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かすかにささやく声

「かすかにささやく声」列王上19118、ロマ1117

202628日(左近深恵子)

 

 神の民イスラエルの国が南北に分裂した後、北王国の王と民が、周囲のカナンの民が礼拝していた偶像の神々を崇拝するようになっていた時代に、預言者エリヤは現れました。王アハブの妻イゼベルが故郷からバアル崇拝を持ち込み、王夫妻によってバアル崇拝は促進され、庇護され、主なる神に仕える預言者たちはイゼベルに迫害され、次々と殺されました。偶像の神々への崇拝は、主なる神に背くものであるのに、自分たちが神さまに従う生き方を失いつつあることに気づかない人々、あるいは信仰が危機にあることを軽視する人々によって、神さまが真の主であること、神さまに従う神の民であることが根底から揺らいでいました。18章には、エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと対決したことが述べられています。エリヤの勝利は、長く続いていた干ばつに終止符を打ち、雨を降らせることができるのは偶像の神々ではなくイスラエルの神であることを示すものでした。カルメル山に集まっていた850人もの偶像神の預言者たちとアハブ王と民は、天から火を降らせ、いけにえを焼き尽くす神さまのお力を目の当たりにし、主こそ神であることを知りました。そもそも干ばつは、イスラエルの背信に対して神さまが下されたものでした。目に見える偶像を神としてしまい、真の神さまから離れ出ていた人々は、神さまのみ前へと立ち帰り、やがて激しい雨が降り始めました。エリヤは、主なる神だけを礼拝することに背を向ける大勢の人々の前で主への信頼を貫き、主こそ神であることを証しする大きな働きを為したのです。

 カルメル山から王宮に戻ったアハブは妻イゼベルに、カルメル山での出来事を全て話します。自分が庇護するバアル神の預言者たちが殺されたことを聞いたイゼベルは怒りに燃え、エリヤのもとに人を送って、明日の今頃までにエリヤを自分の預言者たちと同じ目に遭わすと報復を宣言します。エリヤは、恐れおののきます。これまで力を振り絞って神さまの言葉に従い、主こそ神であることを証しするために、自分に身の危険が迫ろうとも闘ってきました。そうして、カルメル山上で大勢の目の前で主は圧倒的なみ業によって、ご自分こそ神であることを示されました。それなのに、イゼベルは主の預言者である自分を殺すと言います。誰の目にも明らかな規模のみ業によって神さまが大勝利をおさめられたのに、それを知りながらイゼベルの心は変わらない、カルメル山の出来事にも拘わらずイゼベルを止める者が居ない現実に直面し、エリヤは無力感に襲われたことでしょう。イゼベルの手にかかって殺される死から逃れるため、エリヤは従者を伴ってそこを発ち、イゼベルが支配する北王国を出て、南ユダ王国の中を進みます。道々、エリヤの中でこのような思いが募っていったのではないでしょうか。“イゼベルの報復の手から逃れるこの旅に、終わりはあるのか”“イゼベルの追手がどこに潜んでいるのかと怯えながら、この先の人生を生きていかねばならないのか。カルメル山の誰の目にも明らかな勝利をもってしても変えることのできない者のこころと、自分はいつまで闘わなければならないのか”。目に見える相手と対峙したカルメル山と異なり、今エリヤを恐れさせるのは、人の心と言う、目に見えない、実態のつかめない、底知れないものでありました。

南王国の南端、ベエル・シェバまで来た時、エリヤは従者をそこに残して、1人荒れ野の中に入ってゆきます。そこに一本のえにしだの木が生えていました。木の下に腰を下ろし、「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください」と主に祈って、身を横たえ、目を閉じます。カルメル山上で神さまのお力を証しすることができた時には、“自分は他の人にまさる働きをした”“自分の死に物狂いの努力が比類なき勝利につながった”と、エリヤは内にも外にも力がたぎる思いであったでしょう。しかし見えない敵を恐れる日々に、カルメル山で味わったような達成感はありません。終わりの見えない闘いを負う預言者であり続けるのは「もうたくさんだ」と思うようになっていました。カルメル山では、エリヤが思う以上の大きなみ業で神さまはエリヤの祈りに応えてくださいました。しかし、逃亡の旅に出てからは、自分が望む恵みを神さまからいただけていないとエリヤは思っていたことでしょう。そして、自ら死の中に逃れたいと望むようになっています。

えにしだは、暑さ寒さに強く、やせた土地でも成長することのできる植物であり、低木ではありますが陽射しを遮るものがほとんどない荒れ地では貴重な存在です。エリヤはえにしだの木陰を自分の死に場所と定めましたが、神さまはまさにその所をエリヤの再出発の地とされました。炎天下ではなく、木陰を最後に身を横たえる場所に選び、死を願いながらも「主よ、私の命を取ってください」と言います。先祖たちがそれぞれの生涯の時を終え、死んでいったように、私の生涯もこれで終わりにしてくださいと願います。イゼベルに取られまいと守って来た命を、主がお取りくださいと、最後に自分に力を下す方は主であってくださいと願います。しかし神さまは、エリヤの生涯を終わらせません。エリヤが死の淵に選んだこの所にあっても共におられることを示し、み使いを通して語り掛け、生きるための糧を与えます。かつてケリトの渓谷で烏を用いて朝に夕にパンと肉でエリヤを養われ、渓谷の水が涸れるとサレプタのやもめによって小さなパン菓子と水で養われた神さまは、今、み使いを通して「起きて食べなさい」と呼び掛けられ、パン菓子と水で養い、神さまの言葉に従って再び歩き出す力を養われます。神さまの言葉と糧をエリヤは受け容れます。人を養うものが何も無い荒れ野で、自分の無力さに震え、何も受け付けられなくなっていたエリヤが、主によって内側から満たされてゆきます。そして立ち上がり、更に南へと降り、ホレブの山に辿り着きます。何故エリヤがホレブの山に来たのか、記されていません。主はベエル・シェバでエリヤに、「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言われました。その道のりとは、ホレブの山に至る4040夜の道のりであったのかもしれません。神さまがホレブの山へと導いてくださったのかもしれません。

しかしまたこの道のりとは、預言者として歩む道を指しているように思います。北王国の王朝と民が、主に立ち帰り、主との契約に従い、神の民として歩む者となるように、神さまの言葉を語る道のりは耐えがたいほど長いことを、神さまが知っていてくださるのです。その働きに復帰するために、エリヤにはまだ備えが十分では無かったのかもしれません。北王国とは反対方向にあるホレブが、エリヤにとっての備えの場所となりました。神の山とも呼ばれるホレブは、モーセが燃える柴において神さまと出会った山、モーセが律法を神さまから授かった山であります。生ける神の臨在を神の民が受け止めて来たこの山に、モーセは辿り着きました。

しかし着くなり、エリヤは洞窟の中に入ってしまい、夜の間もそこで過ごします。神さまは「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」「出てきて、この山中で主の前に立ちなさい」と呼び掛けられますが、出てきません。子どもが怖いものから身を守ろうと、耳を塞ぎ、目を瞑ってうずくまるように、洞穴に逃げ込み、壁に身を寄せ、外で起こることを遮断しているようなエリヤの姿です。エリヤは、以前はイゼベルの力を恐れていましたが、今や恐れる相手はイスラエルの民全体になっています。イスラエルの民がただお一人の主を礼拝し、神の民としての歩みを取り戻すことができるようにと、エリヤが非常に熱意をもって闘い、神さまがその闘いに大勝利をもたらしてくださったのに、民はエリヤの命を狙うイゼベルを見て見ぬふりをしているようにしかエリヤには思えません。イスラエルの民全体がイゼベルと同じ所に立っている。それは、イゼベルと共に自分を殺そうとしているのと同じだと、絶望に捕らわれています。

エリヤは呼び掛けてくださる神さまに、「人々が主の預言者たちを剣にかけて殺し、私だけが残った」と、「彼らはこの私の命までも捕ろうと狙っている」と、繰り返し訴えます。確かにイゼベルは主の預言者たちを殺害しましたが、その時オバドヤという人が100人の主の預言者を救い出し、洞穴にかくまい、パンと水で彼らを養いました。エリヤもそのことをオバドヤから聞いています。主の預言者はエリヤ1人になってしまったわけではありません。カルメル山上でバアルの預言者たちと対決した時も、エリヤは「主の預言者としては、ただ私だけが一人残った」と言っていました。山上で闘ったのは確かにエリヤ1人であったかもしれませんが、孤軍奮闘していたわけではありません。エリヤには、肉の目で見えることしか見えなくなってしまっているのでしょう。そうして、主から託された預言者としての使命に身を捧げている他の預言者たちの存在にも、主に熱意をもって仕える彼らの働きにも心寄せることなく、主の戒めを破棄してきた北王国の王たちの姿や、バアルの預言者たち850人と対峙した自分の闘いや苦労にばかり心を占められてしまっているのでしょう。主に従い続けて来たのは自分一人だけだという心境に陥っているエリヤです。それなのに、王家も民も神さまに立ち帰ろうとしない、自分がこれまで非常に熱心に主に仕えてきたことの結果がこの状況であることに、納得できていません。王や民を悔い改めに導いてくださいと主に祈り求めることもなく、洞穴という自分の世界に閉じこもり、神さまが自分の願い通りの結果を与えてくださらないと神さまに不満をぶつけます。そのエリヤに神さまは、そこから出て来るようにと呼び掛けられます。隠れている所から出てきて、神さまのみ前に立つようにと呼び掛けられます。神の民の王も民も、神さまに立ち帰らなければなりません。それはエリヤも、同じであります。エリヤにとっても、主のみ前がいつも出発点です。厳しい言葉、望まない言葉を発することのない壁にもたれ、自分の心の中の不満にばかり耳を傾けているような在り方を後にすることは、自分の意志では難しいエリヤや私たちです。神さまが出て来なさいと呼び掛けてくださるから、その言葉にお応えして、み前に進み出ることができるのです。

「出て来なさい」との言葉の後に、非常に激しい風が起こります。山を裂き、岩を砕くような暴風です。地震も火も起こります。しかしエリヤは隠れ場所から出てきません。地を震わすような大きな音、大地を動かし、裂き、砕くほどに世に大きな影響をもたらすそれらの威力を、私たちも災害を通して良く知っています。しかし神さまは、暴風や地震や大火として現れる方ではありません。それらは主が用いる手段に過ぎません。それらをご自分の臨在のしるしとされることもあります。しかしこの時主は、暴風や地震や火によってではなく、その後のかすかにささやく声によって、語り掛けてくださいます。エリヤは、圧倒的な現象を神とせず、かすかであっても確かに語り掛けられる神さまの声を受け止め、洞穴から出てきます。忍耐をもって呼びかけ続けてくださり、不満や怒りを神さまにぶつけるような祈りであっても受け止めてくださり、み前に出てくるようにと招いてくださった主のみ前に立ちます。洞穴の壁にではなく主に全身を向け、主との交わりの中に自分を丸ごと委ねます。こうして、主との関係を回復されたエリヤです。

私たちの周りで猛威を振るう世の力に比べると、神さまの語り掛けは余りにかすかに思えるかもしれません。しかし、絶望と不満の洞穴に閉じこもらずにはいられない苦しみの中にあるからこそ、かすかな声を受け留めることができる時があるのではないでしょうか。その時、これは揺るぎないみ言葉であると私たちは知るのです。かき消されそうでかき消されることのない声においてこそ、主は私たちに語り掛け、人格的な交わりへと招いてくださることを知るのです。

不満や不安を抱えたまま神さまのみ前に進み出たエリヤは、それらを神さまに注ぎ出します。エリヤの苦しみに耳を傾けられた神さまは、“ではあなたはもう私が託す苦しみ多い働きをしなくて良い”とは言われません。ダマスコの王としてハザエルに、北王国の次の王としてイエフに、エリヤの後継者としてエリシャに、油を注ぎなさいと、新たな務めを与えます。これら3人に油を注ぐということから、アハブ、イゼベルの支配に主が終わりをもたらす時が近いことがうかがわれます。エリヤを怯えさせている力は永久のものではないこと、人には全てを見通すことのできない神さまのご計画は、歴史の表に現れないところでも静かに進められること、神さまこそが真の王であることを、エリヤは受け止めたのではないでしょうか。

神さまはエリヤに、「来た道を引き返し」なさいと言われます。ここを発ち、あなたが逃げてきた道を帰ってゆくように、言われます。アハブやイゼベルはまだ王国のトップに君臨しています。エリヤを絶望させる神さまへの背きが民の中から消えたわけではありません。しかし、絶望からの回復は、誰かがそれらの罪を根絶やしにして初めて可能となるのではありません。神さまから与えられた、神さまに仕える道を歩むことが、エリヤの回復の道であるのです。

新しい使命にエリヤを遣わされる神さまはエリヤに、バアルに膝を屈めず、これに口づけをしない者たち、つまりただ主なる神のみを礼拝する者たちを、7,000人残すと告げておられます。これまで、主を礼拝するのは自分1人になってしまったと嘆いてきたエリヤです。しかし、主の礼拝者がどこかにこんなにも大勢いるということに、エリヤはどんなに励まされたことでしょうか。そしてまた、自分だけが正しい者であるとしたがる自分の思いに気づかされ、悔い改めへと導かれたのではないでしょうか。

パウロはこの箇所をロマ書11章で引用しています。熱意をもって主に仕える道を歩む者には、この道を行くのは自分一人ではないかと思ってしまうような苦しい日々が訪れることがあります。パウロも、同じ神の民であるはずの人々が、主イエスこそ救い主であるという福音に耳を貸さず、パウロを迫害する厳しい状況に幾度も耐えながら、エリヤの時代にそうであったように、神さまが主の礼拝者を残してくださっている、「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っている」ことに希望を与えられ、福音を人々に語り続けました。自分は荒れ野に1本だけ立つえにしだのように、荒れ野のような世にあって自力で1人で立っているように思えてならないことが、私たちにもあるかもしれません。しかし、私たちは神さまが恵みによって残してくださっている者たちの1人であります。私たちが主の礼拝者であり続けられるのは、自分の力や自分の正しい行いによるではなく、ただ神さまの赦しと恵みによるのです。

 

そして、ただお一人の神さまを礼拝することを真に貫かれたのは、イエス・キリストお一人であることにも気づかされます。全ての者が神さまに背を向け、神さまから与えられた道から離れ出て、頑なさで身を守りつつ他の人々を裁き、神さままでも裁き、正しいのは自分だけだと不満を募らせる世にあって、全ての者の罪を背負ってくださったのは、十字架にお架かりになるまで主に従い通したキリストです。キリストの苦しみと死によって、私たちはご自分との人格的な交わりの中に招き続けてくださる主の礼拝者として生き、主に仕える道を歩む恵みに与かっているのです。