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神のためらい

2025.12.28.主日礼拝

創世記18:23-28、マタイ26:36-46

「神のためらい」浅原一泰

 

信仰の父と呼ばれるアブラハム。彼の生涯の中で最も衝撃的な出来事と言えば、「息子イサクを焼き尽くすささげものとしてささげよ」と神から告げられる場面ではないかと思う。彼の妻サラには子供が生まれなかった。それはアブラハムが神に選ばれ、神の言葉に従って行く先も分からない旅路を歩み続けていたのにもかかわらず、であった。民族の長である族長のアブラハムにとってそれは後継ぎがいない、民族に将来がないことを意味した。アブラハムもサラも必死に祈りを重ねたに違いない。しかし祈りが聞かれない。夫婦共に高齢となり、もう無理だと諦めざるを得ない状況へと追い詰められた頃、神は彼らに、サラからイサクという男の子が生まれると告げる。

 

アブラハムとサラの喜びは察するに余りある。あり得ないことが起こったわけだ。それは余命一年と宣告された患者が奇跡的に全快して100歳までも生きられると言われることに等しい、むしろそれを遥かに超える喜びに近かっただろう。そうして生まれたイサクをいきなり神は焼き尽くせと、つまり神のために殺せと命じた。「この残酷な命令の意味が何かを神は教えて下さる。そしてきっと助けて下さる」。おそらくそう信じてアブラハムは神の言われるままに従うが、神は沈黙している。ついにその時が来てしまう。イサクを縛って薪を下に並べた祭壇の上に乗せ、そのイサクに向かってアブラハムが刃物を振り上げたその瞬間、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を信じる者であることが今、分かったからだ」と神は語りかけ、アブラハムはその場にくずおれた。

 

旧約聖書の最大の謎だと言う人も少なくないこの有名な場面の答えは誰にも分からない。神のみぞ知る奥義の一つである。中学二年生に、私は毎年授業でこの場面を説明しなければならない。よく聞く答えとしては、「神はアブラハムを試されたのだ」という説がある。しかし本当にそうだろうか。元々神は若かったアブラハムに生まれ故郷を捨てさせていた。それだけでも大きな試練であるが、更に追い打ちをかけるようにイサクをささげろと命じたのである。試される側としてはたまったものではない。一体何の意味があると言うのか。生徒たちの関心を引くために毎年、長男道也が幼い頃に命の危機に曝されたことを話してきた。長女真由が小学校1年の頃、母親同伴で宿泊行事に出かける際、4歳の道也も同行が許された。最終日、バスで蕎麦屋に寄って昼食となった時、事件は起きた。食べ終わって暇をもてあましていた道也に、たまたまそこを歩いて来たおかみさんが持っていたお盆の上の蕎麦湯の器がひっくり返り、彼は頭から蕎麦湯をかぶってしまう。蕎麦湯は流れ落ちない。大やけどをした彼は救急車で運ばれるが、山奥の病院では手の施しようがなかった。

その時、教会の牧師室で翌日の礼拝説教の準備に追われていた私のもとに由祈さんから電話が入り、翌日の早朝に道也を立川の病院に移すという彼女の必死の決断に賛同し、一人残される長女の真由を校長先生から受け取る役割を引き受けた。そして翌日、礼拝が終わるや否や立川の病院に向かい、真っ黒な皮膚をした道也に面会し、主治医からは「助かるかどうかはまだ分からないが最善を尽くす」とだけ言われ、祈って待つしかなかった。

何日経ったかはもう忘れたが、やがてやけどした道也の皮膚が向けて新しい皮膚が見えた時、主治医が言った。「これでお子さんは助かります」。その瞬間にくずおれた由祈さんとアブラハムが重なった。生徒には毎年、こう伝えている。「神は信じる者に苦しみの極限を経験させる。苦しみがその人を変えるからだ。苦しみのどん底において人は、それでもこんな自分を支えてくれる神の愛に出会い、受け入れるしかなくなると思う」と。

 

 

先ほど読まれた旧約、創世記18章にはそのイサクが生まれる前、この苦しみの極みを知る遥か前のアブラハムと神とのやり取りが書かれていた。道徳的に堕落し、邪悪にまみれていた町ソドムとゴモラを滅ぼすと決めていた神に対し、アブラハムが必死に訴える。「全地を公正に裁かれるお方が、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすのは間違っていませんか。50人正しい者がその町にいても滅ぼすのですか」。アブラハムのこの率直な問いかけに神は真摯に答えた。「正しい者が50人いるなら滅ぼさない」。「45人いるなら滅ぼさない」。アブラハムはなおもしつこく食い下がり、最終的には正しい者が10人いるなら町を滅ぼさない、という神の本音を聞き出した。

 

堕落していたとは言え、ソドムとゴモラの住民たちも元々は神の似姿として造られ、命を与えられた人間たちだ。水戸黄門や暴れん坊将軍ならわけもなく悪人たちを切り殺すのだろうが、正義を守るためとはいえ、その者らを含め町全体を滅ぼすというのは、神にとってわけもないことだろうか。聖書は何も語らない。結局は神はソドムとゴモラを滅ぼした。正しい人間が一人もいなかったからだ。しかしながらそれは、我々の想像も及ばない、神の苦渋の選択ではなかっただろうか。神の似姿として造られ、神から恵みと祝福を与えられ、神と共に生きる自由が赦されていたにも関わらず、罪の軍門に下って、自分さえ成功すれば良いという得手勝手な人間に成り下がったアダムを先祖とする人類全てを、神はどんな思いで見つめていたであろうか。どんなに心を痛めていたであろうか。ソドムとゴモラを滅ぼす決断を神はどれほど忸怩たる思いで下したか、そこに心を向ける人間が一人としていたであろうか。まずいなかったであろう。アブラハムにイサクをささげよ、と神が命じたのはこの決断の後である。自らが信じて選んだアブラハムという男に、神は自らの苦しみに目を開かせたい、分からせたいからこそ「イサクをささげよ」と命じた。そうは考えられないだろうか。

 

 

 

新約聖書から読まれた箇所はゲッセマネの祈りとして知られる有名な場面である。イエスが捕えられ、裁判にかけられて十字架の刑に処される直前、ゲッセマネという所に来たイエスが弟子数名を連れて、神に必死に祈りを捧げている。教会の皆さんの中には、「なぜこのクリスマスの時期に?」と疑問に思った方もいるかもしれない。教会のクリスマスの主日は先週の21日。24日の夜にはイエスが誕生したことを喜び祝うイブ礼拝が全世界の教会で守られたばかりだ。クリスマスはそれで終わりではない。はるばる異国から博士たちが星に導かれ、馬小屋の飼い葉桶に眠る御子を探し当て、黄金、乳香、没薬を捧げたことで神の栄光が遍く世界に示されたとされる1月6日のエピファニー、公現日までクリスマスは続くからである。闇の世に消えることのない光としてお生まれになった神の御子を覚えて喜びに溢れる時であるのになぜ、御子イエスが十字架の死に至る直前、しかもイエスが苦しみ悶える場面が読まれるのか。クリスマスといったい何の関係があるのか。そう思うのが自然である。しかし祈るイエスの最初の言葉を思い出して欲しい。

「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」

 

かつて神がアブラハムを選ばれたように、イエスはこの時、弟子たちの中から特に自分に近かったペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われていた。しかしその時、イエスは激しく苦しみ悶え始めていたと言う。イエスは神が世に遣わされた独り子である。人の姿形を取って世に来られた神ご自身である。このイエスの苦しみ。それは、神の苦しみでもあった筈だ。そしてそれは、ソドムとゴモラを滅ぼさざるを得なかった神のあの苦しみ以上のものであったのではないか。誰もが神に背を向け、隣人のことを思わず、罪なくして苦しみと悲しみのどん底に追い落とされている人々のことを思わず、自分と親しい者たちさえ楽しくクリスマスと新年が迎えられれば良いと思っている人間ばかりが漂う闇のこの世に独り子を送らなければならない、その神の苦しみであったのではないか。世の人間すべてとは言わない。せめてあなたがただけでも分かってくれ。目を覚まして祈っていてくれ。親しい弟子たちにそう告げたイエスの苦しみは、ご自分の苦しみをアブラハムだけにでも分かって欲しくて「息子イサクをささげよ」というあの命令を下さざるを得なかった神の思いとつながっていたのではないか。

 

そしてイエス独りが先へと進んで地にひれ伏し、神に必死に祈った。

「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」

 

杯とはイエスが十字架にかかって死ぬこと、それによってすべての罪と悪が滅んで愛と正義が満ち溢れる神の国が完成することを意味した。「何だ。神の子だが何だか知らないが、イエスは死ぬのを怖がっているじゃないか」と未信者の少年だった頃の私は思っていた。ドラマや映画の中で、凶悪犯が「言うとおりにしなければお前の命はないぞ」と刃物を突きつけて脅すシーンがある。脅された人間は、余程のことがない限り従わざるを得ない。誰だって命は可愛いからだ。イエスも同じじゃないかと少年の私は思っていたし、そう思う人間は少なくないだろう。

 

しかし牧師となった今はこう思っている。「目を覚まして祈っていてくれ」とイエスから切に頼まれても弟子たちは眠っていた。二度目の祈りが終わった後も、三度目の祈りが終わった後も同じ体たらくであった。彼らがだらしなかったという話ではない。彼らの姿は、言われても自分を直せない我々の姿である。「眠っている」というのは、アダムのままの自分に甘んじていることだと思う。妻エバに責任を擦り付けでも我が身を守ろうとする欲望に屈している状態である。神に何度も祈り願っても一向に自分を変えることができずに甘やかし続けているのが我々の現実であろう。誰もがそんな体たらくであるこの世に御子を送り出す神の思いは、期待と喜びどころかむしろ、苦しみ、悲しみ、空しさ、やるせなさが上回っていたのではないだろうか。そして神から差し出されたあの杯をもしイエスが何の迷いもなく一瞬にして飲み干したなら、確かに愛と正義に満ちた神の国は直ちに完成したかもしれない。しかしイエスはためらった。「少し待ってください」、「もう少し時間をください」と願わずにはいられなかった。死ぬことが恐かったからではない。それは、眠ったままでいる人類をそのままで終わらせたくない、というイエスの必死の叫び、切なる訴えであったのではなかっただろうか。

 

イエスの苦しみが神の苦しみであるように、イエスのためらいは神のためらいでもある。ソドム、ゴモラを滅ぼした後も神は自らの似姿である一人一人を振り向かせようと手を差し伸べ続けて来た。そのためにイスラエル民族を選び、彼らに神を証しさせようと働きかけた。背くイスラエルには預言者を遣わして目覚めさせ、何度も悔い改めさせようとした。それでもイスラエルは変わらなかった。「仕方ない、罪深いのだから」と人間なら諦めるが神は諦めない。人類をそのままで終わらせたくないからこそ、罪の手下となって欲望のまま、自分本位に自己中心的に生き続ける人間たちを諦められないからこそ、神はためらわれた。だからこそ、独り子を世にお遣わしになったのである。神ご自身が人間の姿形を取ってこの世に来られたのである。「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈るイエスのためらい、神のためらいこそが、滅びざるを得ない闇の世に御子を送ってでも、何とかして神のその切なる思いを受け止めた者を一人も欠けることなく永遠の命へ、神の国へと導きたいという神の切なる愛に、つまりクリスマスにつながった。そう言ってはいけないだろうか。

 

だからこそ神は私たちの身代わりのいけにえとして、イエスを十字架にかけるのである。裁かれ、滅ぼされても仕方ない私たちに代わって、イエスを犠牲のささげものとするのである。人となった神自らが命を捨ててまでして、眠っていた私たちを、世にある一人一人を目覚めさせ、振り向かせて、神の国目指して歩ませるのである。

 

 

クリスマスの色と言えば何を思い浮かべられるだろう。殆どの人が緑と赤を思い浮かべるだろう。緑は永遠の命を表す。そのためにエバーグリーン、常緑樹であるもみの木がツリーに用いられる。では赤は何を表しているか。イエスの十字架の血潮である。私たちの身代わりとしてイエスが血を流すことなくして、イエスの十字架なくしてはクリスマスは完成しない。二千年前、御心によって最初に目覚めさせられた者がマリアでありヨセフであり、羊飼いたちであり博士たちであった。続いて弟子たちもイエスは目覚めさせようとしたが、二度三度では無理であった。しかし神は諦めない。十字架の死からよみがえったイエスと出会わせ、彼らの瞼に焼き付けさせた。さて私たちの目はどうであろうか。まだ目覚めていないからこそ、神は今年もクリスマスを私たちに迎えさせて下さった。そこに込められた神の切なる思いを受け止める者へと生まれ変わらされたい。