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神は共におられる

「神は共におられる」イザヤ71314、マタイ11625

2025127日(アドヴェントⅡ・左近深恵子)

 

 先週礼拝で共にお聞きしたルカによる福音書では、マリアに、神のみ子が宿ること、救い主がマリアを通してお生まれになることが告げられたことが伝えられていました。今日のマタイによる福音書の箇所は、そのことを前提にしています。そしてヨセフにも神さまの言葉が与えられます。この出来事に関りを与えられた一人一人の視界を通して、その驚きと戸惑いと受け止めを通して、主イエスの誕生がどのように世にもたらされたのか、私たちは知ることができます。

 マタイによる福音書は、イエス・キリストの誕生を先ず系図で、次に物語で伝えます。系図は神の民の歴史の出発点に立てられた人とも言える信仰の父祖アブラハムから始まり、神さまがその子孫に永久の支配を約束された王であり、しかし家臣ウリヤの妻を奪い、その妻によってソロモンをもうけたダビデのことに触れ、また神の民がバビロンで捕囚となった出来事について強調しつつ、ヨセフにまで至ります。そしてヨセフの婚約者マリアから、メシア(救い主)イエスがお生まれになったことを記します。

冒頭には「系図」というタイトルが付けられ、11も「系図」という訳語が用いられていますが、ここに記されているのは一般的な系図のような、祖先から子孫がどう広がって行ったのかを示すものではありません。時代を越え、歴史を貫いて主イエスに至る一つの道を辿っています。11の「系図」と訳された語句は、二つの言葉から成っています。一つはゲネシスという言葉で「起源、誕生、成り立ち、世代」といった意味を持ちます。ゲネシスは、旧約聖書のギリシア語訳で、創世記のタイトルとして用いられている言葉でもあります。混沌とした状態に神さまが光をもたらし、秩序を与え、人やその他の被造物が生きることのできる世界をお造りくださった、その天地創造のみ業が、系図が示す、人の罪が混沌とした状況を生じさせてきた人の歴史を貫いて救い主に至る道を通してくださった神さまのみ業と重なるようであります。「系図」と訳されている語句を構成しているもう一つの言葉は、ビブロスという言葉で、巻物や書物を表します。

この二つの言葉の一つ、ゲネシスと言う言葉は、今日の18節にも登場します。18節の「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」という文の中、「誕生」と訳されている言葉です。創世記を示す言葉がここにも登場します。「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」という文も、天地創造の業を神さまが終えられた後に記されている、「これが天と地が創造された次第である」との文を思い起こさせます。二つの文の言葉や表現の近さが、混沌の中に神さまの秩序をもたらしてくださる創造のみ業と主イエスの誕生を、重ねるようです。マタイによる福音書は先ずゲネシスという言葉によって、“これはイエス・キリストの成り立ちの書”であると述べつつ、神さまが主イエスを世にお与えになるまでの救いの歴史を綴ります。そして誕生の物語に移る18節の冒頭でまた同じゲネシスという言葉によって、“これがイエス・キリストの成り立ちである”と述べつつ、イエス・キリストの地上のご生涯を語り始めます。イエス・キリストの誕生は、旧約の時代から神さまが世の闇を貫いて救いを成り立たせてこられた道の先にあり、その救いを完成へと至らせる、新しい歴史の幕開けと言えます。

マリアが子どもを身ごもっていると、それは聖霊のお働きによるのだと、ヨセフは聞いていました。ヨセフによって青天の霹靂のような出来事であったでしょう。決して喜びだけでは受け止められない知らせであり、耳にして以来、ヨセフの心は大きく動揺してきたことでしょう。自分の身にではなく婚約者に起きていることであり、ヨセフに確かめる術はなく、マリアの言葉を信じるしかないからこそ、苦しんだことでしょう。ヨセフがもし、マリアは自分ではないものの子を宿していると公にすれば、マリアは姦淫の罪を犯した者として裁かれるでしょう。石打の刑に処せられ殺されるかもしれません。だからでありましょう、ヨセフは密かに離縁することを決心します。公の裁きに拠らず、ヨセフの判断でこの状況に結論を下します。ヨセフにとってマリアと胎児の命を守ることが最も大切なことに思えたのでしょう。「夫ヨセフは正しい人であったので」との言葉は、マリアと子どもを思うヨセフのこの思いを指すのではないでしょうか。

思いが正しくても、それだけで本当に正しい道を見出すことはできません。ヨセフに必要なのは神さまの言葉です。神さまはヨセフに夢の中で語り掛けられ、ヨセフが聞いていた通り、マリアの胎の子は聖霊のお働きによることを告げられます。マリアの胎の子は、マリアや誰か他の人間の思いと行動の結果マリアに宿ったのではなく、神さまのご意志により、神さまのお力によって、神さまがマリアに与えてくださった、神さまのみ子です。打ち消しても、打ち消しても、ヨセフの心に沸き起こってきた疑いの思いも恐れも、神さまは退けてくださいます。ヨセフはマリアの言葉を信頼しきれないから、恐れが消えなかったのでしょう。信頼しきれないから、マリアを受け入れることを恐れ、また自分との間の子でないこどもを受け入れ、絶えず父親として愛情を注ぎ、育ててゆける自信がなかったのでしょう。神さまの聖なるみ業があなたがたにもたらされたのだから、恐れずにマリアを妻に迎え、その子をイエスと名付けなさいと、呼び掛けられたヨセフは、生ける神の臨在に触れ、マリアも神さまのお力に包まれていることを知り、目覚めた後は、これから起こることの全貌が掴めないことももはや恐れず、神さまに信頼できる幸いを噛みしめながら、神さまに従う道を踏み出したのです。

ヨセフの父親としての大切な役割は、イエスという名前を付けることでした。イエスとは、旧約聖書のヨシュアのギリシア語版と言えます。珍しい名前では決してなく、よくこどもに付けられる名前でした。「主は救い」「主は救いをもたらす」「主は救い主」といった意味を表します。み使いはヨセフに、イエスと名付ける理由を、「この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「イエス」という名前のこの方は、主こそ救い主であることを世に知らしめる方だと、その救いは、人々を罪から救うことによってもたらされる、罪からの救いこそが人の真の救いなのだと、知らせました。正しくあることを求めながら、正しさに限界を抱え、罪の支配に引きずられ、恐れによって神さまのご意志から離れつつあったヨセフ自身が、神さまへの信頼を土台とする生き方へと、救いの道へと招き入れられたのです。自分や他の人々を罪から救ってくださる救い主のために、その方がどのような方であるのか指し示す名前を付ける務めを、ヨセフは果たすことができたのです。

神さまが救い主を世にお与えになったみ業は、神さまが紡いでこられた救いの歴史を引き継ぎ、完成させるものであることを、この福音書は系図で示しました。22節でもこのことを、旧約の預言を引用して示します。この福音書は、イザヤ書714のインマヌエルという名の子どもの誕生の預言が、主イエスの誕生において成し遂げられたのだと受け止め、「インマヌエル」という言葉の意味も、「神は私たちと共におられる」と述べるのです。

神さまが私たちと共におられる、このことはここだけでなく聖書を貫いて発せられているメッセージであり、時代を超えて人々に慰めと力と喜びを与えて来た真理です。例えば神の民の歴史の始まりに選び立てられたアブラハムも、「生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」と告げる神さまが、共におられ、道を示してくださることに信頼して、行く先も知らずに出発しました。導き入れられた地で神さまが現れてくださると、この地にあっても神さまが共に居てくださることに感謝し、礼拝を捧げました。そうやって共におられる神さまに礼拝を捧げつつ、神さまの示される道を進んでゆきました。ダビデも、主が共におられることに信頼して歩んだ人でした。聖書は主の霊がダビデに降ったこと、ダビデの偉業に人々は、主がダビデと共におられることを見て取ったことを伝えています。その神さまの臨在が、1人の人間としてお生まれになったこの方において世に示されるのだと、この方によって私たちは、神さまが共におられることを知るのだと、マタイによる福音書は告げています。この福音書は、主が共におられることを証しすることに特に力を注いでいます。福音書の始まりと言える今日の箇所でこのように、神さまは主イエスの誕生によって、私たちと共におられることを決定的にしてくださったことを示し、福音書の終わり部分では、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との約束を、主イエスの最後の言葉として伝えています(2820)。「主がいつも共におられる」、このメッセージで福音書全体が包み込まれています。その間も主イエスは何度も「私はあなたがたと共にいる」と告げてくださっています。主イエスの誕生も、ご生涯も、その苦しみと死と復活と昇天も、主が私たちと共におられることを示すものであり、主イエスご自身が世の終わりまでいつも私たちと共におられると約束されています。世の終わりまで、主が私たちと共におられない時はないのであり、そのために神さまは独り子を世に与えてくださったのです。

「インマヌエル」「主が私たちと共におられる」、このことをイザヤ書第7章で主が預言者を通して告げられたのは、イスラエルの南王国ユダが、大国アッシリアの強大な力や、近隣諸国の攻撃に慄いていた時代でした。ユダはこの頃、アッシリアに対抗するために同盟を組んだアラムと北イスラエル王国から、その同盟に加わるように軍事的圧力をかけられ、ダビデ王朝の存続も危うい状況にありました。ユダの王アハズと民の心は、森の木々が風に揺れ動くように動揺していたとあります。そのアハズの所に、主なる神は預言者イザヤを遣わされます。イザヤは神さまからの言葉を携えています。それは“気を付けて静かにしていなさい。恐れてはならない。あなたが恐れているようなことは起こらない”というもので、アハズにどうあるべきか教え、励ますものでした。「落ち着いて、静かにし、恐れてはならない」というメッセージは、イザヤ書で何度も語られる神さまからの大切なメッセージです。30章でも、「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして、信頼していることにこそ/あなたがたの力がある」(3015)との主の言葉があります。32章にも「正義が造り出すものは平和。正義が生み出すものは/とこしえに至る静けさと信頼」(3217)との言葉があります。先ず何を最も重んじるべきなのか、何に自分たちを委ねて立つのか、静まって見つめよと、神さまへの信頼に先ず立たなければ、堅く立つことはできないのだと、ダビデ王朝の王であるアハブにも、その王朝を戴く民にも告げます。しかし、この神さまの言葉に対するアハズの応答は何も記されていません。神さまに信頼しますと、言い切ることができなかったからではないでしょうか。

すると神さまはアハズに再び語り掛け、ご自分にしるしを求めよと言われます。政治的、軍事的な力学のバランスの中で綱渡りしてゆくためにどう動くか、その画策に頭の中は占められ、浮足立ってしまっているアハブに、何よりも先ず求めるべきものがあることを告げます。自分の主に対する信頼が強められるように、しるしを与えてくださいと主に求めよと。主への信頼によって堅く立ち続けることを切実に求め、そのために必要なものを主に願い求めよと。しかしその主の言葉をアハズは退けてしまいます。アハズは主に信頼することを求めようとしません。主の言葉が世にあって実現されることに信頼すること、自分がその信頼に堅く立つことを欲していません。神さま抜きで状況に対する判断を下し、神さま抜きで神の民、ユダの政策を進めていこうとしています。そのアハズの誤った姿勢は民を煩わすものであり、民だけでなく主なる神をも煩わすものであると、イザヤは厳しく批判します。その支配は永久に続くと神さまが約束してくださったダビデ王朝でありますが、王アハズが神の民を惑わせ、神さまを煩わしている王朝の現状を批判します。その上でイザヤは、主ご自身があなたがたにしるしを与えてくださると言います。神さまへの信頼を土台にした歩みを自ら求めようとしない、しるしを求めよと神さまが道を示してくださっても、その道を行くことを拒むアハズに対し、神さまの方からしるしを与えると言われます。それがインマヌエルと呼ばれる子の誕生でした。

若い女性が身ごもり、男の子を産み、その子はインマヌエルと名付けられると言います。子はやがて悪と善を見分け、悪を退け善を選ぶようになります。その子の誕生の預言は、しるしを求めよとの主の呼びかけを退けたアハズの悪を明らかにし、神さまへの信頼に立ち続けることを貫けない民の悪を明らかにし、彼らがその悪の故に退けられる者であることを突き付けるものとなります。善と悪を見分け、神さまのみ心にお応えする善に生きることを求めるインマヌエルは、アハズや民の悪に対する神さまの裁きであり、そして、神さまが共におられることのしるしであり、見捨てられて仕方の無い現状のダビデの家の血筋に救い主をお与えくださるしるしであったと言えます。

ヨセフは、マリアに起きていることが聖霊による神さまのみ業であることを信頼しきれずにいました。神さまがそのようなみ業を世にもたらすことができることに、それが自分やマリアの人生に起こることに信頼しきれないから、不安に揺さぶられ、恐れ、その結果、正しく思えるけれど、神さまへの信仰によって堅く立ち続けることを放棄してしまうことになる道を進もうとしていました。そのヨセフに、「恐れてはならない」「この子は自分の民を罪から救う」「神は私たちと共におられる」と語り掛けてくださる神さまによって、神さまの言葉と神さまが共におられることに信頼できる幸いを知ったことでしょう。そうして救いのための聖なるみ業に参与する幸いな者となったのです。

 

「神さまが私たちと共におられる」しるしであるイエス・キリストは、今も私たちと共におられます。ご自分の民、教会と共におられます。自分の思いだけでは、恐れて道を閉ざすことへと引きずられる私たちです。「恐れてはならない」、そうみ言葉によって語り掛けてくださる神さまのみ心にお応えする決断が、私たちの思いを超える幸いな、主が共におられる平安に満ちた歩みへと、私たちを後押しするのです。