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闇を照らす方

「闇を照らす方」イザヤ40911、ルカ2820

20251221日(クリスマス・左近深恵子)

 

 私たちにとって、一日は朝から始まるものではないでしょうか。時間として正確に言うならば深夜零時が一日の始まりでしょう。しかし、日没を一日の区切りとする考え方も、古来多くの民にありました。ユダヤの民にとっても、一日は日が暮れてから始まります。ユダヤの民のように夕べから一日を始めるのも良いものだと、思うことがあります。日没後とは、辺りが次第に暮れてゆき、月の輝きは増し、星の光の数も増えてゆく時、暗さの中で光が際立ってゆく時であります。それは、微かな音と光を大切にできる時のように思います。人々の活動が日中よりも減り、喧騒が静まってゆくからこそ、聞こえなかったものが聞こえるようになる。闇が深まってゆくからこそ、見えなかったものが見えるようになる。そのような変化は、一日の始まりにふさわしいように思います。

ベツレヘムの郊外で羊の世話をするため野宿していた羊飼いたちが、神さまの使いから救い主誕生を告げられたのは、そのようにして新しい一日が始まり、暗さが増した中であったでしょう。羊飼いも羊も、大地も空も、闇に覆われていたその晩、光が輝きます。光は天使とその周りを照らします。星や月の光ではなく、人々の暮らしが造り出す灯りでもありません。被造物が放つ光ではなく、それらをお造りになった神さまの光です。これは主の栄光の光だと、神さまの光だと羊飼いたちは気づき、非常に恐れました。神さまは生きておられる、地上の自分たちに今、働きかけておられる、神さまの栄光の光は天で輝くだけでなく、闇を貫いて自分たちに届くことを知った羊飼いたちは、神さまの光に照らされることを恐れずにはいられませんでした。その羊飼いたちに天使は、「恐れるな」と告げました。

羊飼いたちは、恐れることができる人々でした。羊を守る務めを夜の間も担い続けていた彼らは、何が潜んでいるのか分からない夜の闇について他の人々より良く知っていました。それだけでなく、彼らが生活している世界を覆っている闇についても知っていたのではないでしょうか。人と人との関りを壊し、滅びに向かわせるような闇が、昼夜問わず世界を覆っていたでしょう。私たちが今生活をしているこの世界も、自分の栄光、自分のプライドが第一となり、他者を大切に思わない闇が、至る所で力を持っています。人に影響力を持ちやすい力はいつの世であっても闇のような思いであり、人と人との間にいともたやすく浸透してゆきます。

羊飼いたちは、人と人との間に満ちている闇のことだけでなく、自分たちの内側にある闇も知っていたのでしょう。創世記の天地創造の箇所は、神さまが、人間がご自分のみ心に応え、ご自分との関りにおいて生きてゆく者となることを願って、人間をお造りになり、祝福されたことを語っています。アブラハムの物語では、人々が神さまの祝福の中で生きていく者となるため、神さまの祝福を他の人々にもたらす源としてアブラハムを選び立て、そうして神の民の歴史が始まったことが述べられています。羊飼いたちも神の民に属する者たちです。神さまのみ心にお応えする者でありたいと願ってきたでしょう。しかしなかなかそのような生活を送ることができずにいる。神さまに喜ばれる者でありたいという思いよりも、内なる闇の方が自分の言動を支配してしまいがちである。そのような自分を知っていたから、神さまの光に向き合うこと、生きて働かれる神さまのみ前に身を置き、神さまの光に自分の実態を照らされることを、恐れずにはいられなかったのでしょう。

私たちは、自分と他者との間に浸透しようとする闇の力に呑み込まれることも、自分の内側に澱む闇に目を向けないでいることもできます。自分が闇の力に屈していることを認めなければ、生ける神のお働きを恐れたりしません。人と人との関りを蝕む闇も、人を内側から歪め、本来の生き方を損なわせる闇も、人の罪から発しています。自分の内深くに根を張っている罪が誰かを苦しめ、自分を損ねていることを認めずにいるなら、罪からの救いを求めることもありません。

羊飼いたちは、神さまの臨在を恐れることができる者でありました。「恐れるな」との天からの言葉を受け止め、「すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」との言葉に耳を傾けることができる者でありました。自分に罪からの救いは要らないと、聞き流すことはしませんでした。神さまの光に照らされることを恐れるしかない自分のためにも、神さまが与えてくださった救い主の誕生を喜ぶことができました。ベツレヘムの町で神さまが最初にクリスマスの喜びを知らせたのは、このような者たちだったのです。

神さまはすべての民に与えられる大きな喜びである救い主誕生を、ベツレヘムの町にもたらされました。天使がこの場所を「ベツレヘム」と言わず「ダビデの町」と言っているように、ベツレヘムは、神の民にとって最も偉大なダビデ王が出た町です。ダビデは王となった後も暫くこの町を拠点としました。神さまが遣わされる救い主はダビデの町から出ると、何百年も前に預言者たちが告げたことを、神の民は聞き、メシア(救い主)の到来を待ち望んできました。この日の、ダビデの町の住民たちも、この小さな町が神さまの救いのみ業にとって大切な場所であることを誇りにしてきた人々でしょう。またこの日、住民以外の者たちも多く滞在していました。ローマ帝国の皇帝が、支配下にある、神の民ユダヤの人々を含む多くの地域に出した住民登録の勅令のために、ベツレヘムをルーツに持つ人々が戻っていたのです。ヨセフも、ダビデの家の血筋であったので、皇帝の命令に従うためにガリラヤのナザレから身重の妻マリアも連れてこの町にやって来ていました。町は住民登録のために来ていた人々でどこもいっぱいで、マリアとヨセフは宿泊場所を得ることができないまま出産の時を迎え、お生まれになったキリストを飼い葉桶に寝かせるしかありませんでした。この日、この町に滞在していたのは皆、ベツレヘムの町に関わりを持つ人々であり、彼らも、自分のルーツがあるこの町を誇りに思っていたのではないでしょうか。神さまが救い主誕生の報せを告げられたのは、そのような住民や滞在者たちではなく、町の外で夜じゅう羊の世話をしていた羊飼いたちでした。羊飼いたちは、天からの言葉を受け止め、急いで救い主を探しに出発します。そうしなさいと天使に言われたからではなく、一時も早くお会いしたいと彼らが立ちあがったのです。羊飼いたちは、最初に救い主の誕生を知る者となっただけでなく、最初にそのために行動を起こし、救い主に見えることができた者となりました。救い主にお会いすることができた羊飼いたちは、このことを人々に知らせます。羊飼いたちは、最初に救い主にお会いしただけでなく、救い主がお生まれになった喜びを最初に他の人々に伝える者となったのです。そうしなさいと天使から命じられたからではありません。そうせずにはいられない喜びを知ったからです。では、羊飼いからこのことを聞いたダビデの町の人々はどうであったのか、「聞いた者は皆、不思議に思った」とあります。喜んだわけでも、自分たちも救い主にお会いしようと動き出したのでもありません。神さまへの恐れも記されていません。「不思議に思った」、訝しんだのです。ただ、「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた」と続きます。既に神さまのみ業が自分の体と人生にもたらされることを受け止め、その人生を歩み始めてきたマリアは、羊飼いにも神さまが良い知らせをもたらされたことを、心に留めます。しかし人々は心に留めることも、思い巡らすこともありません。ダビデ王の血筋に、永久に神の民を治める王を与えると神さまが約束されたメシアが、動物の餌を入れる飼い葉桶に寝かされているような子であるはずがないだろうと、取り合わない人もいたかもしれません。そのような人々の反応は、羊飼いの喜びに水を差すものにはなりません。彼らは「見聞きしたことがすべて天使の告げたとおりだったので、神さまを崇め、讃美しながら帰って行った」とあります。彼らにおいて、み言葉が実現されたことを喜ぶ人生は既に始まっています。神さまを崇め、賛美しながら帰ってゆく羊飼いたちの姿に、神さまの深い選びを思わされます。

彼らが羊飼いであったことも、ダビデと重なります。神の民の次の王として神さまがダビデを選ばれた時、ダビデはまだ家族が参加していた祭儀に加わることも幼すぎると父親から許されなかったような年若い者であり、ダビデはその祭儀の間羊の世話をしていました。ダビデはおそらく、町の外の草が生えているところで羊の世話をしていたことでしょう。その羊たちの群れの後ろから神さまに召し出され、王となる者として油を注がれました。この晩ベツレヘムの町の外で野宿をしていた羊飼いたちも、羊の群れの後ろから神さまによって導き出され、救い主、真の王に、お会いすることができました。

羊飼いは聖書において、神さまを表すイメージの一つでもあります。羊飼いは夜も昼も羊の世話をします。羊を養うために草と水を求めて移動しながら羊を導きます。主イエスが後に言われるように、羊は羊飼いの声を知っているので、羊の名前を呼んで導く羊飼いの後についてゆきます。羊飼いは盗人や獣からも羊を守ります。良い羊飼いは羊のために身を挺し、命までも捨てます。この羊飼いに、民を養い、導き、守る神さまの姿を聖書は重ね見ます。先ほど共にお聞きしましたイザヤ書にも羊飼いが登場します。ヘンデルがこの401からの言葉によって救い主の物語を「メサイヤ」で綴っている40章の、11節で、「主は羊飼いのようにその群れを飼い、その腕に小羊を集めて、懐に抱き、乳を飲ませる羊を導く」と、主が慈しみ深く、優しい羊飼いに譬えられています。その直前の節では、「見よ、主なる神は力を帯びて来られ、み腕によって統治される」と、威厳があり、圧倒的な力をもって統治する王として主は語られます。神さまのお働きは、力強いみ腕によるものであり、小羊を懐に抱くみ腕によるものでもあります。イザヤが語り掛けているのは、捕囚の地の民です。神さまに信頼して歩むことができなかった彼らの罪によって国が滅び、神の都エルサレムが陥落し、信仰の拠り所であった神殿が破壊され、遠い異教の地で捕囚としての日々を強いられてきた人々です。捕囚の生活の虚しさの中に沈み込み、同化しつつあった民に預言者は、王であり羊飼いである神さまが生きて働いておられることを告げ、あなたがたの咎と罪は許されると、神さまが来られると告げます。この良い知らせを人々に告げよと呼び掛けます。民の絶望も、彼らを支配してきた力も打ち砕いてくださり、虚しさの闇を貫いて、神さまに従って生きる道を切り拓き、先立って導いてくださる方を、力の限り声を上げて人々に伝えよと呼び掛けています。

私たちの世界も、私たちの内側も、闇の無いまっさらなものではありません。私たちの現実は、生ける神の栄光を映し出す人々の言葉や行いで満ち満ちているとは言い難いものです。神さま抜きに生きて行けているという傲慢な思い、神さま抜きの方が生きやすいという思い、自分が自分の世界の王でありたい思い、神は結局無力であり、その言葉は絵空事だと神さまに信頼しない思い、そのような思いが至る所で、他者の存在も、他者との関係も、自分自身も尊ぶことができない言動を生み出しています。しかしまた、生ける神に信頼する人々の言葉や行動に力づけられ、1人の人間がこのような大きな働きを人々の中に残すことができるのだと、驚くこともあります。そのような歩みの一歩は、神さまに罪を赦され、救われる喜びから始まります。羊飼いたちはこの日、闇の中で神さまの光を見出だし、昼間の慌ただしさの中では聞き流してしまいかねない神さまの言葉に向き合い、新しい人生を歩み始めました。私たちの歩みも、この夜ダビデの町にもたらされた出来事から始まります。明るい光に照らされるような日々であっても、闇に押しつぶされそうな日々であっても、闇を押し返し、辺りを照らすほどの確かな神さまの光は輝いていることを胸に刻み、「あなた方の為に救い主がおうまれになった」との言葉を生活の中で繰り返し心に響かせながら、歩んでゆくことができます。

その歩みは、善い羊飼いなるキリストによって養われます。キリストは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われました。またご自分のことを、天の父なる神が天から人々にお与えになった真のパンであると、神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものであると言われました。私たちの肉体は食べ物を必要としていますが、食べ物は罪も死も超えて私たちを生かすことはできません。本当の日々の希望とはならない、朽ちるものです。キリストは、私たちが神さまから与えられた命を喜んで、いきいきと生きてゆくために、私たちに必要な方であります。私たちを罪から救うために、十字架にかかって死んでくださった神のみ子イエス・キリストを信じることが、永遠の命に至る食べ物のために働くと言うことです。ベツレヘムという町の名前は、「パンの家」を意味します。そのベツレヘムに、真のパンである方が天から降られました。教会は、私たちに命を与えるために、独り子を真のパンとして世に与えてくださった神さまの家です。神さまの招きに応えて、神さまのみ前に集まり、共に神さまを崇め、讃美するところです。私たちは洗礼を受けることによって、救いの恵みに与かります。洗礼を受けるということは、主イエスと結び合わされることであり、同じようにキリストに結び合わされてきた人々と共に、キリストにつながって生きていくということです。キリストによって罪が赦される、そのことを信じ、洗礼を受けた者は、聖餐のパンと杯に与かり、キリストによって与えられている恵みを味わい、信仰の歩みを力づけられます。キリストの復活によって神さまは、世の終わりの私たちの復活と永遠の命を約束してくださいました。神さまのもとであずかる天の宴を、聖餐において前もって、ほんの少し味わいつつ、キリストに導かれる道を歩んでゆきます。罪の闇に滅ぼされない、死で断ち切られない希望を聖餐にあずかることによって力づけられ、確かにされつつ、歩んでゆくのです。

 

本日、お一人の方が洗礼を受けられます。闇の中でも神さまに至る道を照らしてくださる神さまに信頼して進む信仰の旅路を、この方とも共に歩んでゆける幸いを心から感謝いたします。