「シメオンの祈り」イザヤ52:7~10、ルカ2:21~32
2026年1月4日(左近深恵子)
イエス・キリストがお生まれになった日がいつであったのか、聖書には何も記されていませんが、教会は主のご降誕を12月25日と定めるようになり、ユダヤの人々の一日が日没から始まることを踏まえて、24日の夕方から25日にかけて、クリスマスの礼拝やお祝いをしてきました。主イエスのご生涯の始まりを12月25日から辿り始めるなら、1月1日も心に留めるべき特別な日となります。それは、キリストが「イエス」と名付けられた日と言えるからです。ルカによる福音書の2:21にあるように、お生まれになって8日目に、幼子は割礼を受け、イエスと名付けられました。他のユダヤのこどもたちと同様に、律法に定められた期間の後、律法に定められた割礼を受けられたのです。神の民ユダヤの一人としての人生の始まりを、両親が丁寧に整えたことが伝わってきます。そして両親は幼子に、み使いを通して神さまが示された「イエス」という名前を命名したのです。
ルカによる福音書はクリスマスの出来事に至るまで、洗礼者ヨハネの誕生と、キリストの誕生に至る二つの流れを語ってきました。二つの流れは、ヨハネの出来事が一歩先行しつつ、時に交差しながら進んできました。それぞれの両親となる者たちにみ使いがこどもの誕生を告げ、妻や婚約者の思いもよらない妊娠が起こり、出産の時が来て、幼子にそれぞれ神さまから与えられた名前が命名されます。同じようなことが起きてゆくからこそ、違いも際立ちます。洗礼者ヨハネの両親となったザカリアとエリサベトが、神さまから示されていたヨハネと言う名前を付けようとすると、周囲の人々が反対します。その反対を押し切ってヨハネと言う名前が付けられるまでが、詳しく語られます。けれどキリストの命名については、僅かな記述だけです。羊飼いたちが神さまの栄光の光と天の軍勢の賛美に包まれ、大いに活躍した、祝福に満ちた出来事から一変、命名の場面では人々の存在は背後に退いています。明らかにそこに居て、命名の務めを果たしたヨセフも、キリストを胎に宿したマリアも、ここでは名前が述べられていません。福音書は静かに、イエスというお名前の真の命名者は神さまであることを明らかにします。クリスマスの出来事は、神さまが預言者を通して約束してこられた救いの実現を、神さまが始められた出来事です。神さまが救い主を、地上の歴史の特定の時に、特定の場所に、人としての名前を持つ方として遣わしてくださいました。その名は、ユダヤの民にとって一般的な名ではあるものの、「主は救う、主こそ救い」を表す名前でした。この神さまのみ心と神さまのみ業が、私たちに罪の支配からの救いを実現してくださいました。1月1日は私たちの社会にとっては新年最初の日でありますが、イエス・キリストに従って歩む者にとっては、主イエスのお名前の下に新たに始める1年の初めの日であるのです。
イエスとのお名前をもって生涯を始められた救い主との出会いを、神さまは2人の人に与えられました。それはエルサレムの神殿でのことでした。
その日マリアとヨセフは、幼子を抱いてエルサレムの神殿に神さまを礼拝するために来ました。命名の日から更に日を重ね、律法に定められた生後40日という期間が満ちたので、産後のマリアのため、また幼子を神さまにささげる祭儀のためです。出エジプト記の、神さまが神の民に与えられた言葉が引用され、幼子をささげる祭儀は、出エジプトの過越しの出来事に遡るものであることが示されます(23節、出エジプト13章)。エジプト中の家の初子が撃たれた日、神さまの言葉に従い小羊の血を家の戸口に塗ったイスラエルの家の初子は撃たれずに救われ、イスラエルの民はとうとう奴隷の地から救い出されました。この救いのみ業を思い起こし、最初に生まれた子どもは神さまに捧げ、神さまの恵みによってお返しいただく祭儀を行うようになりました。家族に新しい命を神さまが託してくださったことに感謝しつつ、自分たちも子どもも、その命は神さまから与えられたもの、神さまの救いのみ業によって与えられたものであることを受け止めたのでしょう。神さまの救いのみ業とは、罪と、罪の末の死からの救いでありました。その救いのみ業の上に、新しい命を神さまから託されていることの重みを、親たちは噛みしめたのではないでしょうか。
救い主と二人の人物の出会いの出来事には、主にあって罪と死を見据える姿勢が一貫してあります。初子を神さまに捧げ、お返しいただく祭儀が先ず、罪と死の支配からの救いを前提に為されるものであります。二人の人も、罪の力と死に向かい行く命を見据えてきた者たちでした。1人目のシメオンは、主なる神が遣わされる救い主メシアをひたすら待ち続けてきました。救い主にお会いするまでは死ぬことが無いと、聖霊から告げられていました。「正しい人で信仰があつ」い人であったとあります。日々の生活の中で律法の規定を抜かりなく守り通せているかどうかという意味に留まる正しさというよりも、律法を通してご意志を示し、そのみ心に人々が応えることを求めておられる神さまにお応えしようとする人、世のどのような力よりも神さまを畏れる人であったことを指すのでしょう。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたともあります。罪を赦され、罪の支配から導き出されなければ、本当の意味で慰められることはありません。慰められるとは、救われるとも言い換えられます。神さまが約束された救いが到来し、神の民イスラエルが慰められることに信頼し、希望を失わず願い続けてきました。世のどのような支配者や権威よりも神さまを畏れる信仰あつい者が、何の苦労も無く神さまに信頼し、希望を持って人生を歩み続けられるということは考えづらいのではないでしょうか。主イエスがお生まれになった時代も、神の民の間でも、罪が生み出すものに、互いの罪によって共鳴し合い、闇のような力は絶えず人々の心を惹きつけ、麻痺させていたことでしょう。正しい信仰あついシメオンの人生とは、希望と共に、罪が生み出す闇に歩みを阻まれる労苦も負い続ける日々であったでしょう。その年月を耐えて歩み続けられたのは、シメオンに留まってくださっている聖霊のお働きによって信頼と希望を力づけられたからでしょう。「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない」との神さまからの約束はシメオンに、希望を与えるだけでなく、絶えず死というものを突きつけたことでしょう。シメオンが自分の視野から死を締め出すことなく、約束と死を共に見据えることができてきたのは、聖霊のお働きに自分自身を開き、神さまの導きを求め続けたからではないでしょうか。
この日シメオンは神さまの導きの内に、神殿の境内で、両親に抱かれて入って来た救い主を見出すことができました。自分の腕に抱き止め、腕の中の幼子の体温の温かさや呼吸や脈を感じながら、生ける神の救いが到来したことを知ることができました。救い主を抱いている自分こそ、神さまの救いのお働きに抱かれている者であることを知ったシメオンは、生きてゆく日々も、死の時も、神さまからの平安の中にあり続けられることを確信し、神さまの平安の内に去ることができると神さまをほめ讃えました。この時のシメオンの歌は、ラテン語訳の始まりの言葉から、ヌンク・ディミティスと呼ばれるようになりました。この後歌う讃美歌180番も、ヌンク・ディミティスの一つです。ルカによる福音書には、マリアやザカリア、羊飼い、シメオンといった、キリストの誕生に関りを与えられた人々の讃美の歌や天使の歌が溢れています。聖書からその歌の言葉を知ることができるものを教会は歌い継ぎ、それら一人一人の信仰の歩みに続く思いを新たにしてきました。
罪と死に阻まれない神さまの救いがこの幼子において到来したことを確信したシメオンだからこそ、ヨセフとマリアに対して、子どもの誕生の祝福を述べて終わりにはしません。救い主の母とされた人に、真実を隠した表面的な挨拶で済ませることなどできません。シメオンはマリアに、「剣があなたの魂さえも刺し貫く」と、母親とされたあなたがそれほどに痛みに苦しむようなことがこの先起こると言います。なぜなら「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ」、それによって「反対を受けるしるしとして定められている」からだと。キリストとの出会いによって明らかになる人の心の思いとは、神さまが自分の神であられ、自分ではなく神さまが自分の救い主であることへの抵抗であり、その思いは容易く他者とも共鳴し合って、遂に十字架によって主イエスの存在を取り除こうとします。主イエスは、その十字架の死を目指してお生まれになったのだと告げます。シメオンに留まっていた聖霊が、シメオンに力を与え、語るべきことを与えてくださったのでしょう。罪と死からの慰めを待ち望んできたシメオンは、救い主の到来を確信したからこそ、この先より露わになってゆく人間の罪も、その闇を貫き、罪の奥底から人を救ってくださる神さまのみ業も、見つめることができたのでしょう。
「人の心の思いが現れるため」とシメオンは言います。新共同訳では「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」と訳されていました。人は心の奥底を覆い隠して、大したものはそこに無いかのように振る舞い、取り繕うことで、自分も他者との関係も守ろうとします。神さまとの関係においてさえも、自分の奥底にあるものを覆い隠そうとします。救い主は、人の心にある思いをあらわにし、人を奥底から救うために来られたのです。
ここで「思い」と訳されている言葉は、「計算して悪事を企む、計算した結果疑いを持つ、躊躇う、互いの価値を計算し合って争う」といった意味の動詞が基になっています。聖書でこの言葉が用いられるのは主に、主イエスに敵対する者たちや主イエスの弟子たちに対してです。この言葉は、主イエスが宣べ伝えられる神さまの国の到来、主イエスによって成し遂げられる救いが、自分たちのこれまでの生き方を肯定するものでないと抗い、敵意を持ち、主イエスの存在を消し去ろうと画策している敵対者たちの思いを表します。また、主イエスに最も近くあり、主イエスの言葉や主イエスの為さることに最も触れてきている弟子たちが、誰が自分たちの中で最も偉いのかと言い争う場面でも、用いられます。そのような人々の心の思いを主イエスは見抜かれます。彼らだけが特別に抱えている思いではありません。主イエスの母とされたマリアが、天使から「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と呼び掛けられ、戸惑い、「考え込んだ」と時、その考え込む思いもこの言葉によって表されています。人は他者と自分を比べたり、自分にとっての常識に照らし合わせては、自分にとっての益となるかどうか計算せずにはいられません。比べること、照らし合わせること自体というより、計算し、結果生み出すものが問題ではないでしょうか、人の計算から出てくるのは、疑いや躊躇、自分が他者より上にあるべきだとする思いです。パウロはそのような人の心を「虚しい思い」「愚か」と表現しています。神の民とされる恵みにあずかりながら、自分が生み出す思いによって心を澱ませ、神さまに従う道から離れ出てきた人々のことを、「彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、虚しい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」、「自分では知恵ある者と称しながら愚かにな」ったと、ローマの信徒への手紙で記しています(ロマ1:21~22)。比べ合い、計算することを知恵だと誇っては自分の心を澱ませ、闇に覆わせてしまいます。闇のような思いに浸食されたこのまま死んでゆくしかない不安を抱えた者にとって、死は決して勝つことのできない、ただただ恐ろしい力です。それらの思いが、救い主のみ前であらわにされます。闇に覆われた心ごと倒され、そこから救い主の命の値によって救われ、立ち上がらされます。シメオンの後に続いて慰めの中を行くことができます。私たちは何よりも洗礼において倒され、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる者とされるのです。
この日救い主にお会いすることができたもう一人の人物、アンナは、大切な人との死別の悲しみを若い時に味わった、高齢の預言者でした。人生の大半を、死の力を思い、消えることのない死の悲しみと共に歩んできた人であり、人生がこの先長くないことを知っています。世の物差しで計れば決して幸いとは言えない、死の力に倒され、弱らされた人生と言えるでしょう。しかしアンナは、幸いとは、悪いことが起こらないことよりも、救い主によって倒されること、そして罪と死の闇から救い主によって引き上げられることであるとこの日知りました。神さまの贖いを待ち望んでいる人々に救い主の到来を伝える幸いも知りました。過酷な人生を歩んできたその苦しみ悲しみと、預言者としての働きを貫き通した歩みによって、救い主の到来を受け止めることができ、心の奥底からも、存在の奥底からも救い出してくださる真の幸いの深さを深みから喜ぶことができ、他の人々に分かつ者となれたのではないでしょうか。人生の究極の幸いは、シメオンの言葉によれば「神さまの救いを見」ること、シメオンやアンナのように、救い主とお会いすることです。
この後聖餐に与かります。救い主は、聖餐において私たちが味わい知ることのできる、命の言葉となられました。聖餐を通して私たちは救い主とお会いし、イエス・キリストとの命の交わりが与えられていることを確信します。私たちの信仰の旅路に訪れる、あるいは訪れつつある死に打ち勝たれた救い主との交わりによって強められ、養われながら、この道を平安の内に歩んで行くことができます。シメオンの歌、ヌンク・ディミティスは、聖餐においても大切に歌われてきた讃美歌です。死を思いながら歩む者にとって、死に打ち勝たれたキリストに聖餐の食卓で見え、キリストの命である聖餐に与かることこそ、「主よ、今こそあなたはお言葉通り、この僕を安らかに晒せてくださいます」とのシメオンの言葉に、アーメンと、その通りですと、声を合わせることができるのではないでしょうか。
預言者イザヤは、「あなたの神は王となった」と、神さまからの救いを告げ、神さまの平和を告げる者の足は、「なんと美しいことか」と述べました。山の中という暗く、危険な地を進んでゆくその足は、藪をかき分け、岩場を進む中で、傷を負い、砂や土にまみれてゆきます。世の物差しでは美しさから遠い足で、苦しみ多き道を進んで行けるのは、この報せを運ぶことができる喜びがあり、神さまが共におられ、力づけてくださることへの信頼があるからです。シメオンはマリアとヨセフに神さまの救いの深さを伝え、アンナはエルサレムの贖いを待ち望んでいた人々に、神さまの救いと慰めの到来を伝えました。私たちも、真の慰めを待ち望み、教会に根を下ろし、祈りをもって奉仕を捧げ、神さまに仕えてきた人々によって福音が届けられたから、キリストに従う幸いを知ることができました。新しい年も、イエス・キリストのお名前の下に歩んでゆきたいと、シメオンの讃歌を私たち一人一人の歌として歌いつつ、福音を携え、分かち合う道を求めてゆきたいと願います。
