2025.11.23.主日礼拝
イザヤ2:1-5、ローマ13:11-14
「救いは近づいている」 浅原一泰
「種を蒔く人のたとえ」という有名なイエスのたとえ話がある。種が道端に蒔かれると鳥が来て食べてしまい、石だらけの地に蒔かれると土が浅いので太陽の熱と光で焼けてしまい、茨に蒔かれると茨が伸び、覆い塞いで芽が出ない。しかし良い土地に蒔かれると目を出し、実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍になる。そんな話である。
ある時私は、学校の生徒たちを石だらけや道端や茨に置き換えている自分に気づいた。種を蒔いているのに彼らは聞きもしない。いくらテスト前だけ態度を変えても彼らの本性は茨だと。どこかに良い土地の生徒はいないだろうか。いつになったら出会えるのかと。そうしていつしか、自分自身を種を蒔く人にしてしまっていることに気づいた。
これは実に大きな間違いであった。この話の主人公は種を蒔く人であり種である。罪人である人間が主人公であるわけがない。種を蒔く人はイエス・キリストご自身であり、種とは神の言葉、神の愛であり、道端や石だらけや茨が我々人間である。迷い出ていない99匹を置いてでも迷い出た1匹を捜し求めるように、イエスは相手が道端であろうが石だらけであろうが茨であろうが諦めずに種を蒔き続ける。そして神の愛が込められたこの種の力が石だらけや茨をいつの日か、良い土地へと必ず生まれ変わらせる。このたとえ話はそういう意味ではないかと気づかされ、目からうろこが落ちる思いがした。聖書の世界が違って見え始めたのである。
さて、来週11月30日から今年のアドヴェントを迎える。青山学院では今週の金曜日に幼稚園生から大学院生まで全学院の幼児、児童、生徒、学生が、そしてその保護者たちや様々な世代の卒業生、更には近くを通りかかった人々も集まって、盛大にクリスマスツリー点火祭が執り行われる。クリスマス・リースも飾られ、クランツに灯が点される。
この頃になると年の終わりも近くなり、その年の世相を表す漢字一文字が発表されるなどして、人々は「今年はどんな年であったか」と一年を振り返り始める。しかし本当のアドヴェントは、年の終わりを意味するものではない。むしろ逆である。新しい夜明けの訪れ、新しい時代の幕開けを告げる時、その幕が切って落とされる時、それがアドヴェントである。では、その新しい夜明けとはどんな夜明けなのであろうか。そして新しい時代とは、果たしてどんな時代なのだろうか。一つだけ、それはこうだと。こうに違いないと。はっきりとそう言えることがある。それは、この世で無事に過せた、ということだけで満足してはいられなくさせる夜明けである、ということだ。自分が間違っていないかどうかとか、自分が安心できるかどうかとか、そんな自分一人のことばかりに目を向けていることが全く愚かなことのように感じさせられる時代である、ということだ。というのは、その夜明けがもたらすものはこれまでと同じ朝の夜明けなのではない。神の支配が隅々にまで行き届いた、今までとは全く違う新しい朝の夜明けだからである。新しい時代についても同じである。それはそれまでの時代とは全く違って、全ての命ある者が、ただ神のみを褒め称え、神に栄光を帰し、皆が挙って神の御名を褒め称える、そういう新しい時代の到来を指しているからである。
その新しい時代は既に遠い昔から始まっていた。二千年前、イエスがこの世に来られた。そのイエスが全ての人間の罪を身代わりに背負って十字架の死を遂げられた。そのことによって全ての罪人に罪の赦しがもたらされる道が切り開かれた。弟子達を始め、信じた者達は十字架でイエスが流された贖いの血潮によって罪の赦しが与えられ、新しく生まれ変わらされた。それより後の二千年間、多くの信じる者達、キリスト者達が産声を上げてきた。我々もそうである。しかしどうだろうか。今、キリスト者とされている我々は、最初に主イエスの弟子とされたペトロ、ヤコブ、ヨハネやパウロ達と比べて、新しい夜明けに本当に気づいているだろうか。新しい時代の到来を本当に受け入れられているだろうか。むしろパウロたちとは比べ物にならないほど目先のことの不安に思い煩い、今日という日の自分の満足や安心を求めることに思い煩ってはいないだろうか。それが、否定できない我々の現実の姿というか本性なのではないだろうか。一方、神の愛に気づかず、キリストの福音を知らないでいる人はまだまだ世に沢山残されている。その方々にとっては、新しい夜明けの光はまだ届いていない。だから今年もアドヴェントはやって来る。闇に覆われているこの世に、主イエスが歩み寄って下さるその時がやって来る。しかし我々キリスト者もまた、未だ本当の意味で新しい夜明けを受け入れているとは言えない。新しい時代の到来を受け入れられていない。この世における自分のことに思い煩い続けている。だからこそ神は我々キリスト者にも、新たなアドヴェントの時を備えて下さるのではないだろうか。私たちを本当の夜明けに気づかせる為に、新しい時代の幕開けを受け入れさせる為に、この年も御子キリストは新たにこの世にも、我々世に建てられた教会に向けても、歩み寄り始めて下さるのではないだろうか。
先ほどはローマの信徒への手紙の中から御言葉を与えられた。
「さらに、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚める時がすでに来ています。今や、私たちの救いが、初め信じた時よりも近づいているからです。夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て、主イエス・キリストを着なさい。欲望を満足させようとして、肉に心を向けてはなりません。」
この中でパウロは、「今や、私たちの救いが、初め信じた時よりも近づいているからです」と書き記していた。「あなたがたが眠りから覚める時がすでに来ています」とも書き記していた。パウロはどういう思いでこの言葉を残したのか。ペトロとは違って、彼はイエスを自分の肉の目で見たことはなかった。むしろ律法に拘る余りに教会を迫害していた。しかし旅の途中で彼は目に見えるイエスではなく、死からよみがえった復活の主に出会い、「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。私はあなたが迫害しているイエスである」と語りかけられ、彼の目からうろこが落ちて迫害者からイエスを信じて従うキリスト者へと生まれ変わらされた。これも、パウロにとってのアドヴェントであったと、そう言って良いのではないだろうか。そこからの彼は別人のように彼を憎むユダヤ人達が待ち構えているエルサレムへ、命すら惜しまずに立ち向かい、最後はローマで殉教の死を遂げるその間際までパウロは主の復活を証ししていく。「救いは近づいている」。神の国の完成が近づいている、とはそういうことである。その時のパウロの信仰には、神の支配が隅々にまで行き届く、あの新しい夜明けの光が鮮やかに輝き始めていたのだと思う。命ある者全てが神のみを崇め、褒め称える新しい時代の到来、その幕が切って落とされる気配をしっかりと受け止めていたのだと思う。「わたしを信じる者は死んでも生きる」。イエスの言葉が強く、深く、パウロの心に鳴り響いていたのだと思う。その確信が深ければこそ、そのことをあのような言葉でローマの信徒達に伝えずにはいられなかったのだろう。
それから二千年の月日が経ち、私のような貧しく小さな器が伝道者とされている。お前はパウロと同じように新しい夜明けの光を鮮やかに感じているか、と問われるなら、正直にこう答えざるを得ない。ほんのかすかにしか感じられない、と。もっと言ってしまえば正直こう思っている。その光をあの手この手を尽くして感じよう、その為に色々な趣向を凝らそう、としている世の中になっていると。もしかしたら教会もクリスチャンもその世の流れにつられ始めてしまっているかもしれない、と。突き詰めれば、それらはいずれも、人間が自分の思いでアドヴェントを始めようとしていることに思えてならない。ひな人形やこいのぼりのように、その季節が来たからツリーを飾り、イルミネーションを飾って光を感じられるように人間が自分で動いているように思えてならない。
しかしそうではないのではないだろうか。真実はそこにはないのではないだろうか。教会の迫害者サウロをイエス・キリストの僕パウロへと生まれ変わらせた復活のキリストとの出会いがパウロにとってのアドヴェントであったなら、種を蒔く人のたとえはイエスご自身が種を蒔く人であり、イエスは相手を選ばずに道端にも石だらけにも種を蒔き続け、何時の日かその種が道端を良い土地に変えて下さるのに、あたかも自分が主人公であるかのように読み間違えていたことに目が開かれた瞬間。あれも私にとってのアドヴェントであったと受け止めている。皆さんはどう思うだろうか。アドヴェントとは、我々人間が動くことなのではなく神が動かれる時なのではないだろうか。父なる神の御許から、御子なる主イエスがこの世に向かって歩みだしてくださる時なのではないだろうか。この世のことばかりに思いを向けて、新しい夜明けが来ていることを忘れかけているかもしれない我ら教会の為にも、真の光なるイエスは歩み寄って来てくださる。そのことによってこの世ではなく神の国を、自分ではなく神を見上げるようにと、イエスが我らの心を変えて下さろうとしている。自分で自分を整えようとしても無駄である。我々は生きている限り、失敗を繰り返し、主の御前で転び続けることであろう。それが分かっているからこそ何度も何度も、そしてこの2025年にも主は来て下さる。世にある教会を、クリスチャンを、そしてこの私を整えて下さる。闇の世に光を点されるためにも主はこの年も、これからも来て下さる。新しい夜明けによって新しい朝が完全に明けるまで。新しい時代が幕を開け、神の国が完成するその時まで。そのようにアドヴェントとは、新しい夜明けを知らない世の多くの人々の為に動いてくださる神の業であるけれども、それと同時に、弱く愚かで自分のことだけを思い煩ってしまう我らキリスト者の信仰の目を、新しい夜明けへと、新しい時代の到来へとしっかりと目覚めさせて下さる救い主の御業でもあると。そう思えてならないのである。
「終わりの日に主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい、多くの民は来て言う。
『さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう』と。」
先程読まれた旧約聖書の中でイザヤはそう預言していた。「主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう。」その言葉の通り、主は今、私たちに鮮やかに道を示されている。「あなたがたが眠りから覚める時がすでに来ています」と。主は今、私たちに呼びかけて下さっている。「今や、私たちの救いが、初め信じた時よりも近づいているからです」と。信仰生活に慣れ切ってこの世のことに思いを向けがちな我々に主は今、改めてそのように気づかせて下さっている。「夜は更け、昼が近づいた」と。新しい夜明けから、新しい朝の光が鮮やかに輝き始めるその時は近づいている。神の国は近づいている。命ある者全てが神のみを褒め称えるその日は、昨日よりもまた一歩、確かに近づいている。そのことに気づかせて下さる為に、イエス・キリストはこの年も、新たに神の国から私達に向かって、恵みの一歩を歩みだして下さるのである。
アドヴェントは主の御業である。主が私たちを目覚めさせてくださり、主が私たちに光の武具を身につけさせてくださり、主がわたしたちの信仰を、その恵みで包んでくださる。そうして主を身にまとう者へと整えて下さる。自分のことや目に見えるこの世のことにうつつを抜かしがちな我々を、主がそのように洗って下さり、清めて下さり、主イエスを迎えるに相応しい器へと整えて下さる。それがアドヴェントという主の新しい到来の歩みにおいて、主自ら為してくださる恵みの賜物なのである。ならば我々は何を為すべきか。その主の働きかけに対して、我々はどう答えるべきだろうか。「おことば通り、この身になりますように」。御子を宿すと告げられたあのマリアが、最後にその祈りへと導かれたように、我々もこのアドヴェントにおいて、主にそのように祈りを合わせる教会でありたい。
「おことば通り、この身になりますように」と。
