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神の知恵

「神の知恵」列王上31015、マタイ122842

2026111日(左近深恵子)

 

昨年のアドヴェントに入る前まで、旧約聖書からダビデの物語を聞いておりました。今日から再び旧約聖書を中心に聞いてまいります。本日は、ダビデに次いでイスラエルの民の王となったソロモンについての箇所です。ソロモンの治世において、イスラエル王国は隆盛を極めます。ダビデ王が周囲の敵対する勢力を打ち負かしたことで、ソロモンの時代になってからは敵との大きな闘いはほとんどなく、比較的平穏な時代にあって、ソロモンは外交や国内の統治に専念することができたことにもよりますが、王としての働きが知恵に溢れたものであったことも、繁栄を後押ししたことでしょう。その知恵は、神さまから与えられたものであったことが、今日の箇所で述べられています。

 列王記の1章から2章には、ソロモンがどのようにしてダビデの後を継いで王となったのか、記されています。ダビデには複数の息子がおり、この時代、必ずしも年長者が王位を継ぐわけではなかったので、ダビデが生きている時から息子たちの間では王位を巡る駆け引きや対立が生じていました。ダビデに対して反乱を起こした者もいました。そうした争いの結果、長男は三男に殺され、三男は反乱の罪で殺されました。次男は全く言及されておらず、ダビデの晩年には、最も有力な王位継承者は、その時点で年長者であった四男となっていました。ダビデが高齢のため弱り伏せることが多くなると、四男は「私が王である」と名乗りを上げますが、すかさず五男であるソロモンを擁立する動きが起こり、ソロモンがダビデの後継者であることがダビデによって宣言され、ソロモンに王として油が注がれます。四男は退けられ、四男が王位に就くことを指示した民の指導者たちも、国の中心から遠ざけられます。やがてダビデに死の時が近づくと、ダビデはソロモンに遺言を与え、こう言います。「あなたの神、主への務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおりに、主の掟と戒め、法と定めを守りなさい。そうすれば、何をしても、何処に行っても成功するだろう」。続けてダビデはソロモンに、そのようにして心を尽くし、魂を尽くして誠実に神さまのみ前に歩む道を守るなら、イスラエルの王座につく者は絶えることはないと言います。かつて神さまがダビデに告げられた、ダビデに続く王座を永久に固く揺るぎないものとするとの約束を思い起こしつつ、ソロモンが神さまの道を守って歩むことが、この約束に参与することになることを示したのです。こうして神の民の王として最も大切なことを告げた上で、ダビデはソロモンに、幾人かの人物の名前を挙げて、それらの内過去に流さなくて良い戦いの血を流した者たちに対して裁きを下すことを、良い行いをした者については報いを与えることをソロモンに託します。その務めを「あなたは知恵を働かせて」行いなさい(26)と告げ、あなたは知恵ある者だから、為すべきことは分かっているはずだ」と言っています。ソロモンは、父王ダビデから知恵ある者と評されるほど、知恵に秀でた者であったことが分かります。父親が高く買ったその知恵は、ダビデの死後、ソロモンは利害関係が複雑に入り組む状況の中でダビデから託されていた人々の動きに目を配り、陰謀の兆しがあれば直ぐに指示を出し、裁きと報いを一人一人にもたらしたことに見て取れます。ソロモンにとって不安定要因となり得る者たちが裁かれ、滅ぼされたことを述べてきた2章の最後は、「こうして王国は、ソロモンの手によって確かなものとされた」との言葉で締めくくられています。ソロモンが知恵をもって手を打ってきたことによって、盤石な体制が整えられたのです。

ソロモンは更に手を打ちます。3章の初めに、ソロモンがエジプトの王ファラオの娘と結婚したことが述べられています。律法では異教徒との結婚が戒められています。異教の神への礼拝が神の民の生活の中に入って来ることによって、ただお一人の真の神さまへの礼拝が揺らいでしまう恐れがあるからです。しかしソロモンは律法に反し、大国エジプトとの平和的関係を保つため、政略結婚をします。それによって暫くの間、平穏な時代がイスラエルにもたらされます。これもソロモンの知恵によるものと言えるでしょう。

3章は続いて、ソロモンが主なる神を愛する者であり、神さまへの礼拝を大切にしていたことを伝えています。ソロモンは聖所の祭壇に、1,000頭もの焼き尽くすいけにえを捧げて主を礼拝します。夥しい数のささげものは、ソロモンに神さまへの感謝や献身の思いを表していると言えるでしょう。しかしまた、ソロモンの内なる不安の大きさ、神さまに助けを求める思いの強さをも反映していたのかもしれません。

その晩神さまは夢を通してソロモンに語り掛け、「願いごとがあれば言いなさい。かなえてあげよう」と言われます。ソロモンの感謝、献身の思いを受け止め、ソロモンの内なる求めをご自分に訴えることを促し、ソロモンに援助を惜しまない方であることを示されます。不安定な要因を一つ一つ取り除いてきたソロモンでありますが、それでソロモンが安心できているかと言うとそうでは無いことを神さまはご存知です。そのソロモンを神さまがご自分との生ける交わりの中に置いておられることが伝わってきます。神さまの言葉に導かれ、ソロモンは神さまに祈ります。先ず神さまがダビデに注いでこられた慈しみをたたえ、その慈しみによって自分をダビデの次の王としてくださったことを感謝します。自分は神さまによって王として立てられ、神さまによって王であり続けられていることを改めて確かめた上で、内なる思いを明らかにします。敵対する者には勿論、周囲の人々にも知られたら、どう悪用されるか分からない、王としては全てを明らかにすることができずにいたであろう不安も、神さまのみ前に願いを注ぎ出します、「私は未熟な若者で、どのように振る舞えばよいのか分かりません。僕はあなたがお選びになった民の中の1人ですが、民は多く、その多さのゆえに数えることも調べることもできません。どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください」(379)。ソロモンの願いは唯一つ、「心」です。「訴えを聞き分ける分別」、「知恵に満ちた聡明な心」を求めます。父王から「知恵ある者」と言われるほどの者であり、その知恵によって、対立と思惑と策略が渦巻く現実を勝ち抜き、不安な芽を極力取り除いてきたソロモンです。しかし王としての働きを通して、そのような知恵だけでは神の民の王は務まらないことを思い知ったのでしょう。

 ソロモンの願いは、神さまの喜ばれるものでした。ソロモンが願わなかったことについてもそうでありました。長寿や、豊かな富や、敵に対する勝利は、いつの時代も世の王たちが欲する者であります。王に限らず、健やかに過ごせる年月が少しでも長くあって欲しいとの思い、自分の努力や忍耐が安定した生活につながることへの願い、自分の思い描く道行きを妨げるものに死がもたらされることを願う思いは、誰の中にもあるものでありましょう。そのような自分の思いが満たされることについては何も求めず、ひたすら神の民の王であるための知恵に溢れた心を求めるソロモンを神さまは喜ばれ、知恵に満ちた聡明な心のみならず、ソロモンが自分自身のために願わなかった幸いも与えることを約束されました。このことから神さまは、健やかな長寿や豊かな暮らしを人が願うべきものではないから、ソロモンが願わなかったことを喜ばれたのでは無いことが明らかになります。自分のためにこれらを望むより、ただ神の民のためになることを求めたソロモンを喜ばれ、ソロモンに知恵だけでなく、必要なものを、それどころか並び立つものが無いほど豊かな幸いをもって祝福することを望まれました。ただし、最後に重要なことを述べられます。「父ダビデが歩んだように、あなたが私の掟と戒めを守り、私の道を歩むなら」と。神の民は、神さまが与えてくださった契約によって神の民とされています。神の民もその王も、神さまとの契約による神さまとの関係に生きる者であります。神さまから慈しみばかり求めて、自分が神の民として歩むことは忘れ去るなら、神さまを願いを叶えてくれる自分用の打ち出の小槌のようにみなしてしまうことになります。そうではなく、神さまのご意志にお応えする神さまの道を歩んでゆくように命じられる神さまの言葉は、ダビデの遺言の言葉と重なります。夢から覚めたソロモンは、早速その第一歩を刻みます。エルサレムに帰ると、改めていけにえを捧げて、公の場で神さまにお応えします。こうしてソロモンの治世は、神さまの祝福によって、後に「ソロモンの栄華」と呼ばれるような繁栄を迎えるのです。

 自分自身のためよりも民のために神さまに願い求めるソロモンの姿勢は、民や自分を言い表すソロモンの言葉にあらわれています。ソロモンは民のことを8節で「あなたがお選びになった民」と呼び、また繰り返し「あなたの民」と呼んでいます。ソロモンが王として治める人々は、自分の支配下にある自分が自由にして良い人間の集団ではなく、神さまがご自分の民とされ、神さまの祝福の源としてお選びになり、ご自分の民とされ、奴隷の地から救い出し、神さまの許から離れ出てしまうことを繰り返すこの民を約束の地まで導いてくださった民であることを言い表しています。ソロモンは、この神さまの民を神さまから託されているのです。

 ソロモンは自分自身のことも、「あなたがお選びになった民の中の1人」(8)と言い表し、繰り返し「僕」と呼んでいます。自分は、自分の知恵と自分の力で王座を獲得した王ではなく、神さまの民の1人であり、民の中から王として立てられた神さまの僕の1人であり、神さまから託された民を治めるための道は、神さまからのみ与えられること、そのために必要な知恵も神さまからのみ与えられることを確信しています。自分の務めは、真の王である神さまの統治が、神の民の間に行き渡るものであることを知る者であるのです。

 神さまが喜ばれたこのソロモンの在り方は、神の民の指導者に求めるものとしても、一人の神の民としても、私たちに多くの大切なことを示してくれています。自分が身に着けてきた自分の知恵を誇りとすること、そこに拠り頼むことを止め、自分が不十分なものであることを神さまのみ前で認め、受け入れ、神さまからの助けを求めることなくして真の安らぎは無いからこそ、神さまに救いを求める在り方を教えられます。これまで神さまが神の民の歴史の中で与えてこられた慈しみを思い起こし、感謝しつつ、その慈しみが今も神さまから注がれることを求め、求める者に助けを与えることを惜しまない神さまによって、不十分な自分であっても神さまの道を歩んでゆけるのだと神さまの導きに信頼し、主を愛し、主に礼拝を捧げることから、神さまとの交わりの中にある歩みが始まることを知りました。何でも望むことができる自由の中で、唯一つ、善と悪をわきまえることができる知恵に満ちた聡明な心が与えられることだけをひたすら求めたソロモンの願いの貴さを教えられ、神さまの道を歩むことを何より求める者には、その他、人に必要なものが何であるのか全てご存知である神さまが与えてくださることも、思わされます。

王位継承権を巡る、生き馬の目を抜くような駆け引きと戦い、残酷な粛清とも言える、危険な存在となり得る人物たちの排除によって、ソロモンはダビデの後継者となることができました。私たちにはそれらについて簡単に判断することはできません。誰の中にも、危険を回避し、自分に害を及ぼすものを力によって排除したい思いはあります。ソロモンも、勢力争いの醜さに全く染まらないでいることはできない者の1人でありました。そのソロモンと言う人を、神さまは神の民の王とされました。ソロモンの誕生はそもそも、母バト・シェバが、ダビデの深い罪によってダビデの妻とされたことに遡ります。その罪に染まった関わりをも貫いて、神さまは神の民の王を立てられました。ダビデからソロモンへの王位の継承は、王位を巡る争いを超えて、神さまの祝福の継承であります。ダビデをはじめ、人と人との関係を壊し、涙も血も流させ、自分自身をも蝕む人間の罪を貫いて、神さまはご自分の祝福を受け継ぐ務め、他の人々に祝福をもたらす務めを、神の民とその王に委ねてくださいます。人の浅い知恵では神さまの祝福を担い通すことができないから、私たちには神さまからの知恵が絶えず必要なのです。

その後、神さまからの知恵によって為されるソロモンの裁きは、他の国々にも知れ渡るものとなります。遠い南の国、シェバの女王までソロモンの知恵の言葉を聞こうとやってきたことを、列王記は記しています(10章)。主イエスはこの出来事とソロモンの驚くべき知恵を思い起こしつつ、「だが、ここに、ソロモンにまさるものがある」と人々に言われます。「ソロモンにまさるもの」とは、主イエスのことです。これは、ソロモンと主イエス、それぞれに神さまがお与えになった知恵を比べて言われているのではありません。イエス・キリストは、神さまの祝福の内に歩み、祝福の源となって他の人々にも神さまの祝福をもたらし、神さまに喜ばれる善とそうではない悪をわきまえる、この神さまに従う道を歩む生き方を人々に本当に得させることができる、神さまが私たちに与えてくださった知恵です。独り子を私たち罪人の代わりに犠牲にしてくださる神さまの義こそが、私たちを罪の支配から救い出し、罪の内に死んでゆく死の力から救い出し、神さまの祝福の中に死を超えて生きる道をもたらしてくださいました。この道こそ義しい道であると知ることは、私たちが世を巧みに生き抜くために身に着けてきた知恵によっては為し得ません。キリストによって示され、信仰によって受け止める道です。真の知恵なるキリストは、町や村を巡って、「神さまの国」、つまり神さまのご支配がご自分において到来したことを述べ伝えられました。そして、ただひたすら、神の国と神の義とを求めるように教えられました。栄華を極めたソロモンにも勝って野の花々を美しく装わせてくださる天の父なる神は、あなたがたに必要なものをご存知であると、だから、自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い煩わず、まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられると人々に語られました(マタイ62533)。ご自分が「道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ146)と言われたキリストが、十字架でご自身の血を流し、ご自身の肉を裂いて、私たちにその道を示し、その道を切り拓き、ご自身の後に従って歩むことができるようにしてくださいました。この方こそ、真の知恵です。

 

神さまが喜ばれたソロモンのように、神さまが示される道に従う備えができている者として、神さまのみ前に自分を据えるところから、この礼拝から、新しい歩みを始めたいと思います。ソロモンのように、神さまが通してこられた慈しみと救いの道を感謝し、神さまに新しい心を祈り求め、その心に神さまからの知恵が溢れんばかりに与えられることを祈り求めたいと思います。