「主の言葉に出会った人々」ヨナ3:1~10、ルカ11:29~32
2026年3月8日(左近深恵子、レントⅢ)
神さまのみ前で自分の信仰が問われることから逃げたヨナは、神さま無き世界で生きてゆこうとしました。神さまが大風によってそれを阻まれると、ヨナは神さま無き死を死んで行こうとします。海の中、下へ下へと沈んでいったヨナは、神さまが遣わされた大きな魚に呑み込まれたことで、救われました。死の力の只中で救われ続ける三日三晩を過ごしたヨナは、神さまは、死をも支配される方であることを知ったでしょう。神さまとの結びつきから離れたまま死に覆われてゆく危機の中でこそ、神さまの恵みを知り、神さまに感謝の祈りを捧げました。神さまはヨナを大地に戻されます。陰府から神さまによって引き上げられた命を生き始めたヨナに、1章の初めにヨナに告げられたのと同じ言葉で語り掛けます。「さあ、立って、あの大いなる都ニネベに行き、私があなたに語る宣告を告げよ」と。以前は、異邦の民であり、自分たち神の民を苦しめてきた大国アッシリアの都ニネベの人々にまで、神さまがご自分の言葉を与えようとしておられること、そのために自分を遣わされることに納得がゆきませんでした。神さまが、神の民である自分たちと同じようにニネベの人々にも神さまの義に応えることを願っておられること、自分たちにそうされてきたようにニネベの人々にも預言者を遣わしてまで働きかけられることに、従うことができず、無言のうちに神さまのご支配の外へと逃亡を図りました。その救われるはずのない自分をも、死の力の只中で守り続けてくださる神さまの慈しみに触れ、神さまのお力によって神さまとの結びつきの中で、神さまとの交わりにおいて生きてゆくことへと、導かれたヨナです。再び告げられた言葉に、今度はすぐさま従います。立ち上がり、ニネベに行き、「あと40日で、ニネベは滅びる」と、主から託された言葉を告げます。原語で見るとたった5文字のメッセージです。他にも語ったのかどうか、どのようなことを他に語ったのかは分かりませんが、ヨナは、神さまがニネベの何に対して滅びという裁きをくだされるのか、ニネベの悪について説くことに重きをおいた訳ではありません。悔い改めて、神さまの義に応えて生きる者となりなさいと、強く勧めた訳でもありません。ヨナのメッセージの核は、ニネベの人々の悪に神さまが滅びと言う裁きを下されるとの、短い宣告であったのです。
ニネベの街は非常に大きかったことを、ヨナ書は繰り返し述べます。この街を一回りするには3日かかるともあります。際立って大きな都であったニネベには、大勢の人が暮らしていました。その町をヨナは丸一日歩き回って、神さまの言葉を伝えました。単純な計算だけで言うなら、街の1/3を回った、街の1/3の範囲の人々に伝えたということになります。
それでもニネベの人々の中に、神さまの言葉は大きな変化を引き起こしました。ヨナのメッセージについては、たった5文字からなる1文のみで伝えるヨナ書が、その言葉を聞いた人々の中に起きてゆく動きについては非常に詳しく述べています。人々は、ヨナを自分たちに遣わした方が生ける神であり、裁きを真に下す方であることを信じ、悔い改めへと向かいました。それまでイスラエルの王や民に神さまが多くの預言者たちを遣わし、幾度も悔い改めの呼びかけを与えてきても、王や民は聞き流し、真摯に受け止めようとしなかったことを考えると、この異邦の民の姿は驚きであります。しかもニネベは、強大なアッシリア帝国の都です。弱く小さな勢力に過ぎない北イスラエル王国から来た一人の人間の言葉に、耳を傾けないということは、十分あり得たことです。海に沈み、魚に呑み込まれた後に陸に戻ってきたヨナの姿が、人々が進んで耳を傾けたくなるようなものではなかったかもしれません。それなのに、ニネベの民はヨナの言葉に対して、真剣に向き合いました。耳に心地よいものではない裁きの宣告に耳を傾け、悔い改めへと向かいました。人々は自分たちが悔い改めるだけでなく、他の人にも悔い改めの断食をするようにと、促しました。瞬く間に他の人々の間にも、大人にもこどもにも、神さまの言葉と、断食と粗布をまとうことで悔い改めを示そうとする動きはもたらされました。うねりは王にまで届きます。すると王は、王としての権威の象徴である王座から立ち上がり、王だけが纏うことのできる衣を脱ぎ、人々と同じように粗布を纏って、灰の中に座ります。王は、自分も罪深い者の一人であることをこうして告白します。更に、王だからこそできることに、王だからこそ持つ力を注ぎます。都全体に、命令を出したのです。断食し、粗布を纏い、神さまに叫び、暴力的な所業から離れよと命じます。その対象を、人々が所有する家畜にまで及ばせます。個々の者が悔い改めるだけでなく、家族全体で、民全体で、神さまの義に立ち帰り、悪の行いを一掃することを求めます。自分の国の誰一人、神さまに立ち帰ることから漏れてはならないとの思いの強さが伝わってきます。悔い改めの動きは、神さまの言葉を聞いた人からまだ聞いていない人へ、民から王へ、王から都の隅々へと、浸透して行きます。神さまのみ前に跪くことにおいて都は一つとなり、悔い改めは厚みを増して行きます。このニネベの民と王の悔い改めを伝えることに、ヨナ書3章は力を注いでいます。
王が都全体に命令を出したのは、断食や、粗布をまとったり、灰の中に座ると言った、悔い改めを表す行いで、救いを引き寄せられると考えのことではありません。人々を動かし、国全体が悔い改めていることをアピールすることで、神の判断を支配できると考えたのではありません。自分が悪に蝕まれていることを深く認識したからであり、王として民も悪へと巻き込んできたことに気づいたからであり、民のことをひたすら案じたから、民のことを諦めなかったから、王は悔い改める人々の先頭で、神さまに跪いたのではないでしょうか。神さまは、滅ぼすと決断した自分たちの祈りであっても耳を傾けてくださり、悔い改めるこころに目を向けてくださることに信頼したからでありましょう。ヨナは40日後に滅びることをニネベに告げました。40日という具体的な日数を示すことで、神さまが裁きを真に決意なさったことが伝わってきます。しかしニネベの王と民は40日という日数に、裁きだけでなく、神さまの憐れみを見出したのではないでしょうか。自分たちは今日裁かれ、滅ぼされて当然の者であるのに、40日という猶予を与えてくださったと。滅ぼされる意味も分からないまま滅びるがままにされるのではなく、滅びの宣告を告げるためにヨナを遣わされ、自分たちにみ言葉を届けてくださった神さまのみ業に触れた彼らは、自分たちが悪から神さまの許へと立ち返ることを神さまが願い続けておられたこと、神さまのみ心に背を向けた自分たちの悪に満ちた日々を神さまが嘆き悲しんでこられたことへと、思い至ったのではないでしょうか。生きて働きかけてくださる神さまのみ前で自分の罪深さを認めることは、神さまの恵みの深さを受けとめることへとつながり、悪に浸りきっていたこころは目覚め、神さまに祈らずにはいられない者たちとなったのです。
ニネベの悔い改めは、聖書に聞く者にとって大きな驚きでありました。強国アッシリアの大きな都だということだけでなく、ニネベがその悪行の数々から、悪名高い街であったからであります。ニネベを都とするアッシリアは、次々と周囲の小さな国を支配下に置き、属国の反乱には残虐な報復を行いました。北王国イスラエルを含むパレスティナにも何度も遠征し、侵略し、その度に北王国内に恐怖を引き起こしました。ナホム書はニネベを「よこしまな者」と呼び(2:1)、「その全てが欺きで、略奪したものに満ち/餌食になる者が後を絶たない」と、流血によって成り立ってきた国であることを述べます。ニネベは、バビロニア帝国とメディアの同盟軍に攻め込まれ、2カ月の籠城の後に陥落します。その報せはオリエントの各地を駆け巡り、解放の吉報として人々に歓迎されます。その様子をナホム書は、ニネベ陥落の噂を聞いた者は「誰もが拍手喝采する」と、ニネベの「絶え間ない悪行から逃れた者は、誰一人としていないからだ」と述べています(3:19)。ヨナ書が記されたのは、バビロニア帝国による捕囚の後のことだと考えられています。ヨナが実際に活動したとされる時代よりも後の時代です。ナホム書などを通してニネベの残虐な所業について多くを聞いてきた人々に、ヨナ書は、そのようなニネベでさえも、神さまの言葉に耳を傾けるなら、悔い改めへの道が開かれることを語ります。ニネベの王と民の差し出した悔い改めが、裁きが取りやめられるのにふさわしい量と質であったということではありません。神さまが無償で、ただ恵みとして、赦しを与えられました。どのような悪の中に沈み込んでいた者であっても、神さまの言葉に耳を傾け、神さまに立ち返り、神さまの赦しの内に生きる道からいつまでも退けられてはいないことをヨナ書は示します。神さまの赦しと恵みは、異邦人と神の民の隔てを越え、敵意を越えて、注がれることを語ります。神さまの義に応えて人々が立ち帰ることを求める神さまの熱情は、私たちの判断基準や思いを越えて届けられ、神さまの言葉に真摯に耳を傾け、神さまに従う道を追い求めるところに、生ける神のお働きは現れます。ヨナ書の2章では、嵐に見舞われた船の異邦の人々が、神さまを畏れ、神さまに祈る者となったことに驚かされますが、ここ3章では、悪名高いニネベの人々が、ヨナが伝える僅かな宣告の言葉によって、自分たちの悪が裁きに値することを受けとめ、深く悔い改め、神さまの義にお応えする道を心から求めたことに、驚かされるのです。
ヨナの働きを通してニネベの民の間に起きた悔い改めは、多くの人々の心に強く残り続けました。主イエスも「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」ことを人々に思い起こさせて、「人の子も今の時代に対してしるしとなる」と、「ここにヨナにまさるものがある」と教えられました。しかし、主イエスの時代の人々は、主イエスに真のしるしを見ようとしません。主イエスがしるしであることを、ルカによる福音書はクリスマスの出来事から述べてきました。主の天使は羊飼いたちに、「今日ダビデの街に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」と告げたのです(2:11~12)。幼子主イエスを抱いて神殿に来たヨセフとマリアを祝福したシメオンは、マリアに「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています」と告げました(2:34)。しかし神の民であることを自負し、救い主メシアを待ち望んでいるはずの人々は、主イエスご自身にも、主イエスが語られる言葉や業にもしるしを見出ださず、既に天から救いのしるしが与えられているのに、人々の耳目を驚かすような、信仰の有無に関わらず人の心を圧倒できるような、主に従うことが求められないような奇跡や大きな業を、しるしとして求めています。それは、心の底から主に従うことができず、自分が自分の主であり続けようとする人の思いの表れです。そのような人々を主は「邪悪」と呼ばれています。新共同訳では「よこしま」と訳されていました。ナホム書で「よこしまな者」と呼ばれたニネベの人々が、神さまによってしるしとされたヨナの働きによって、悔い改めたことを思うと、ご自分の民を「よこしま」「邪悪」と呼ばなければならない主イエスの嘆き苦しみはどれほどであったかと思います。主イエスは、やはり異邦人であるシェバの女王も、ソロモンを通して語られる神さまの言葉を聞きに、イスラエルの民からすれば地の果てのような所からはるばるやってきたことを思い起こさせます。今既にイエス・キリストにおいて真のしるしは世に与えられています。ヨナとソロモンが示したものは、主イエスの十字架の死に至るご生涯において決定的にもたらされました。キリストの言葉こそ神さまの言葉そのものであり、キリストのお働きこそ、神さまのみ業であります。キリストの十字架と死こそ、私たち罪人を救うための神さまのご意思であります。悔い改め、み言葉に耳を傾け、キリストの後に従うことこそ、神さまのみ心にお応えして歩む私たちの道であります。それなのに、もっと自分たちに都合のよい、神さまのみ前に自身が問われること無く手に入れられるしるしを欲しがる人々は、裁きの時に、ニネベの人々にその罪を明らかにされると主は言われます。
神さまはニネベにヨナを遣わされました。神さまに従うことをこれまで貫いてきたと、誰もがその信仰の歩みの揺るぎなさを認めるような人物ではなく、ご自分の前から無言で逃げ出し、死の中にまで逃げ込もうとするヨナを追い続け、風を送り、魚を送り、そうしてやっと預言者としての働きのスタート地点に立つまで導かれて、ニネベに遣わされました。このヨナを、神さまのしるしとされました。神さまの選びは人の思いを越えるものであることを深く思わされます。そして神さまの言葉という種が蒔かれた地がどのような実を結ぶのかも、人の思いをまったく超えていることを思わされます。
私たちは神さまの言葉を伝え、神さまの道を示すしるしとなるには相応しくない者であります。他者の目からも私たちはそう見做されるかもしれません。そのような私たちをも、神さまはあらゆる民に神さまの祝福をもたらす源とするために、ご自分の民に加えてくださいました。そのような私たちをも神さまはキリストを通してご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。主イエスはご自分のみ業を引き継いで為すようにと、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と弟子たちに命じられ「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げてくださいました。この言葉が、私たちに罪の赦しを得させるために、十字架で死んでくださり、陰府の死者たちの中に降られ、3日目によみがえられた主からご自分の弟子たちに、言い換えるならば主の体なる教会に告げられたものであることを思う時、この主の言葉に改めて向き合う心を与えられます。キリストが私たちに命じておられるのに、私たちがそれは不可能だと、自分に向けられたのでは無いと、成果が出るはずが無い、和解につながるはずがないと決めつけて、諦めて、主の言葉に背を向けてしまうなら、それは逆方向の船に乗り込むような、船底に潜むような道を取るものであることに気付かされます。キリストの苦しみと死によって赦され、キリストの腕や足とされた教会は、キリストの後に従い、キリストから託された務めに歩むことこそ幸いであるのです。
