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隔てを越えて

「隔てを越えて」Ⅱ列王記5814、Ⅰコリント816

2026222日(左近深恵子)

 

北イスラエル王国の北東、現在のシリアの位置に、アラムという国がありました。現在はダマスカスと呼ばれているダマスコが都でした。北イスラエル王国とアラムは、幾度も戦いを交えてきました。より強い勢力が台頭してきた時には対抗して同盟を組んだこともありましたが、その脅威が遠のくと、戦いが再び始まりました。預言者エリヤの時代に権勢を誇っていた北王国の王アハブは、アラム人との戦いにおいて戦死したと列王記は伝えています。アラムの攻撃によって北王国に混乱が生じ、王アハブが死ぬと、それまでオムリ王朝が征服していたモアブという国もこの機に乗じて北王国に反旗を翻し、北王国による支配を退けました。今日の箇所の先を読み進めますと、6章には、アラムがイスラエル王国に攻め込み、一時は都サマリヤさえも包囲されてしまったことが記されています。預言者エリシャが北王国で活動していたのは、その時には北王国とアラムの間に戦闘は起きていませんが、北王国の弱体化が進んでいた時代でありました。

アラムから攻撃を受ける度に国内が混乱し、力を失っていく北王国にとって、アラムは国を揺さぶるいまいましい勢力でしかなかったかもしれません。ただ列王記の下51にはこうあります。「アラムの王の将軍ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主が彼によってアラムに勝利を与えられたからである」。北王国を揺さぶる動きには、神さまのお力が共にあることを伝えています。アハズを初めとしてこの頃の北王国の王朝は、周囲の民が行っている偶像崇拝が王朝に持ち込まれることを許容しました。アハズ王は、偶像崇拝のための祭壇まで築き、偶像崇拝を民の生活の中にまで導入しました。神の民の王は、神さまのご意思に仕えることではじめて、王としての務めを果たすことができるのに、王自ら神さまの目に悪とされる道を歩み、民にも神さまの道から踏み外させていました。唯お一人の主なる神のみを神とすべき神の民の在り方を、王が先頭に立って揺るがせていました。その王と民を揺さぶるアラムの力に、神さまが共におられたのだと列王記は伝えるのです。国が外から内から揺さぶられる危機にあって、イスラエルが立つべき土台の上に立ち直すことを願われたのかもしれません。主の預言者たちが伝える神さまの言葉に耳を傾け、神さまの許に立ち帰り、ただ神さまに拠り頼んで立つことへと。国と国の間の国境という隔ても、民と民の間の怒りや憎しみや無理解という隔ても越えて、神さまのお力は働かれます。

ナアマンは既定の病を患っていたとあります。それは重い皮膚病であったと思われます。戦いにおいては勝ち続ける将軍であっても、病を自分の力で打ち負かすことはできません。将軍であるナアマンは当然、アラムの国内で治せる者を探して、色々試みたことでしょう。しかし治せる者はいなかったのでしょう。

そのナアマンが、北王国の預言者エリシャによって癒される出来事を先ほど共にお聞きしました。なぜナアマンが敵対する国のエリシャに頼ることになったのか、それには1人の少女が関わっています。この少女は、かつてナアマンが軍を率いて北王国に攻め込んだ時に捕らえ、捕虜として連れ帰った、イスラエルの者でした。戦争捕虜は戦勝国の奴隷として売られるのが常であった時代に、ナアマンはこの少女を自分の妻に仕える奴隷として、自分の家に置きました。奴隷としてではあってもこの少女には見込みがあると、信頼がおけると思わなければ、そのような決断はしないのではないでしょうか。少女は病が癒されないナアマンのために、サマリアにいる預言者のところに行けば、その預言者に癒してもらえるでしょうと、女主人に薦めました。自分を拉致し、捕虜とし、家族や故郷から引きはがして奴隷にしたナアマンに恨み辛みだけしか抱いていなかったら、ナアマンの癒しなど願わなかったでしょう。辛い境遇に追い込んだ張本人であるナアマンの癒しを願う少女によって、この物語に聞く私たちも、ナアマンの癒しを願うことへと導かれます。

少女は、国の違いを越えて、敵対する関係を越えて、ナアマンが癒やされることを願いました。お立てになった預言者を通して働かれる神さまは、神の民イスラエルの者ではない者も癒やされることに、信頼していたからでありましょう。自分と家族を苦しめ悲しませた張本人にも、神さまが癒しのお力を注がれることへの少女の信頼に、驚きを覚えます。少女が神さまへの信頼によって、たった一人で越えた隔てを思うと、その隔てを越えることよりも、互いの間に壁をそびえたたせることにあまりにも偏ってしまう、私たち自身も含めたこの社会や世界の実態を考えないわけにゆかなくなります。預言者エリシャをお立てになった主なる神にナアマンが助けを求めることを願い、そのために自分に為し得ることを為し、その先を主にお委ねした少女によって、ナアマンは北王国へと向かうことができました。

しかし、直ぐにナアマンがエリシャのもとを訪ねることができたわけではありません。エリシャは北王国の預言者であり、ナアマンはアラムの将軍という政治的に重要な立場にある者であったために、通常の外交においてそうするように、アラムの王は北王国の王宛てに手紙を書き、ナアマンに託します。ナアマンはその手紙を携えて北王国の王の所に行きます。しかし北王国の王は、この依頼には裏の意図があると勘ぐります。主なる神よりも大国の力に拠り頼んできた北王国の王は、この出来事に主のご意思を問うことなく、敵対するアラムが、弱体化が進む我が国を陥れるためにしかけてきたのだと、これは言いがかりをつけるために無理難題を押し付けるわなだと思い込み、怒りに駆られて衣を引き裂きます。アラムの王は家臣が癒やされることを願って手紙を記したのに、外交の駆け引きでしか判断できず、嚙み合わない行動をする北王国の王の姿は、滑稽にさえ思えます。ただ、衣を引き裂きながら王が発した言葉は、図らずも神さまがどのような方であるのか、言い表しています。「私は、人を殺したり生かしたりする神なのか」と、王は言っています。王として、命令一つで人を殺すことも生かしたままにしておくこともできる者です。しかし、本当に人を殺し、生かすことがおできになるのは神さまだけであることに気づいています。自分は神ではないと、真理を告白しています。

ハンナの祈りを思い出します。主へのひたすらな祈りの末に主から与えられた息子サムエルが成長した時、かつて主に約束したように、ハンナはサムエルを神さまに捧げます。その時ハンナは、「主は命を奪い、また命を与え/陰府に降し、また引き上げます」(サムエル上26)と祈って、サムエルを主にお委ねしたのです。主イエスも、「人々を恐れてはならない・・・体は殺しても、命を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われ、寧ろ、命も体も滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ102628)と教えられました。そしてパウロは、コリントの教会に手紙で語り掛けました。異教の神々を祀り、多くの偶像の神を崇拝する生活が当たり前となっているコリントの街にあって、主なる神さまだけを礼拝するのは勿論のこと、市場での食材の買い物といった日常の営みにおいてどのような生活をしてゆくことが、偶像ではなく主なる神さまだけを神とする生き方を貫くことになるのか、迷い悩んでいたキリスト者たちに、「この世に偶像の神などなく、唯お一人の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています」と、信仰によって与えられている知識を共に確かめます。“神では無いのに人々が神だと祀り上げてきたいろいろなものが天や地にある”と、キリスト者たちが置かれている世界の現実を眺めつつ、「私たちには、唯一の父なる神がおられ/万物はこの神から出/私たちもこの神へと向かっています。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ/万物はこの主によって存在し/私たちもこの主によって存在しています」と述べます。人の心は、自分が求める幸運をもたらし、不運から守ってくれるようなものを神と呼びたがります。しかし、真の神は人の都合に仕える力ではありません。神さまとは、全てのものがこの方から出て、すべてのものがこの方へと向かって生き、この方のみ手の中で安らいで生涯を終えてゆくことのできる方です。私たちに命と存在と生涯を与えてくださり、私たちを父と子の結びつきの中に置いておられる方であります。私たちはその唯お一人の神さまを知っているのだと、パウロは述べています。

ナアマンの出来事を今日は列王記下514までお聞きしましたが、その次の15節でナアマンは再びエリシャを訪ね、「イスラエルの他、全地のどこにも神はおられないということがよく分かりました」と述べています。イスラエルの民を祝福の源とし、ご自分の民とされてきた主こそが神さまであると、この神さまだけを信じますと、異邦人のナアマンが宣言しているのです。真に人を生かし、人を殺すことができるのは、人間ではなく神さまであるとの王の言葉と、イスラエルの神さまこそただお一人の神さまであるとのナアマンの言葉、この二つの言葉に囲まれるようにして、ナアマンの救いは起こっているのです。

アラムの王からの手紙を誤解し、怒る北王国の王によって、ナアマンの癒しが捨て置かれそうになっていた混乱から、エリシャがナアマンを導き出します。エリシャは王に、ナアマンを自分の所に送るようにと伝えます。王は人を殺したり生かしたりする神ではないのだから、預言者を通して働かれる神さまにナアマンを託すべきです。それは、「イスラエルに預言者がいることが分かる」ためだとエリシャは告げます。ナアマンを癒やす目的は、王が心配していたような罠に陥らないためではなく、ナアマンが期待していたような病からの解放ですらなく、イスラエルに主がお立てになった預言者がいることを、異邦人も知るためです。このことをナアマンが理解することは、簡単なことではありませんでした。

ナアマンはとうとう自分を癒やせる者に会えると、沢山の贈り物を携えて、馬と戦車でエリシャの家までやってきます。癒しを依頼する預言者への贈り物は、癒しを願う気持ちの真剣さと誠意を示すものであったのかもしれません。馬や戦車は、将軍としてはごく普通の移動手段かもしれません。敵対してきた、実際に自分が攻め込んだことのある国に、将軍が無防備に来るわけにはゆかないのかもしれません。しかし、ここまで物々しい支度には、自分の存在を大きく見せたい、自分の立場を強く見せたい、そのようなナアマンの意図も透けて見えるようです。イスラエルに対して力で勝る国の将軍が、こうして自ら預言者の家までやって来たことの重大さを知らしめようとしているように感じます。ナアマンは、自分の到着を知ったらエリシャは急ぎ迎え出て、重大な人物からの重大な依頼にふさわしいスケールと丁寧さで癒すはずだと、エリシャはエリシャが信じる神の名を呼んで自分の患部に手をかざし、大きなジェスチャー、大きな声、沢山の言葉を尽くして癒すはずだと、期待していました。しかしエリシャは、使いの者を通してナアマンに、ヨルダン川に行って、7度身を洗いなさいと言います。ナアマンは期待外れのエリシャの対応に怒ります。ヨルダン川で洗って終わりというのも、気に入りません。弱体化している国の、大河とは言えない川で身を洗うくらいだったら、自分の国の大河で洗う方がよほど自分にふさわしいと、アラム王からの親書を持つ、アラムの国の代表とも言える自分に対するこの扱いは、アラム全体に対する扱いだと、こんな軽い扱いはあるかと、その場を去ろうとします。

自分の力でも、世の力でも自分を救うことができないことを知って救いを求めたのに、その救いにおいてさえも、自分の自尊心が満たされることを求めてしまう人間の姿があります。神さまに救いを求めながら、心の底から神さまに跪くことができず、神さまを自分の求めに仕えさせようとしてしまう人間の姿があります。誰もが抱えている傾向ではないでしょうか。怒ってその場を去るナアマンの姿はどこか滑稽ですが、自ら神さまと自分を隔ててしまうナアマンのことを、笑うに笑えない私たちです。このナアマンを思い直させたのは、家臣たちでした。異邦人の彼らが、イスラエルの神によってナアマンが癒されることを願って、エリシャの言葉に今一度耳を傾けることを勧めます。彼らの言葉を受け止め、富と武力を誇示して自分が重んじられ、高められることを求めていたところから、エリシャを通して働かれる主のお力によって救いをいただくところへと方向転換をすることができたナアマンを、主は癒されました。

ナアマンが神さまに対して自ら築いてしまっていた隔てを越えて、神さまはナアマンをご自分のもとへと招き続けてこられました。そのお働きのために、エリシャは勿論のこと、少女から異邦人の家臣に至るまで、多くの者を用いられました。その招きの道筋を辿ると、神さまの恵みが一人の人にもたらされるという出来事は、真に驚きに満ちたものであることに気付かされます。ヨルダン川での癒しは奇跡と言えますが、そこに至ったことからして、奇跡と言えるのではないでしょうか。イスラエルの民と異教徒、奴隷と奴隷にした者、その頑強な隔てを越えて、ナアマンの癒しを真っ直ぐに願った一人の少女によって指し示された道を、回り道をしたり、引き返したりと、紆余曲折を経ながら、その度に道を示す言葉を与えられながら、とうとうナアマンは神さまの言葉に従うためにヨルダン川に辿り着き、幼いこどものように清められました。

 

こうして神の民の歴史の外で生きて来たナアマンに神さまの恵みが注がれ、ナアマンは、イスラエルの神さまこそが、ただお一人の神であると信仰を告白し、ただお一人の神さまを礼拝する者となりました。この恵みを、神さまから自分を隔て、隣人から自分を隔てる病を抱えた私たちにもたらすために、神さまは独り子を世に与え、独り子は人となって世に降られました。主イエスは故郷ナザレの会堂の礼拝で、イザヤ書からこう朗読されました、「主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし/主の恵みの年を告げるためである」。そして続けてこのように語られました、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と。しかしナザレの人々は、主イエスの言葉に耳を傾けようとしません。その人々に主は言われます。「預言者エリシャの時には、イスラエルには既定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた」(ルカ4章)。神の民であったイスラエルが、神さまに従う生き方から離れ出ていたエリシャの時代に、神の民と敵対していた異邦人に神さまは恵みを与えられ、その異邦人ナアマンは神さまに従う道を歩み始めたのだと、主イエスは語ります。しかし会堂の中にいた人々は、一層憤慨し、総立ちになって主イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたとあります。自ら築いた隔ての内側に籠り、自分の願いや都合で全てを判断し、そうして神さまが遣わされた救い主を排除しようとする一人一人の頑なさは、やがて一つのうねりとなって主イエスを十字架へと追い立てます。主が私たちのために苦しみを負ってくださったことを新たに受け止め直すレントの歩みでありたいと願います。