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神がすべてとなられる

2026.1.25.主日礼拝

イザヤ60:19-22コリント15:19-28

「神がすべてとなられる」浅原一泰

 

ヤン・フスという人物の名前を聞いたことはあるだろうか。時はあのマルティン・ルターやカルヴァンよりもおよそ一世紀ほど前、チェコのプラハ出身のフスは彼よりひと世代前の神学者、イギリスのウィクリフの考えに賛同して、財政を建て直すためだけに教会が発行していたあの免罪符(贖宥状)を批判し、聖書のみが信仰の根拠であると訴え、ローマ教皇の支配に反する声明を出して、後の宗教改革運動の先駆者となった人物である。当時のローマ・カトリック教会の体制では、聖書はラテン語で記されたもののみが用いられ、日常の生活を営む一般の信徒達には皆目分からない言葉でただ形式的に礼拝が進められていくだけであった。信徒たちはただ神父や司祭の言う通りにしていれば良い、そうすれば間違いを犯すことはないのだ。そんな形式だけの閉塞感が漂う教会の現状をフスは憂いて、ラテン語ではなくチェコ語で、つまり誰にでも分かる言葉で大胆に説教をしたと言う。そして聖人崇拝や修道院など、カトリック教会が神以外のものを礼拝させようとしていた姿勢を激しく批判したと言う。教会の伝統や煉獄といったものがダンテの「神曲」の中に物語風に描かれるが、その頃のカトリック教会では煉獄は地獄に行く手前の人間が苦しみ試される場所であり、そこで悔い改めることが出来れば未だ救われるとされ、更にはローマ教皇には一切罪がないとされていた。しかしフスはそのようなカトリックの教えをことごとく批判し、そんなものは無用であると市民達に訴え続けた。なぜなら聖書にそんなことは一言も書かれていないからである。聖書にないことを教会が勝手に押しつけようとしていたことだからである。形式や伝統、現状の維持とか体制の安泰と言ったものに拘るカトリック教会はフスを尋問し、発言の撤回を要求するのだが、フスは自らが信じる真理と良心のゆえに取り消すことは出来ないときっぱり答えた。そうして彼は異端と言い渡され、悪魔の絵が描かれた帽子をかぶせられて火あぶりの刑に処せられる。異端により死刑との判決が下された時のフスの顔には微笑みがひろがっていたという。また、実際に処刑される直前、彼はこう祈ったそうである。「主イエス・キリストよ、私は、この残酷な恐るべき死の苦難を、あなたの聖書のゆえに、またあなたの聖なる御言葉の説教ゆえに、恭しく甘受したいと望みます。どうか、私のすべての敵の罪をお赦し下さい」と。そうして炎の中で息絶えるまで彼は神を賛美し続けたと言う。こうして殉教の死を遂げていったフスと、フスを火あぶりの刑に処した当時の教会と、果たしてどちらが神を信じていたと言えるであろうか。どちらが、神から与えられた命に生かされていたと言えるであろうか。主がとこしえの光として輝いていたのは、どちらの側の上であっただろうか。見た目にはカトリック教会は生き延び、フスは死んだ。しかしながら、たとえ肉の命は滅んでも、神がその人に息を吹き込んで与えた真の命に生かされていたのは紛れもなくフスの方ではなかっただろうか。先ほどのコリント15章にはこのように書かれていた。

 

「それから、世の終わりが来ます。その時、キリストはあらゆる支配、あらゆる権威と勢力を無力にして、父なる神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が無力にされます。」

 

聖書はそこで、「キリストは地上のすべての支配、権威を無力にし、最後の敵として死を無力にする」、と語っていた。いまわの際まで、命が尽き果てるまで神を褒め称えながら死を受け入れたこのフスの姿はまさしくこの御言葉の証しではなかったか。神の栄光に包まれながら死を呑み込んだ彼の姿にまさるほどのこの御言葉の証しは、どこをどう捜してもそうは見つからないのではないだろうか。フスの時代から遡ること1400年前、ご自身が死からよみがえられたキリストは、このフスという人物の生き方を通しても紛れもなく、最後の敵である死を滅ぼしておられた。そうではないだろうか。それはフスが偉大な人物であり、類い希なる逸材であったからなのだろうか。そうではない。また、決してそうであってはならないと思う。だったらなぜ先ほどの聖書は、キリストは「眠りに就いた人たちの初穂となられた」と伝えていたのだろうか。偉大な人物や逸材だけではない。周りから信仰の強さ深さを崇められていたような人間だけではない。むしろキリストは、誰も知らないような、弱く貧しくいと小さき存在にこそ眼差しを向け、全ての人間を死で滅びない真の命へと生き返らせる。その為の初穂となられたのだと。聖書はそう告げていたのではなかっただろうか。

 

 

では今ここにいる我々においても、既に死は滅ぼされていると言えるであろうか。クリスチャンは決して死なないと聖書は言っているのであろうか。そうではない。断じてそんなことはない。我々は誰もが死を恐れている。死を受け入れたくないと思っている。礼拝を守り、御言葉に真剣に耳を傾けることは大事であるとは分かっているが、それよりもやはり死を免れたい。肉をもった人間である以上はそう思っている。「私を信じる者は誰も、決して死ぬことがない」というキリストの福音の言葉よりも、肉体の死が訪れないように健康維持に役立つ情報をついつい本能的に重んじてしまうことはおそらく誰も、否めないだろう。なぜなのだろう。それは我々において未だ、神がすべてにおいてすべてとなられてはいないから、なのではないだろうか。もう一か所読まれた旧約聖書の中で、預言者イザヤが預言した「あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる」というあの言葉はあくまで希望に過ぎないのであって、実現したなどとはまだ絶対に言えないからである。そうである以上は、神がすべてとなられている、などとはとても言えない。その日その時はまだ遠い遙か彼方にあることを認めなければならない。そうなるようにと何千回、何万回祈ろうと、多額の献金をささげようと、フスの時代の腐敗した教会はそれで喜んだだろうが神は喜ばれない。無駄である。そんな自分本位の祈りをすること自体が不信仰であるように思う。自分から良くなりたいと思っても我々は絶対に変われないだろう。では諦めるしかないのか。そうではない。聖書はそう語りかけているのではないだろうか。「言は肉となって私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)。これがヨハネ福音書が伝えるクリスマスの出来事である。我々の奥深くにキリストが宿っておられる。更に今朝読んでいるコリント15:3以下にはこう書かれている。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです」。少し飛ばして8節にはこう綴られている。「そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」。

 

この手紙の著者パウロは、復活のキリストに出会う前、つまり信仰を与えられる前は自分こそが神の誉れを受ける勝利者だと自負していた。キリストなんかに尻ぬぐいしてもらったと思い込むのは神への冒涜だと教会を迫害していた。信じる前、我々がまだキリスト教や教会にためらいや迷いを抱いていた頃も、キリストが十字架の上で死なれたことは理解できても、そこからよみがえられたとは、直ぐには受け入れられなかった筈だ。しかしそんな我々が一人一人時は違っても信仰を与えられクリスチャンとされたのは、我々にも死からよみがえられたキリストが生きて語りかけてくださったからであろう。ということは、我々のただ中において、キリストの支配が既に始まっているのである。そうであるのに、まだそれに本当の意味で気づいていないのは我々の方なのではないだろうか。それを忘れてしまうのが我々の現実の姿なのではないだろうか。そうであるから我々は今なおキリストの支配に委ね切れずに自分にしがみつき、罪の誘惑に唆され、流され続けてしまっている。そうして取り敢えず現状に満足できればそれでいい、満足できればイエスの復活などあってもなくてもいい、理解できなくてもいいとつい考えてしまうところがある。パウロがこの手紙を書き送った二千年前のコリントの教会の信徒達も、まさしく同じような考えだったに違いない。

 

では我々はどうすれば良いというのか。どのように信じれば間違わない、正しい信仰となるのか。私はこう思っている。そんな都合の良い答えなどあるわけがない。これさえ信じていれば間違いない、こう祈ればいい、などという手っ取り早い答えなどあるわけがない。世にある限りは、我々のおぼつかない歩みの中で、危なっかしい歩みの中で、それでも我々のただ中におられるキリストが生きて働いて下さる、そのことを信じること。それ以外に道はない。そのキリストを信じて、委ねる以外に答えはない。既に始まっているキリストの支配に自らを委ねる以外に道はない。確かにそれは茨の道であると思う。罵られ、嘲笑われる時もある。主がとこしえの光となられる時まで、我々の嘆きの日々は決して終わることはないだろう。しかしそれでも、聖書ははっきりと約束している。「神がすべてにおいてすべてとなられる」と。我々一人一人において、神がすべてにおいてすべてとなられるその日その時まで、キリストに従う以外に道はない。すべてを服従させた上で、父なる神に国を引き渡されるこの方を信じて従っていく。それ以外に何もいらない。この方を信じて委ねる以外に、何をくどくどと祈り、願う必要があろうか。ないのである。必要な祈りがあるとすれば、たとえ話に出てくるあの徴税人のように、委ねることも出来ていないのに、こうして下さい、ああして下さいと口走ってしまう己自身の信仰の弱さ貧しさをしかと見据えつつ、「信仰なき我をお赦し下さい」と祈ることしかないのではないだろうか。

 

 

 

我々は未熟である。しかしだからこそ神は御子をこの世に遣わされた。世にある私たちの中で、御子キリストの産声を上げさせ、滅ぶべき私たちの身代わりとして御子を十字架にかけられることで、私たちの悪しき罪をも滅ぼされた。十字架の死から復活されたキリストはその私たちを生まれ変わらせ、支配を始めておられる。しかし当の我々は依然として未熟のままである。キリストが始めておられる支配を、自分だけのものと考えてしまう。自分だけ、自分の教会だけが正しければ良いと、それで安心しようとしてしまう。しかし明らかにそれは、神がすべてにおいてすべてとなられる、ということとは違っているのではないか。神がすべてとなられるのは、私のみにとってでも、横にいる信仰の親しい仲間のみにとってでもない。未だ見ぬ隣人や若者、子供たちの為でもある。自分の知らない世界の為でもある。敵の為でもあるのである。キリストが支配を始めておられるのは、その為に神が自ら人となって十字架の死をも背負われたのは、神を神として仰ぎ見なかったこの世を振り向かせる為、ご自身を頑なに受け容れなかったこの私を、あなたを、そして全ての人間を御自分の方から受け容れて下さる為だったのである。そのキリストの福音を、どうして私の為だけ、などと私物化できるであろうか。この世にはキリストに招かれていない人間がいる、などとどうして断言できるであろうか。憎い相手を思い浮かべて、あの人はキリストに呼ばれていない、などと考えるのなら、そう思う人自身がもう既にキリストの福音から外れている。キリストは全ての人間を神と仲直りさせる為に世に来られた救い主である。のみならず動物、自然の生き物を含めた世の全ての命あるものにとっても神がすべてとなられる為に世に来られた神の独り子である。神がすべてにおいてすべてとなられる。分け隔てなく全ての人間にとって。それは生きている者に限らない。既に眠りに就いた方々にとっても、である。のみならず狼にとっても小羊にとっても豹や小羊、毒蛇にとっても、世の全ての命あるものにとって、まさしく神がすべてにおいてすべてとなられる。それこそが神の支配の完成の時である。その日その時こそが我々が目指すべきとされる本当のゴールである。そうなるまでは、キリストは生きて働き続けておられる。先月も申し上げたがその時が来るまではクリスマスは完成しない。アドベントは毎年訪れる。今はそこに辿り着く為の一里塚に過ぎない。結局我々は一里塚を生きているに過ぎない。それなのに、こう祈れば間違いないとか、こう信じれば間違いなくなるとか、そんな目先のことを思ってしまうこと自体が本末転倒であると気づかされたい。むしろ、過ちを繰り返し続ける愚かな者でありながらも遙か彼方にあるその日その時を目指して歩む命とされている主の恵みに立ち返り、その光栄に感謝し、キリストに従う。そう言う一人一人からなる群れへと成長させられたい。