りかけた。その時、弟子たちはどうしたであろうか。彼らにおいて何が起こっただろうか。彼らは皆、主を見て「喜んだ」、とヨハネ福音書ははっきり伝えている。この方を見捨てた自分を追い求めて下さり、あなたのその弱さを私は背負って十字架についた、それはあなたを責めるためではなく赦す為であるのだとイエスは彼ら一人一人に語りかけ、復活された姿を、神の国の栄光を示して下さった。それだけではない。死んだら終わる肉の命から、イエスと同じ復活の命へと生まれ変わらせる為に、信じる者は死んでも生きることを示す為に、この方は一人一人を既に招いていた。終わりの日に、信じる者がこの方と似た者へ、つまり肉の体ではなく栄光の体へ、朽ち果てる命ではなく朽ちることのない命へと変えられるように、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」、とこの方は弟子達に既に命じておられた。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」のだと語りかけて、彼らに終わりの日の勝利を、永遠の命を約束していたのである。それこそが神がキリスト・イエスにおいて弟子たちに、信じる者に、切に求めておられるものであったからである。
弟子達が喜んだのは自分から喜びたくなったからではない。復活の主が顕れたからこそ彼らは皆、喜ばされたのである。終わりの日には、信じる者はこの方と同じ姿に変えられる。その日には、神と顔と顔とを合わせてひれ伏し拝む。その日を、神の勝利を待ち望む。その日を到来させキリストの再臨を待ち望む。復活のイエスに出会い、このイエスによって希望を抱かされ、弟子達は喜ばされた。神がキリストによって与えた希望が一人一人を喜ばせたのであった。その喜びを、「いつも喜んでいなさい」と。この御言葉はそのように求めているのではないだろうか。
ローマ12:12でも「希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈りなさい」とパウロは書いている。この呼びかけの順序をうやむやにするようなことがあってはならないと思う。神がキリストによって与える望みが信じる者を喜ばせ、その喜びが苦難を耐え忍ばせる。その喜びが彼をたゆまず祈らせる。そう御言葉が示しているからである。この手紙も同じである。キリストを死から甦らせた神が終わりの日に神の国を完成させ、信じる者を迎え入れて下さる。キリスト・イエスを通してこの希望を与えて神は、我らを喜ばせて下さっているのである。このテサロニケの信徒への手紙5:23には、「どうか、平和の神ご自身が、私たちの主イエス・キリストが来られる時、あなたがたを聖なる者、非の打ちどころのない者としてくださいますように」と書かれている。イエスは使徒パウロにそう告げさせて、愛する群れであるテサロニケの教会にそう祈らせていたのではなかっただろうか。だからこそ、その喜びを「いつも喜んでいなさい」と。それは、キリスト・イエスを通してあなたがたにおいて実現して下さる神の恵みの約束を常に受け入れよ、と言うことではなかっただろうか。神がキリストを通して示している希望を常に想い起こしなさい、と言うことではなかっただろうか。
「いつも喜んでいなさい」とは今現在を喜ぶことではない。終末の喜びのことである。終わりの日の神の勝利をイエスが約束しているからこその、その約束を待ち望めるからこその喜びである。イエスを信じるからこそ与えられる恵みである。自力で喜ぶのではない。神がキリストを通してあなたを喜ばせる喜びである。種が蒔かれた土に陽射しと雨水とが注がれて初めて芽を出すように、福音の種が蒔かれ、希望の光を神が照らすからこそ生まれる喜びである。だからこそパウロは「喜び、祈り、感謝せよ」と告げずにはいられなかった。
この希望、この恵みに比べれば、我々が世で受ける苦しみも、死の苦しみさえも朽ち果てるものに過ぎない。恵みが信じる者を常に喜ばせ、その喜びが彼を絶えず祈らせるのだと。この喜びが信じる者の眼を開かせ、神がその人に備えて下さろうとしている全てのことを、感謝をもって受け止めさせるのだと。
「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことに感謝しなさい」。
人の思いではなく、背く者らに御子を与えたもう神の恵みがこの順序に篭められている。信じる者に対する苦言でも説教でもなく神の恵みがこの順序に明確に示されている。
初めの問いに戻りたい。悩み苦しむ友の前で、あなたは何を思うだろうか。我々が何を思おうと神は、キリスト・イエスにおいてその友に望みを示し、喜ばせようとしている。キリストによってその友を喜ばせ、祈れない友を祈りへ、神の恵みを受け止め感謝する者へと友の目を開こうとしておられる。そうして苦しむ者にも、見守る者にも、そこに人間の思いではなく神の言葉がキリストによって成就することを示されるのである。改めてこの朝、このキリストへと我らも眼が開かれたい。この方こそ、我らを強め、終わりの日に神の御前で、我らを聖なる、非のうちどころのない者として下さる我らの主であることに目が開かれて、ともに喜び、感謝する者でありたい。そうしてキリストの父なる神をほめたたえる心からなる礼拝をささげたい。
