「命を与えてくださる神」列王上17:1~24、ロマ4:16~25
2026年2月1日(左近深恵子)
エリヤは、古代イスラエルの北王国で活動した預言者です。12部族から成るイスラエルは、ダビデ王の時代に一つの国となり、ダビデの息子ソロモン王の時に隆盛を極めますが、ソロモンの息子レハブアムの時代に南北2つの王国に分裂し、北は10の部族を中心としたイスラエル王国、南は2つの部族を中心としたユダ王国となりました。暫くの間、互いに国境を巡って争っていましたが、互いに以前より小さな国となったこの2つの王国は北方からの勢力に脅かされることになり、やがて北王国はアッシリア帝国によって滅ぼされます。南のユダ王国もその約200年後にバビロニア帝国によって滅ぼされます。結果としてそれぞれは大国の力に破れたのですが、滅びへと至った最大の問題は自分たちの内にあったことを、聖書は明かにします。
分裂後、南王国では僅かな例外を除いてダビデ王朝の支配が保たれますが、北王国の方は軍事的クーデターによる王朝の交替が頻発し、王が次々と代わり、王となった者たちの半数近くは暗殺されています。3代以上続くいわゆる「王朝」を形成できたのは2つの血筋だけであり、その内の1つが6代目の王オムリから始まるオムリ王朝です。オムリ王は、南王国も含め、近隣の国々と対立よりも共存することを目指しました。北のフェニキア人の国ティルスとも、王女イゼベルを息子アハブの妻に迎え、平和的な同盟を結びました。王朝が安定し、外交的に争いが少なかったこの時代、国は大変繁栄しました。しかし、この王朝の時代に、王も民もイスラエルの民の歴史上他に類を見ないほど偶像崇拝に浸りました。それは神の民としての土台を失うことでありました。
それぞれに違いのあるイスラエルの各部族が共に一つの国として歩むことができるのは、主なる神こそただお一人の神であり、神さまこそ真の王であることに、皆が共に立つことに拠ります。人間の王も、神さまがお立てになってはじめて神の民の王としての権威を与えられる者であり、王も民と同様、神さまの言葉に従う者でありました。人間の王の権威も、周囲のカナンの民が崇めている偶像の神々の権威も、決して、神さまに代わるものでも神さまに並ぶものでもありません。そのことにおいて心一つとなって、共にダビデを神さまが立てられた王として受け入れたことで、かつて12部族はそれぞれの違いを越えて一つの国となることができました。しかし、ダビデの次の王ソロモンは、外国から迎えた妻たちが王宮や国に偶像崇拝を持ち込むことに対してあまりに無防備であり、ソロモン自身もやがて異教の神々に従う者となってしまいます。罪に向き合い、ご自分のみ前に立ち帰るようにとの神さまの言葉にも耳を傾けようとしません。列王記11章は、ソロモンが「自分の神、主に対して誠実ではなかった」と、その罪を明らかにしています(11:4)。ソロモンの息子レハブアムも、王としての自分の権威を人々に大きく見せることに心占められ、神の民の王としてふさわしい在り方を見失いました。そのレハブアムを、神がお立てになった王として認められない北の10部族が、南の部族と袂を分かつことを決断し、国は分裂しました。分裂に至る綻びは、主を礼拝はするものの、人間の権威や偶像の神々にもひれ伏してしまい、一つ心で神さまに仕えようとしない王たちから生じ、亀裂は大きくなってゆきました。分裂後、北王国の最初の王に立てられたヤロブアムも、次第に偶像崇拝が神の民の中にもたらされることに道を開き、神さまへの礼拝を異教的なものへと変質させてしまいました。それ以降、北王国の王たちは「ヤロブアムの罪の道を歩んだ」と列王記は述べています。そしてオムリ王朝においてその罪は増大しました。オムリは国内でカナンの神々の崇拝が行われることを許すだけでなく促進させ、カナンの神々を祀った聖所を建てさせました。オムリの息子アハブは妻イゼベルのためにバアルと呼ばれるカナンの神の神殿を建て、そこにバアルのための祭壇を築き、自らも進んでバアルに仕え、これにひれ伏しました。こうしてアハブは、「彼以前のイスラエルのどの王にも増して、イスラエルの神、主を怒らせることをした」(16:31~33)と列王記は述べています。
イゼベルが持ち込んだバアルは、雨の神として崇拝されており、ひどい干ばつに襲われると、人々はバアルに助けを求めました。雨は、農耕によって糧を得ているカナンの地の民にとって、自分たちの生活と命に欠くことのできないものです。自分たちの糧を守り、生命を守り、この繁栄の時代を謳歌することを可能にしてくれるのはバアルであると、バアルこそ神であると、イゼベルも民もバアルに仕え、礼拝しました。神さまはこのオムリ王朝を悔い改めへと導くために、預言者エリヤを遣わされたのです。
エリヤは、ヨルダン川の東側、ギルアドの地、ティシュべの人でした。カナンとは反対側にある、砂漠に最も近い厳しい山地の出身でした。エリヤはアハブの前に現れ、イスラエルの神、主は生きておられると告げます。そうして、滅びに至る坂を転がり落ちて行くアハブの罪に対し、神さまがエリヤを遣わされたことを示します。主が言葉を発しないかぎり、この先数年の間、干ばつに見舞われると告げます。18:1によると、干ばつは3年続きます。後に主イエスもこの出来事について触れておられますが、そこでも「エリヤの時代に3年6カ月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こった」と言われています(ルカ4:25)。3年を超えて干ばつが続いたら、食糧の蓄えは底を尽き、イスラエルの富をもってしても生命を維持する糧を民が得ることは難しくなるでしょう。政略結婚による安定と偶像の神の力を当てにして、神さま抜きに国の繁栄を手に入れてきたアハブの政策が、根底から揺るがされます。干ばつの度にバアルに助けを求めて来た王朝に、神さまは、雨の送り手はバアルではなくご自分であり、人々の主はただお一人、神さまであることを明らかにされたのです。
人間は、罪を指摘されると大抵頑なになり、力を持っていると自負する者は力によって反撃を試みがちです。アハブの攻撃からエリヤを守るため、神さまはエリヤに、アハブの力が及ばない、ヨルダン川の東側、ケリトの渓谷に身を隠すように命じます。そこで神さまは川の水と、烏によって届けるパンと肉で、エリヤを養うことを約束されます。エリヤは直ぐに主が言われたようにした、とあります。川の水は簡単には涸れないでしょう。しかし、烏が食べ物を運んでくれることをどれだけ当てにできるでしょうか。川の水も烏も、自然の豊かさの一部ですが、エリヤの命を全て委ねることができるような存在ではありません。エリヤは川にではなく烏にでもなく、神さまに信頼し、神さまだけが自分を養う方であることを確信し、神さまの言葉に自分の命を委ねたのです。そうしてエリヤは、日に2度のパンと肉という、この時代では非常に豊かな糧を与えられたのです。
やがて、イスラエルを襲った干ばつは、渓谷の水まで涸らしてしまいます。神さまは次にシドンのサレプタと言う、やはりアハブの支配の外にあるフェニキアの地で暮らしているやもめの所に身を寄せるように命じます。シドンはイスラエルにとって脅威となりうる勢力であり、その勢力と平和的に共存するため、オムリが息子アハブの妻にシドン人の王女イゼベルを迎えた国です。イスラエルの民にとって、自分たちがその王の支配の影響下にある民です。その王の娘が持ち込んだバアル崇拝によって国は滅びへと向かっています。そのバアルの支配の只中へと入ってゆくことを、神さまはエリヤに命じられました。その上、その地の裕福な者のところではなく、1人のやもめによってエリヤを養わせると神さまは言われます。エリヤは再び、直ぐに神さまの言葉に従い、サレプタへと向かいます。バアルは偶像であって生ける神では無いこと、主なる神のみ、生ける真の神であること、神さまの言葉は必ず実現することを確信していたから、エリヤは踏み出したのでしょう。
サレプタのやもめは、困窮した生活を送っていました。当時の社会において、家庭に働き手となる男性がいない寡婦は、今以上に弱い立場にありました。このやもめがいつ夫を失ったのか分かりませんが、この時生活はもはや立ち行かなくなっていました。干ばつの影響がこの地にも及んでいたからではないでしょうか。律法は、やもめをはじめ、社会的に弱い立場に置かれた人々への配慮を求めています。やもめの方が支援を必要としている状態です。その日最後の僅かな粉と油を口にしたら、食べる物も、生活に必要なエネルギーも何も無くなり、息子と命の終わりを待つしかない状態です。しかしエリヤは、やもめに自分のための水とパンを求めます。そして神さまの言葉を伝え、生ける神のご支配がやもめの家庭にも及ぶことを知らせます。やもめにとっては、異教の神、小さな国の民が信じているに過ぎないイスラエルの神が、自分の家庭もそのみ手の内に置いてくださること、死の淵にあったこの家が、客を迎え、養うことのできる場となることに信頼し、やもめは行動します。そして、神さまのお言葉通り、やもめと息子とエリヤは、十分な糧によって満たされました。母と子は、ただ死の時を待つしかなかったところから、この先を考えられる日常を取り戻されただけでなく、神さまの恵みによって養われて生きる日々を与えられたのです。
エリヤにとってもこの出来事は、神さまの恵みを深く知るものであったでしょう。エリヤは神さまから重要な務めを委ねられ、大きな権力を持つアハブ王の前で、神さまの言葉を堂々と伝えました。しかし特別な務めを委ねられている預言者だからと言って、エリヤは誰かの養いを受ける必要が無い特別な者ではありません。全ての人と同様、エリヤ自身も、神さまの養いを必要とする者です。養いを通して神さまの慈しみを知る恵みに、魂が満たされる者であります。エリヤは、人の目から見れば当てにならないような烏や川の存在を通して、また異教徒の、それも最も弱い者とみなされている者を通して、神さまだけが真の養い主であることを、身をもって深く知りました。神さまの慈しみと祝福は、人が引く国境によって阻まれるものではありません。エリヤが思いもよらない所へも、神さまはみ言葉を託して遣わされます。神さまの祝福の源となるべく神さまに立てられた神の民イスラエルの一人であり、重要な役割を神さまから託されたエリヤは、神さまがお立てになった異教徒のやもめを通して養われます。こうして神さまのみ前に遜り、自分の力ではなく神さまのみ言葉と養いによって立つ者とされていることを知ったことは、これから神さまのお働きを担っていくための大切な備えとなったことでしょう。
17章の最後に、やもめの息子についての、不思議な出来事が語られます。一度は息子と共に死を覚悟していたやもめですが、エリヤが現れて以来、主なる神の祝福の中で生きる喜びを味わってきたことでしょう。しかし息子が重い病で死んでしまったことは、それらの喜びが吹き飛んでしまうほどの出来事でした。その死を母親は、自分の罪に対する裁きではないかと怯えました。神さまが遣わされた預言者が自分の所に滞在してきたことで、自分のこれまでの罪がエリヤを通して神さまに明らかになってしまったのだろう、自分の罪に対する神の裁きが息子の命を取ることなのかと、エリヤが来たことで自分たちにもたらされたのは結局、死と言う裁きなのかと、エリヤにぶつける母親の悲痛な叫びが、私たちの胸に重く響きます。子どもがいればこそ、困窮した生活に耐えることもでき、息子の成長が希望となってきたのでしょう。息子が居ない今、耐える意味が分からない、自分の命の意味も分からない。死の力は、結局は全てを奪ってしまうのだという虚しさに、母親は呑み込まれつつあります。エリヤは母親の嘆き悲しみに胸を痛めたでしょう。エリヤ自身も、身を寄せている家の息子の死に、耐えがたい思いを募らせたでしょう。エリヤの祈りも、悲痛な叫びのようです。しかしエリヤは、苦難の中からの助けはただ神さまにあることを確信しています。この子の命を元に戻してくださいとのエリヤの訴えに応え、神さまは息子を生き返らせてくださいました。主の助けに信頼し、自分の全てを投げ出して祈る者の祈りに、神さまがみ業をもってお応えになりました。息を吹き返した我が子を腕に抱き取った母親は、あなたは神の人であると、神さまが遣わされた人であることが今わかったとエリヤに言い、主の言葉は真実であると、神さまへの信頼をはっきりと口にしました。神さまが息子の命を回復してくださったことによって、自分自身も、死の力に呑み込まれ、死んだも同然であったところから、回復されました。神さまが与えてくださった命を、息子と生きてゆく力を与えられました。息子も母親も、いつか死によってこの命の歩みに終わりがもたらされるでしょう。それでも、その歩みは死に呑み込まれ、死に支配されたものではありません。一人一人に生きることを願ってくださり、そのみ業はいつも人が神さまの祝福の中、生きていくためのものであります。この神さまの言葉こそ、真実であることを知った母親は、神さまの言葉に道を示されつつ歩むことを願う者となったことでしょう。神の民イスラエルが王も民も神さまの言葉に耳を傾けなくなってしまっていた時代に、神さまは、神さまから遠いところにあると神の民から思われていた一人のやもめに、預言者を通してご自分の言葉をもたらしてくださり、やもめは神さまの言葉に耳を傾けました。神さまはこのやもめを、恵みで満たしてくださいました。人を真に生かすことができるのは、ただお一人の神さまです。
エリヤもこの親子も、死が迫る危機の中で神さまの言葉に導かれ、死の只中から神さまによって救い出されました。神さまの言葉が真実であることに信頼するエリヤややもめの勇気ある行動や祈りを通して、自分の力では命を造り出すことができない者に、自分の力では命を守ることができない危機の中で、命を与え、真に生かし、養ってくださいました。ローマ書でパウロが述べているように、神さまは死の力を越えたお力で人に命を与え、無から有を呼び出される方であります。自分や自分の大切な人々が死の力に呑み込まれてゆき、死の力の中で弱ってゆくことに脅える私たちに聖書は、神さまが私たちの主イエスを死者の中から復活させられたことを告げます。主イエスが自分の罪のために死に渡されたことを信じる者の罪を赦し、義とするために、神さまはみ子イエスを復活させてくださったと、聖書は福音を告げます。エリヤの時代のイスラエルの民は、雨が降らず、糧を得ることができない危機の中にありました。しかし彼らはそれ以上に、神さまの言葉に耳を傾けられない危機の中にありました。神さまの言葉は真実であることに信頼しきれず、魂が飢え渇き、飢え渇いていることに気づけない危機の中にありました。主イエス・キリストは、大勢の人々をパンや魚で養い、弟子たちや罪人たちと食卓を何度も囲んでくださいました。病人を癒やされ、死者をよみがえらせてくださいました。人々を養い、癒し、十字架の死と復活を通して、私たちに与えてくださる命を示してくださいました。死も滅ぼすことのできない命、キリストによって魂を養われて生きる命を与えてくださいました。独り子を世に与えてくださった神さまこそ、全ての者にこの命を与えることを願っておられる神さまです。力ある人間の権威や、偶像や、死の力でさえも、神さまに並ぶことはできません。私たちはただお一人の神さまに従う道を、「主の言葉は真実です」とサレプタのやもめと共に神さまへの信頼を告白しつつ、神さまの言葉に足元を照らされつつ、進みます。
