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命を引き上げてくださった

「命を引き上げてくださった」ヨナ2111、ロマ5611

202631日(左近深恵子、レントⅡ)

 

 ヨナ書は、ヨナと言う名の預言者についての物語です。このところ聞いてきたエリヤやエリシャも預言者ですが、それらとはだいぶ異なった語り方をしています。ヨナがどのような人物で、ヨナが生きていたのはどの王が統治するいつの時代であったのか、そういったことは記されていません。次々と奇想天外なことが起こりますが、時代や状況が細かに特定されない分、親しみや近しさも覚える不思議な物語です。

ヨナは神さまから、「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ」と命じられます。ニネベは、アッシリアという大国の都です。その強大な力によって神の民イスラエルも苦しめてられてきました。そのニネベの人々の悪が神さまのみ前に上ってきたと、だからニネベに乗り込んで、人々に向かって呼び掛けることをヨナに命じられたのです。しかしヨナは、ニネベと反対方向のタルシシュに向かう船に乗り込みます。ヨナには神さまの言葉に従いたくない理由があることが後に明らかになります。ヨナは北イスラエル王国の町の出身であることが、列王記から分かります。ヨナは自分のことを「ヘブライ人」と呼んでいます。ヨナは、神の民であることを誇りにしています。ただお一人の神さまを崇める自分たち神の民とは異なり、ニネベの人々は異教の神々を崇めてきました。世の力を手中にして、近隣の国々に攻め込み、自分たち神の民をも苦しめ、したい放題に生きてきたニネベの人々の悪に、神さまが裁きを下されるだけなら、ヨナは不満に思わなかったのではないでしょうか。ただ裁くのではなく、神さまが裁きを下さなければならないニネベの悪を、ヨナを通して伝えようとされています。悪を明らかにされるのは、悪から立ち返り、悔い改めることを願っておられるからでありましょう。神さまは預言者をご自分の民に遣わされるだけでなく、神の民にとって敵である人々にまで遣わし、ご自分の言葉を与えようとしておられます。ニネベの人々も、ご自分の言葉を受け止めるにふさわしい民だとされています。ヨナにはそれは公正なこととは思えないのです。ヨナの思う正しさを越えたことを、神さまはヨナに求めておられるのです。

それならばヨナは神さまに、自分の納得のゆかない思いを訴えたでしょうか。異教徒であり敵であるニネベの人々のことまで心にかけて、自分を遣わそうとされる神さまのみ心を、神さまに問うたでしょうか。そのようなことを一切せずに、ヨナは無言のまま急ぎ港に向かい、船に乗り込みます。逃げ出すヨナについて、聖書は二度も「主のみ顔を避け」と述べています。ヨナの逃亡は、自分が求めていないことを自分に求めておられる主と向き合うことからの逃亡でありました。ヨナは苦労が多そうだから、危険そうだからと、逃げたのではありません。神さまからの言葉が、自分が思っている神さまの救い、自分が求めている神さまの公平さと同じではないからです。神さまの救いとはどのようなものであるのか、神さまの恵みは誰に注がれるのか、自分の思いと神さまの言葉が同じでないということは、神さまをどのような方として信じているのか、ヨナの信仰が問われているということであります。信仰が問われるということは、自分自身が、自分の在り方、生き方が問われるということです。見せかけの自分ではなく、取り繕うこともごまかすこともできない自分自身が問われるのは、厳しいことです。その厳しさからヨナは逃げ出し、神さまのみ前に自分を置かずに済む所へと、神さまから与えられてきた結びつきの外へと、逃亡を図ったのでしょう。神さま抜きの世界、自分の思う正しさを神さまの代わりに据えることのできる世界へと、逃亡を図ったのでしょう。

港でニネベと反対方向に行く船に乗り込むと、ヨナは船底に降りて横たわります。船底にまで降れば神さまから見えないとでも思ったのでしょうか。神さまのお力が届かない所に逃げられたと安心したのか、神さま抜きとヨナが思った世界で眠ってしまいます。

しかし神さまはヨナを諦めておられません。神さま抜きに生きて行こうとしているヨナの、その人生に働きかけられることを止められません。海に向かって大風を起こされます。ヨナが乗った船は遭難の危機に陥ります。ヨナは、この嵐に神さまのお力が共にあることを受け止めます。信仰を問われて藻掻く戦いを放棄して神さまに背を向けた自分に対する、神さまからの罰だと受け止めます。神さまは生きておられ、ヨナに働きかけるためには、ヨナが突き進もうとする道に立ちはだかることを知ります。ヨナはまた、神さまに対する自分の背きが、他の人々まで危機の中に巻き込んでいることに気づかされます。船底に潜んでいられなくなり、この嵐は主のみ顔を避けて逃亡した自分に向けられていると人々に明かし、自分を海に投げ込めば、海は静まるだろうと言います。それでも人々は何とかヨナを投げ込まずに助かる道を求めて力を尽くします。しかし神さまのお力である風の中で船をコントロールすることはできず、とうとうヨナの言葉通りヨナを海に投げ込みます。すると海は静まり、船の人々は助かったのです。

逆巻く波の中に投じられたヨナは、鎮まりゆく海の中、下へ下へと沈んでゆきます。それは船の他の人々の命を救うための犠牲の死とも言えるでしょう。しかし本当にそう言い切れるのでしょうか。ヨナは船が嵐に巻き込まれた時、人々に対しては自分が神さまに背を向けて来たことを証ししました。しかし神さまに向かっては、何も言っていません。異邦の民であり、異教の神々を崇めてきた船の人々は、ヨナに対して大風を起こして働きかけられる神を畏れ、崇め、祈ります。しかしヨナは、神さまのみ前で罪を告白することも、船の人々の命を助けてくださいと祈ることもありません。神さまに向き合うことが無いまま、自分の死によって神さまの裁きに終わりをもたらせると、自分だけで判断しています。自分の死によって、主が人々を助けてくださることに信頼していますが、それも自分だけで判断しています。ヨナはこの期に及んでなおも、神さまのみ顔を避け、神さまとの結びつきの外に自分を置き、神さま無き死を死んでゆこうとしています。それは、他の人々のための“犠牲の死”と言えるのでしょうか。

主のみ前で自分自身が問われることを避け続け、自分の人生だけでなく死までもすべて自分の思いと判断の下に置こうとするヨナの道に、神さまは再び立ちはだかります。死の力を表すような大水の底へと沈んでゆくヨナを、大きな魚に命じて呑み込ませます。神さまのお力で包み込んで、死から救ってくださいます。ヨナ書では、風や魚、この先ではとうごまの木や虫が、神さまに命じられると従います。それがヨナ書の語り口です。魚がなぜ神さまの言葉に従うのか、魚のお腹の中でどうやって人が生きるのか、などと問うよりも、そこでヨナ書は何を伝えようとしているのか問うことの方が大切でありましょう。風や魚は、神さまに従い、神さまのご意思をヨナに伝える大きな役割を果たしています。だからこそ、神さまと向き合うことを避け続けるヨナの頑なさが、一層浮き彫りになります。このヨナの頑なさが、非常にリアルに思えてしまう私たちではないでしょうか。

神さまは大きな魚でヨナを救われますが、直ぐにヨナを地上に戻すことはされません。三日三晩、ヨナは魚のお腹の中にいます。言わば死の力に取り囲まれているような水中で、魚のお腹の中という闇にヨナは留め置かれます。天地創造の物語において、原初の混沌とした状態は、闇が深淵の面を覆うものでした。そこに神さまが光をもたらされ、光と闇を分けられました。全てを埋め尽くすようにして逆巻いていた大水を上と下に分けられ、その間に被造物が生きて行ける空間をお造りになりました。下の水を一か所に留めて、乾いた所を大地と呼ばれ、水の集まったところを海と呼ばれました。そうやって、人も含めた被造物の住まいとなる大地を整えてくださいました。魚の身だけが深淵と自分をかろうじて隔てている闇の中で、ヨナは三日三晩何を考えたのでしょうか。自分がその中に逃げ込もうとした死の力の中で、自分は自分を守ることができません。ただ神さまのお力によって救われ続けています。ニネベの人々を、神さまの言葉を伝えるために働きかけるには相応しくない者たちだと、真の主は神さまただお一人と知ることなくその悪が裁かれて滅びてゆくのは仕方がない者たちだと、そう思ってきたヨナも、ふさわしさを持つから救われているのではないことに気づかされたのではないでしょうか。神さまのみ前で自身が問われることから逃げ続けてきたこの自分を、救われるに値する相応しさの無い自分を、救い続けておられる神さまの寛容さに、目を開かれる思いだったのではないでしょうか。悪に対する神さまの裁きの厳しさを身をもって知ったからこそ、その裁きを越えて救いをもたらしてくださる神さまの赦しと憐れみを受け止め、感謝することへと、導かれたのではないでしょうか。

ヨナは祈り始めます。「苦難の中から」主に呼びかけ、「陰府の底から主に叫」びます。ヨナが苦しみを味わっているこのところは、陰府という死者の場所に等しいものであります。自分の思い、自分の判断を主としてきた末に、死の力の只中で自分の無力さを突き付けられています。その苦しみをヨナにもたらしているのは神さまであることを深く受け止めています。だから、自ら自分を海に投じるように求めたのですが、「あなたは私を海の中深くに投げ込まれた」と、「砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く」と言います。自ら逃げ出したのですが、「私はあなたの前から追い出された」と言います。この死の状況の中に神さまが共におられなければ、死は完全にヨナを覆い尽くしてしまいます。死の大水は既にヨナを取り囲み、喉にまで達しています。死の深淵はヨナの周りで逆巻き、水草はヨナの頭に絡みついて死に縛り付けようとします。当時、陰府の海の深みにまで達している山々があると考えられていました。その山々の基、地の底にまで自分は沈んだのだと、そこに閉じ込められたのだと、死の様を語ります。神さまから離れたまま死の力に呑み込まれ、人にとっての住まいである大地の扉は頭上で永久に閉ざされてしまう死の中にいます。神さまの言葉が届くことのない、神さまへの声も届くことのない、神さまから最も遠い死を死ぬ恐ろしさを、ヨナは知る者となっています。その陰府の底から神さまに心を全て注ぎ出す者となっています。神さまが共におられることに信頼しているから、祈ることができます。神さまを仰いで祈り、神さまに自分の奥底をさらけ出すことによって、神さまが与えてくださっている救いを受け止めることへとより導かれてゆきます。ヨナが自分で自分をそこから救い上げることができないところ、神さまが自分をそこから救ってくださるはずの無いところ、神さまの裁きによる「滅びの底から」、主が命を「引き揚げてくださった」と、「命が衰えようとする時/私は主を思い起こした」と、述べています。自分がその手を離すようにして、神さまとの結びつきの外へと逃げ出した、その結びつきの中へと神さまが、滅びの底から引き上げてくださったと、神さまの裁きによって衰えようとしていた命を再び回復してくださったと、感謝をしています。地上に戻って乾いた大地を踏みしめ、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込むことができて初めて、命を救われたと考えるならば、感謝する段階ではないでしょう。ヨナは、陰府の底でも神さまとのつながりが与えられていることを知りました。死の力の只中にあるヨナも、御手の内に置いておられることを三日三晩示してくださいました。だからヨナは闇の中でも神さまのみ業を讃美し、神さまの救いを感謝するのです。神さまに背を向け、言葉を発せず、自分が思う救いの世界の中で生きて、死んでゆこうとしていたヨナは、生ける神の言葉に耳を傾け、神さまに祈りを捧げる、神さまとの交わりの中にあることを喜ぶ者となっています。まだ深淵と闇の中にありながら、礼拝において臨在される神さまを崇め、神さまに対して誓いを果たしてゆくこの先を見る者となっています。ヨナは、自分が思う神さまの救いの正しさの中でではなく、神さまからの裁きのただ中でこそ、神さまの救いを知りました。信仰を問われる苦しみの中でこそ、生ける神の恵みを味わいました。

自分で自分を救うことができない、自分で誰かを救うこともできない、混沌とした深淵の闇に沈み込んでいるような私たちのために、キリストは真に命を捧げてくださいました。その死は隅から隅まで、ただ罪人を救うための犠牲の死でありました。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ロマ58)。神さまの愛は、私たちの思う公正さを越えた神さまの義しさによって示されました。人が狭い自分の視野のまま思いを貫こうとする道に神さまは愛によって立ちはだかり、ご自分に背を向け続ける者を追ってくださいました。罪人たちに救いをもたらすために、み子は十字架にお架かりになり、陰府に降られ、死者の中に三日間留まってくださいました。このみ子イエス・キリストの血によって、私たちは義としてくださると、私たちをご自分の許へと引き上げてくださると、父なる神は約束してくださいました。ヨナの祈りは、「救いは主にこそある」との言葉で結ばれています。「救いは主にこそある」、この真理に立ち切れず、私たちは自分や他の力に救いを求めて、主の元から離れ出てしまうことを繰り返します。この真理に立ち切れず、救い主のみ前に本当に自分を置き、跪くことを避けて、頑なになることを繰り返します。神であるみ子が人の罪から発せられる背きや無理解や嘲笑、裏切りや暴力を浴びながら、十字架の死に至るまで歩み通してくださって、その苦しみと死によってもたらしてくださった私たちの罪からの救いを、主のみ前で問われる時にこそ、私たちは主の恵みを知ることができるのです。

 

本日これから聖餐に与かります。聖餐において、聖霊なる神が、主イエス・キリストの十字架と復活による神さまの愛を私たちの心に豊かに注いでくださいます。神さまの愛を体全体をもって味わう聖餐の食卓に着きます。この神さまの愛を噛みしめつつ歩むレントの歩みでありたいと願います。