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この身に成りますように

「この身に成りますように」ヨブ4216、ルカ12638

20251130日(アドヴェントⅠ、左近深恵子)

 

 今年もアドヴェントがやってきました。アドヴェントを迎えると、過去のアドヴェントのことをよく思い出します。特に、昨年はアドヴェントを一緒に迎えたけれど、この一年の間に生涯の歩みを終えて主のみもとに召された方々のことを思い出さずにはいられません。私たち自身のことも、思う時かもしれません。昨年のこの頃にはこうなるとは思わなかった私たちの状況や体調、私たちを取り巻く環境の変化を思います。変化が見出せなかったことについても思います。事態が解決へと、少なくとも良い方向へと向かうことを願ってきたのに、1年経ってもその兆しが見えず、硬直した状況にある戦禍や、被災から復興する支えを十分に受けることができず、生活も人生も先を見ることができずにいる人々のことを思います。時間と共に、世界の情勢と共に変わってゆく現実と、変わるべきと思うのに変化が見えてこない現実の中に、私たちはいます。

今年のアドヴェントも、毎年この時期に聞いている、ルカによる福音書の所謂“受胎告知”と呼ばれる箇所から聞きました。そして、イエス・キリストの出来事が世界の歴史の中で起こったことを伝えることにこの福音書が注力していることに気づかされます。この福音書の著者は、主イエス・キリストに直接お会いしておらず、主イエスのご生涯や十字架の死と復活について、直接見聞きしたことがない者であると考えられています。直接見聞きした使徒たちからその証言を聞き、記された証言を読み、それらに基づいてこの福音書を記しています。その、書き手にとっては過去の時代に起きたことを、「私たちの間で実現した事柄」と11で表現しています。主イエスによって実現された事柄は、主イエスの姿を見ることも、その声を聴くこともできない時代にいる自分たちの間で今も実現しているのだと記しているのです。

 11で「実現した」と訳されている言葉は、「成し遂げる」「成就する」という意味の言葉です。受け身の形になっており、読む人に、成し遂げたのは神さまであることを示します。神さまがそのお力で成し遂げられたことについて、これから書いていきますと言うのです。つまり福音書が伝えるのは、変化する状況の中で人々がその都度抱く自分たちの願いや欲求を、自分たちの力で実現させた話ではありません。主イエスにおいて神さまがそのご意志を成し遂げてくださった事についてです。時代は変わり、この福音に触れる人々の顔ぶれや、統治者、取り巻く社会、世界の情勢も代わっても、変わらず実現し続けている神さまのご意志による事柄を伝えると告げて、この福音書を書き始めたのです。

 実現されたのは神さまのご意志であることは、主イエスのご生涯を語り始める前に、洗礼者ヨハネのことを先ず記していることにも現れています。この福音書に限らず全ての福音書が、洗礼者ヨハネの働きについて述べてから、主イエスのお働きを語り始めます。救い主が到来する前に、その道備えをする者を遣わされると、旧約聖書の預言は伝えていました。ヨハネの父とされたザカリアにヨハネの誕生を告げる主の使いも、生まれてくる子は霊と力で主に先立って行き、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、主なる神に立ち返らせ、整えられた民を主の為に備えると主の言葉を述べます。その言葉通り、ザカリアの妻エリサベトは子どもを身ごもるのです。今日の箇所が「6か月目に」と始まっているのは、このザカリアとエリサベトに神さまが起こされた出来事から6か月後を示しています。神さまの預言の通り、先ず道備えをする者が現れ、そして救い主の到来を語り始めます。

 強大なローマ帝国に支配されていたユダの地方の村、ナザレという所で暮らしていたマリアの所に、主の使いが来て語り掛けます。マリアは「おめでとう」と呼び掛けられます。文字通りには「喜びなさい」という意味の言葉です。けれど続いて告げられたのは、マリアが身ごもって男の子を生むということです。ヨハネの誕生を告げられた時のザカリアほどではありませんが、マリアも戸惑います。マリアにとってそれは、喜びどころか苦難の告知に等しいことであったでしょう。まだ一緒に暮らしていないけれどマリアはヨセフと婚約しており、法的にはヨセフと婚姻関係にあるとみなされていました。マリアにとって、ヨセフとの間の子ではない命を宿すということは、婚姻関係を破る姦淫の罪を犯した者と看做されてしまいます。ヨセフからは勿論、自分の家族や周囲の人々からも非難されるでしょう。婚約解消させられるかもしれません。自分の家族やヨセフや共同体の人々とこれまで築いてきた信頼関係、その人々から受けてきた愛情、この先ヨセフと築いてゆくはずの家庭の生活を失うかもしれません。石打の刑に処せられれば自分の命までも失うことになります。み使いの言葉を現実の中で具体的に考えれば考えるほど、失うものの大きさ、引き受けなければならない現実の厳しさに、恐ろしさが募ったことであったでしょう。しかしみ使いはマリアに、マリアは神さまから恵みをいただいたのだと、一度ならず二度も言うのです。

先ずみ使いはマリアに、「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけました。「恵まれた方」と言う表現は、恵みを与えておられるのは神さまであり、その恵みは既に与えられていることを示しています。マリアを神さまがキリストの母とされたのは、神さまの恵みによると言えます。神さまが共におられることも告げます。当然のことながら戸惑うこの若い女性に対し、み使いはその名を呼んで、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と、また先ほどと同じ「恵み」を表す言葉をもって語り掛けます。この文を直訳すると「恐れてはならない、マリアよ、あなたは神さまのみ前に恵みを見出しているのだから」となります。マリアがこの先子を身ごもることによって厳しい現実に直面しても、自分の人生計画にはまったくなかった道を歩まされ、不安に苛まれても、その困難としか思えない出来事も抱えたまま、自分を神さまのみ前に置くならば、神さまから恵みをいただいていることを見出すことができるのです。

マリアの恐れは、子を宿すことだけではなかったでしょう。その男の子は「偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれ、神である主が、彼に父ダビデの王座をくださり、彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることが無いと告げられます。神さまはかつてダビデに、イスラエルだけでなく全世界を永久に支配する子孫を約束され、そのダビデの末裔を「私の子」と呼ばれました。その救い主のことを天使は述べているのではないかと、マリアは思ったのではないでしょうか。そしてマリアの婚約者ヨセフは、ダビデの血筋の者であることも思い出したのではないでしょうか。人々が待ち望んできた救い主の到来の出来事に、神さまはマリアを引き入れようとしておられます。神さまの言葉が自分に向けられ、事の全貌が全く掴めないけれど神さまの言葉は大きな出来事の当事者に自分がなることを告げます。恐れを抱くのは当然のことでしょう。けれど神さまのご計画に生きる者とされた自分を神さまのみ前に据えるなら、神さまから恵みをいただいていることを見出だすと、そして恐れは力を失ってゆくと、だから恐れることはないのだ、マリアよと、主は呼び掛けてくださるのです。

 マリアは主の使いに、“自分は夫となる人とまだ暮らしたことが無い者であるから、どうしてそんなことがありえましょうか”と言います。違うことも言いたくなるものではないかと、例えば、“自分はそのような神さまのご計画に生きるには相応しい者ではありません”と、言いたくなるのではないかと思ってしまいます。しかしマリアが問うたのは結局、「どうして、そんなことがありえましょうか」、このことだけでした。マリアについて福音書は、その名前と、ナザレに住んでいた、ダビデ家のヨセフの婚約者である若い女性であるということ以外、何も記していません。ザカリアの妻エリサベトのような祭司アロンの血筋の者と言うわけでもありません。暮らしていたのは、神の民にとって信仰の中心であるエルサレムの都でも、ダビデの町と呼ばれたベツレヘムでもなく、ナザレというごく普通の地方の町です。特別に信仰深かったとも言われていません。特記することが無い人、つまり普通の人と言えるマリアです。マリアは、自分には神さまのみ業を受ける相応しさがあると思い、妊娠がどうして起こるのかだけ問うたというのではありません。神さまのご計画にとっての自分のふさわしさは、マリアにとって最大の問題になっていません。自分が大切にしてきた多くのものを手放すことになるかもしれない、命まで失うかもしれないことさえ、神さまのご計画を受け止める妨げにはなっていません。神のみ子の命を宿すと言われるそのことがどうしておできになるのか、それだけを問題とするマリアには、このことが実現されるなら、その先の道は神さまが切り拓いてくださるとの信頼があったのではないでしょうか。

 マリアに主の使いは、聖霊が降り、いと高き方の力がマリアを覆うからだと答えます。神のみ子、救い主の誕生は、マリアやヨセフの思いや行動の結果ではないのです。ただ創造主である神さまのご意志とお力によって為されます。このことの主権は神さまにあります。神さまがマリアに神のみ子を人として宿らせてくださり、マリアを通してダビデの血筋に救い主を与えてくださるのです。それは決して、マリアの女性としての身体の機能を妊娠、出産のために利用するようなものでも、マリアの母親としての愛情を子育てのために利用するようなものでもありません。主の使いが告げたように、聖霊がマリアに降ります。命の息である聖霊がマリアに降り、内に神さまのみ子を宿らせます。炎のような聖霊はマリアの内にあって、神さまのご意志に従うマリアの神さまへの信頼を温め、もやし続けることでしょう。いと高き方の力がマリアを覆うとも言われます。マリアは厳しい現実に見舞われても、一人無防備にそれらに晒されるのではありません。主が共におられることが告げられており、その主のお力がマリアを覆い、包み込んでくださるのです。マリアが直面することになる苦しみ悲しみは、マリアがこの日想像した厳しさとはまた異なるものとなってゆきます。その苦しみ悲しみについて、まだ主イエスが赤ちゃんの時にマリアは聞くことになります。マリアがヨセフと共に、律法の定めに従って主イエスをエルサレムの神殿に連れて行った時、シメオンはマリアに、マリアの魂が剣に刺し貫ぬかれると告げるのです。主イエス12歳の時には、マリアは3日間主イエスを見失ってしまいます。探し続け、ようやく神殿に居る所を見つけた主イエスから、「どうして私を探したのですか。私が自分の父の家に居るはずだと言うことを、知らなかったのですか」と告げられるマリアには、もはや主イエスの言葉も行動も理解が及ばないものとなっています。大人になられ、福音を宣べ伝え始めた主イエスのお働きが分からず、会って話しをしようと他の子どもたちを伴って主イエスを訪ねますが、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」との主の言葉に阻まれるマリアです。そして主イエスの生涯最後の日々と、十字架で殺され復活されるまでの3日間は、母として耐え難い時であったでしょう。そのマリアの命も魂も存在も丸ごと神さまのお力は包み込み、内に霊の灯をともし続け、傷つき弱るマリアを支えてくださったことでしょう。

 キリストの母となるという出来事は、マリアだけにもたらされた恵みです。ただ、聖霊が降り、神さまのお力が覆うという恵みは、私たちにももたらされていることに気付かされます。ガラテヤ書3章にはこのようにあります、「キリストに与る洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」(ガラテヤ327)。私たちが洗礼を受けることは、「キリストを着ること」だとパウロは表現します。罪深さのために神さまとの関係が破れ、神さまのみ前に進み出ることのできなかった私たちが、キリストの命の値によって罪の支配から贖われ、神の子らとされ、キリストで覆われた者とされました。私たちの罪も、傷も、歪みも、欠けも、澱んだ思いも、苦しみも、悲しみも、丸ごと全てキリストが包み込んでくださるから、キリストを纏って神さまのみ前に自分を置くことができます。神さまのみ前に、神さまからの恵みを見出すことができます。その恵みを、恵みとして受け止めることができるのです。

 マリアは、神さまの恵みを恵みとして、正しく受け止めることができました。そしてみ使いに「私は主の仕え女です。お言葉通り、この身に成りますように」と答えました。「主の仕え女」とは、神さまを主とし、神さまに仕える僕です。自分の主は自分ではなく、他の誰かでもなく、神さまであるとマリアは答えます。まだ自分の体に実感が伴っていなかったであろう神さまのご計画に、そしてこの先自分の生涯にどのような厳しい現実をもたらすのか、どのような道を辿るのか、全く見当がつかず、理解ができない神さまのみ業に、自分の全てをお委ねしますと言っています。自分が神さまの僕であることは、マリアよりも私たちがよく知っているのです。罪の支配に呑み込まれ、罪の奴隷であった私たちは、キリストの命の値によって買い取られ、神さまの子、キリストのものとされていることを知っているからです。自分のふさわしさ、正しさにはまったくよらず、神さまが独り子を与えてくださった十字架によって、神さまに贖われた者です。だから私たちもマリアと共に、「お言葉どおり、この身になりますように」と神さまにお応えする他ない者です。

 「お言葉通り」と訳された言葉は、口から発せられた声、語られた言葉、教えられた言葉、その内容を意味する語です。神さまがみ使いを通して告げられた言葉がその通りに自分において出来事となりますように、と祈り願うマリアです。

 このマリアの「お言葉通り」という願いの言葉は、直前の天使の言葉を受けたものとなっています。み使いは「神にできないことは何一つない」と告げていますが、「何一つ」と訳されている文には、マリアの願いにあった「お言葉」と同じ語が用いられています。「何一つ」を直訳すると「語られた全ての言葉」となります。み使いのこの文全体では、「神においては、その語られた全ての言葉は、不可能ということにはならない」となります。マリアが自分の全てをお委ねしたのは、語られたことが全て不可能と言うことにはならない、言葉に為さったご意志を全て実現することがおできになる、全能の神さまです。その神さまのお言葉が、自分を通してなされますようにと願うのです。

ヨブ最後の言葉であるヨブ記42章で、ヨブも神さまに「私は知りました。あなたはどのようなこともおできになり、あなたの企てを妨げることはできません」と告白しています。自分を中心に世界を考えていたヨブは、神さまこそが創造主であることを知りました。ヨブがそれに対する無力さを思い知らされる無と混沌の中に神さまは秩序を与える方であるだけでなく、混沌の象徴であるレビヤタンを支配する方であること、その神さまのお力と慈しみが自分にも注がれていたことをヨブは知りました。苦難という混沌と闘って来たヨブは、神さまについて聞いてきたことを、内なる目で見出だすことができました。その時、苦難の中にあっても、全能の神に従って生きていくことができる者となったのです。

 

自分の都合や希望や耳目を驚かすような奇跡の実現を求めてしまう私たちです。神さまの言葉さえも浅く薄く聞いて、自分を自分の主とする言葉に惹かれてしまう私たちです。神さまが人々を救う御業を全能のお力によって推し進めてゆかれる、その御業に、自分の存在と命と生涯が用いられることを願ったマリアと共に、「お言葉どおり、この身になりますように」と祈り求め、救いの完成を待ち望むアドヴェントの時としたいと願います。