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テサロニケの教会へ

2026.2.15.

申命記23:3-6、Ⅰテサロニケ1:1  

「テサロニケの教会へ」浅原一泰

 

ギュスターブ・モローと言う19世紀の画家がいる。今から三十年以上前、この人の展覧会が上野の国立西洋美術館で催されたことがある。その時のカタログをこの間、たまたま見直す機会があった。その中に、「ゴルゴタ」と言う一枚の絵がある。大変大きな、印象深い絵で、生で見た思い出も鮮明に残っている。向かって真ん中よりやや左側に三本の十字架が立ち並んでいて、その真ん中に一際高く聳えているのがキリストがかかられた十字架である。

 

キリストが十字架にかけられた時、キリストは一人でおかかりになったのではなく、他に二人の犯罪人が、一人は右に一人は左に、同じゴルゴタの丘で十字架にかけられたことを、マルコもマタイもルカも、そしてヨハネも、全ての福音書がそう伝えている。しかしそれだけではない。「神殿を壊して三日で建てる者よ。十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ)。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」(マタイ)。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」(ルカ)。そこにいた人間達は皆、そう言ってイエスを罵ったこともよく知られている。つまりその場にいる被造物、人間は全て、イエスを嘲笑ったわけである。但しルカだけは、イエスを罵るこの言葉を、同じ十字架につけられた犯罪人の一人に言わせている。何故ルカがそうしたのかと言えば、同じく十字架につけられていたもう一人の犯罪人に、次のように言わせるためであった。

「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。

 

そしてその犯罪人は続けてイエスにこう言った。

「イエスよ、あなたの御国へ行かれるときには、私を思い出してください」。

 

さながら信仰の告白のようである。まだその時は右も左も殆ど全ての人間がイエスを嘲笑っていた。それでも、たった一人であってもイエスを罵らない、むしろ御国を信じて、神の国の存在を信じて崇めようとする人間がそこに産声を上げていたことをルカは伝えている。その言葉を聞いて、キリストはこう言われる。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。

 

これはイエスが息を引き取る直前の場面である。弟子達は皆、逃げ出してしまっていた。マグダラのマリアを初めとするイエスに従って来た婦人達も、その場面を遠くに立って眺めていることしかできなかった。

 

皆さんは、余りにも有名なこの場面の話をされて、何を感じておられるだろうか。自分も、あの逃げてしまった弟子達と同じだと思っておられるだろうか。それとも、遠くに立つことしかできなかった婦人達と同じだと思っておられるだろうか。それとも、たった一人しかいないとしてもキリストを仰ぎ見ようとするあの犯罪人のようでありたい、と思っておられるだろうか。教会に連なる皆さんの中には、キリストを嘲笑っている人間と自分を重ね合わせる人は先ずいないであろう。しかしいずれにせよ、皆さんが、今申し上げた中のいずれかの人間とご自分を感じておられるのなら素晴らしいことであると思う。というのはキリスト教は、時代を超え場所を超えて、読む者聴く者を、聖書自身の繰り広げる舞台へと引きずり上げるものだと思うからである。遠くから聖書を眺めて、ああだこうだと点数をつけさせるのではない。聖書の中の誰が正しくて誰が間違っている、と人間に評価、品定めさせるためにあるのでもない。神の生ける言葉は、私たちを聖書の中へと招き、その世界の中で生かされている自分に気づかせるのである。聖書の只中において、そこに生きておられるイエスに向き合わせるのである。十字架の主を、あなたは罵るのか。それとも逃げるのか。それとも信じるのか。神からのこの問いかけをルカは、正確に伝えようとしたのではないかと思う。今は未だ即答できない、と言う声もあるだろう。しかしキリスト教は、福音は、この十字架上で死なれたイエスを神がよみがえらせたことにおいて始まった。主の復活が信じられなかった者を信仰へと、答えられなかった者を信仰の告白へと促すのである。まさしくそれは、死で終わる命にしか生きられない全ての者をイエスの復活に与らせようとする神の物語である。そう言っても良いだろう。全てはそこから始まった。教会の歩みも。新約聖書の御言葉も。伝道も。主の聖餐の食卓も全てはそこから始まった。

 

しかし現実には、私たち聖書の中に閉じこもっていては生きることができない。この世に生きているからである。今もなお、主の死を嘲笑い続けるこの世の只中で生きている。ともすれば自分もこの世に染まって、時にはこの世の言いなりになって生きてしまっている。それが世の人の現実の姿である。あの出来事から二千年。その間に何があったかと言えば、一方で主の死を嘲笑う者がいて、他方でひれ伏し崇めたものがいたと言う違いが曖昧模糊とされてきた、と言うことではないだろうか。モローを初めとする絵画然り。教会と言う建造物が持つ厳かな、或いはきらびやかな特徴然り。その作品を生み出した当人は、信仰なくしてはそれを実現も完成もなし得なかったことだろう。しかしその作品を見る側は、別に信じていなくても自分本位に眺められる。聖書が生まれ、それが印刷され、今では賛美歌と共に、信じていようといまいと、金さえあれば誰でもそれを手にすることができる。わざわざ時間を使って教会に行かなくても、信じなくても、絵を見れば、聖書を読めば、映画を見れば、確かにキリスト教のことを知ることができる。しかしながら、あなたは今、主の死を嘲笑うか、ひれ伏し崇めるのか、と言うルカが出したあの「問いかけ」が本来持っていた緊迫感というか切迫感は影薄くなり、消え失せてしまいつつあると思う。一般の人には関わりのないこと。マニアックな人や信者だけがそれに答えればいい。自分には関係ない。教会の外にいる人々の殆どはそう思っているだろう。では教会の中にいる私たちはどうだろう。本当に答えているだろうか。そんな問いかけは忘れてしまって、目先のことや健康のことばかりを思い煩ってはいないだろうか。教会が楽しいか楽しくないか。礼拝が満足できるかできないか。教会の人間関係に疲れていないかどうか。頼まれごと、負わされている責任の多さに気が重くなったり、責任が少なくてすんでいることに安堵を覚えていたり。そちらの方に関心がいつの間にか移ってはいないだろうか。しかしそれでもルカは、聖書は、神の問いかけに答えた犯罪人の一人に、既にあなたはイエスと共にいる、神の国にいる、と言うことを、今もなお、伝えよう、訴えようとしている。そうではないだろうか。

 

「パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ。恵みと平和があなたがたにありますように」。

 

この手紙は、ルカよりも約二十年ばかり前にパウロが書いたものである。そしてこの手紙は、パウロが一番初めに書いたものである。どの福音書よりも二十年以上前に、パウロは教会宛てに手紙を書き始めた。ということは、この手紙は新約聖書の中で最古の文書、ということになる。ダマスコに向かう途上でパウロが復活のキリストに語りかけられて回心をし、異邦人にキリストを伝える伝道者とされる。聖書後ろの地図を参照されと分かると思うが、彼の二回目の伝道旅行において、シラスとも呼ばれるシルワノやテモテと一緒にフィリピを訪ね、その後続いて訪ねた町・教会を建てた町が、このテサロニケであった。パウロ達を立ち上がらせた全ての発端も、先ほど申し上げた一点に尽きる。つまり、すべては十字架上で死なれたイエスを神が蘇らせたことに始まった。

 

逆に言えば、キリストがよみがえらなければ教会は生まれなかった。伝道も始まらなかった。当然、信仰も生まれない。あれから二千年を経た今、イエスの死を嘲笑う世の現実は何ら変わっていないとしても、私たちクリスチャンが世に飼い慣らされて神からの問いかけを忘れ、自己満足のために教会に来るようになっていようと、キリストが復活されなければ、我らは礼拝することも、教会へ足を向けることもなかった。キリストの復活と言う、この神の御業が既に起こったこと。そこには一片の曇りもない。覆すこともできない。この手紙を書き始めた頃のパウロは、キリスト教の広がりを妬むユダヤ人たちの暴動によりテサロニケの町を立ち去らねばならなかった。不本意ながら後に残す教会の仲間達を心配する余り、彼は弟子のテモテをテサロニケへと遣わすのだが、後でそのテモテから、神の御業に何ら変わっていないという報告を受けるのである。その地で、紛れもなく教会が教会であり続けていたことを思い知らされるのである。

 

「テサロニケの教会へ」。「教会」。ギリシャ語でエクレシアと言う。パウロは初めて書いた手紙の冒頭の書き出しで、この言葉を使った。つまり新約聖書の中で、初めて「教会」、エクレシアと言う言葉が使われた場面に我々は今朝出会っているわけである。ではこの言葉はパウロが考え出したものなのか。そうではない。古くからあった言葉をパウロはここに当てはめた。このエクレシアをヘブル語ではカーハールと言う。新約聖書が生まれるよりも遥か前、旧約聖書がギリシャ語に初めて訳された七十人訳聖書と言うものが生まれた時、このカーハールがエクレシアと訳された。その言葉は先程読まれた申命記23章に出ていた。

 

「混血の人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、主の会衆に加わることはできない

アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない」。

この「主の会衆」と訳されたのがカーハールである。それは主なる神に祭壇を築き、いけにえを捧げて神を称える集いのことであった。しかしその言葉が意味していたのは、誰が入り誰が入ることが出来ないか、その線引きの設定であったらしい。

 

一方、ギリシャ語のエクレシアの元々の意味は主の会衆ではない。人間の集会であった。そこに線引きを設定する必要はなかった。同志の集まり、同じ目的を持つ者の集まり、それは人の思いによる集まりを指していた。しかし今、遂にそれが「父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ」、と言う言葉でもって語られ始めたのである。カーハールからエクレシアへ。エクレシアから神とキリストに結ばれているテサロニケの教会へ。何が変わったのだろう。どのように変化したというのだろう。単なる訳の違いではない。言葉使い、表現の違いでもない。それは写しと本物の違い、と言って良いと思う。預言と成就の違い、と言って良いと思う。つまり、神が歩みを変えられたのである。神がそれまであった線引きを取り払われたのである。言い直すならば、神がより強く、より近く、より確かに世にある一人一人に歩み寄り、神が十字架のキリストを死からよみがえらせて、世に、テサロニケと言う地上に、ご自身の栄光を顕された。そうして神は、あなたはイスラエルかモアブかと言う線引きを、あなたはキリストを信じるか、それとも拒むのか、という線引きへと変えられたのである。

 

後にⅠコリント15:45-49でパウロはこう書いている。

「聖書に『最初の人アダムは生きる者となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となりました。つまり、霊のものではなく、自然のものが最初にあり、それから霊のものがあるのです。最初の人は地に属し、土からできた者です方が、第二の人は天に属する方です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。私たちは、土からできた人のかたちを持っていたように、天上の方のかたちをも持つようになります」。

第二の人とはキリストである。つまり神がキリストを世に遣わし、十字架にかけられ、死から蘇らせたのは、罪と死に支配されている者・地に属する者に命を与えるため、天に属するキリストの似姿へと生まれ変わらせるためであったのである。まさに神は、死で終わる命にしか生きられない全ての者に信仰を与え、キリストの復活に与らせる救いの物語を、遂にこの方において始められたのである。

 

「父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会」。それは申命記にあったような主の会衆ではない。単なる人の思いによる集いでも決してない。天に属するキリストに等しくされる者たち、そのために召し集められた者たちの集いである。ただ父なる神と主なるイエス・キリストの恵みによってのみ生まれた群れである。イスラエルであれモアブ人であれ、土に属していた者から、キリストの復活に与らせる神の救いの物語へと招かれ、その舞台へと引きずり上げられた者たちの群れである。

 

「恵みと平和があなたがたにありますように」。

既に持っている者が更に得することを恵みとは言わない。持たざる者が持てる者から与えられるからこそ恵みである。持たざる者の意志も力も一切関わりない。功績なしに、向こうから一方的に与えられるからこそ恵みである。神の方から壁を突き破って、人となられた神の御子キリストによって、罪あるままの私たちに迫って来られたこと。この「神の切迫」こそが神の恵みである。しかもこの神の切迫と言う恵みが、持たざる者を「神との平和」へと突き動かす。世にあるキリスト者の命の歩みを方向付けるのだと思う。

 

神は、恵みによらなければ出来ない従順へと導くために、キリストにおいてご自身を顕して下さった。迫って来られた。キリストにおけるこの神の切迫がパウロを悔い改めさせ、更に彼とシルワノ、テモテを悔い改めさせ、信仰を告白させた。この神の恵みが彼らをテサロニケの町に遣わし、彼らを用いて町の人々を振り向かせ、悔い改めさせ、主イエスを崇めさせた。信仰を芽生えさせ、御国の望みを抱かせた。老いていようと、幼く愚かであろうと、たとえ肉体の死に瀕していようともそれは同じであったに違いない。キリストの横で十字架に上げられたあの犯罪人であろうとも、この神の切迫が彼のその後の命の歩みを決定付けた。信仰を告白させたのである。神との平和へと、教会と言う神の救いの物語の舞台へと彼を招き、いまわの際であっても踏み止まらせた。「あなたは既に今日、わたしと共に楽園にいる」と主は言われたのである。

 

 

教会とは何か。それはキリストにおいて神が、世にある我らに迫り続けて下さっている場に他ならないではないか。自分の力に頼り続ける我らを、このキリストによる神の切迫が、信仰の告白へと促し続ける場に他ならないではないか。しかもそうして信仰を告白する群れに「あなたは既に今日、私と共に楽園にいる」と答えて下さり、いまわの際まで我らを御許に繋ぎ止めて下さる場に他ならないではないか。その神の救いの物語はとこしえに変わることはない。テサロニケの人々が踏み止まり、そこから立ち去らなければならなかったパウロが思い知らされたエクレシア、教会と言う救いの物語の同じ舞台に、神はキリストによって、恵みによって私たちをも招いて下さっている。あなたの国籍は天にあると、既に今日私と共にいると答えてくださる神の御声によって、レントを迎えようとするこの主の日より新たに立ち上がらせられたい。