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羊飼いから王へと

「羊飼いから王へ」サムエル下515

20251116日(左近深恵子)

 

 イスラエルの初代の王サウルの治世は長くは続きませんでした。神の民、イスラエルの王は、神さまのご意志の下で初めて王とされ、神さまのご意志に従うことで王としての務めを果たすものですが、サウルはこのことが危うくなってゆきました。神の民の王として揺るがせてはならないところを揺るがせてしまうサウルを、神さまは王位から退けることを決断され、イスラエルの指導者であったサムエルを通してサウルにそう告げます。そして新しい王に、ベツレヘムの地で暮らしていたエッサイの息子の一人、ダビデを選び、サムエルを遣わしてダビデに油を注いだことを、先々週の礼拝でサムエル記上から聞きました。聖書において油を注がれるのは、大祭司など神様から重要な働きを与えられた者たちです。とりわけ王の任職において、王として神さまが立てられた者に油が注がれます。神さまはダビデを王として立てられたことをダビデに、そこに居たであろう少なくともダビデの家族たちに、油注ぎを通して示されました。しかしダビデは王位に直ぐに就いた訳ではありません。王位にはまだサウルがおり、サウルは王として揺らぎ続けていました。

イスラエルの民がサウルという王を持つようになった背景には、周囲の民、とりわけペリシテ人からの度重なる攻撃がありました。周囲の民の存在はまた、イスラエルの民を、周りの民が崇める偶像の神々を拝むことへと引き寄せました。かつて奴隷とされていた地で、神様を礼拝する自由を奪われ、人として生きることができなかったところから神さまによって導き出され、神の民とされ、十戒という神の民として生きてゆく道標を与えられたイスラエルの民です。その彼らが、偶像の神々を拝むことに引きずられ、神さまに背を向けてしまいます。その背きに対して、神さまは周囲の異教の人々の攻撃を用いられたのだと、神さまがイスラエルの民を、偶像を崇める人々の手に渡されたのだと聖書は伝えます。しかしまた神さまは、これらの敵の侵入を阻み、民を導く士師という指導者を、危機が到来する度に立ててくださいました。士師と言う英雄であり、指導者である者によって、民は敵から守られ、ただお一人の神を崇めることへと立ち返ってきたのです。

その内イスラエルの民は、他の民が持つような王を欲するようになりました。危機が訪れる度に、一時的に、限定された地域において活躍する士師という英雄以上の存在、常時守ってくれる存在を求めたのです。サムエルは、神の民イスラエルとは、主なる神が王として治められる国であること、人間の王を立てるということは、神様を蔑ろにすることなのだと人々を諭します。それでも人間の王を持つ国となりたがる民に神さまは、人間の王は、民を治めることにおいて危うさを抱える者であり、治められる民はそのような王たちによって苦しむことになると告げた上で、なおも人間の王を求める民に、サウルを選び立ててくださったのでした。

そうして念願の、1人の人間の王を戴く国となることができたイスラエルの民ですが、それまで緩やかに繋がってきた12部族が、一つの王国へと転換するのは容易いことではありません。12の部族はそれぞれの歴史があり、互いの違いを重んじつつ、必要な時に互いに助け合う関係でありました。12部族全体と周囲の民との間に、明確な国境がある訳ではなく、イスラエルという民全体は、中央集権的な組織によって成り立っている訳ではありません。人々は、自分たちは神の民に属しているという認識によって、互いに一つとなり、連帯してきたのです。そのような国の初代の王として立てられたサウルには、この国の王としてのロールモデルがいなかったと言えます。危機に備えて常備軍を結成し、困難が生じるとその都度外敵の侵入を押し返すことには成功したものの、国の体制を組織的に固め、国を建て上げるには至らずにいたサウルの働きは、それまでの士師たちの延長線上にあったと言えます。神の民の在り方が大きく転換する過渡期にあり、転換してゆく速度も、望む今この時の神の民の在り方についても、民や部族の思いが全く同じとは言えない中で、サウルは王として託されている力を、その時々の自分の思いを実現させることに用いるようになってゆきます。とりわけ、臣下であり、ペリシテとの戦いにおいて大きな成功を治めたダビデの有能さと、ダビデに対する人々からの高い評価に妬みを募らせ、ダビデへの猜疑心で頭はいっぱいになり、ダビデを付け狙うこと以外眼中に無い状態となってしまったサウルは、外敵に備えることも怠るようになってしまいました。サウルは、神さまのご意志に耳を傾けるよりも、妬みや焦りといった自分の思いに支配される者となってしまいました。やがて攻め込んできたペリシテとの戦いでサウルは戦死してしまいます。息子たちもそのほとんどが、その戦いで壮絶な死を遂げます。かろうじて生き延びた息子がサウルの後を継いで王となりましたが、それは限られた地域でのことであり、その上実権は息子を担ぎ上げた将軍に握られていたのが実態であったようです。

サウルはベニヤミン族の出身であり、ダビデはユダ族の出身でした。サウルに命を狙われていた間ユダの地を離れていたダビデは、サウル戦死の知らせを聞き、ユダ族の地、ヘブロンに戻ってきました。ユダ族はダビデに油を注ぎ、ユダ族の王としました。ヨルダン川西岸にあるヘブロンは、ユダ族にとって大切な地でありました。かつて神さまはカナンの地で、子どもがいないまま年を重ねていたアブラハムに、“あなたを大いなる民とする”と、“この地をあなたの民に委ねる”と約束されました。やがて年老いたアブラハム夫婦に息子が与えられ、そして妻サラが死んだとき、アブラハムはサラを埋葬するために、ヘブロンのエフロンという人が持っていた畑、と畑の端にあるマクペラの洞窟を購入し、そこに妻サラを葬りました。その洞窟に、後にアブラハムも息子たちによって葬られ、アブラハムの孫であるヤコブも、息子ヨセフによって葬られました。

ヘブロンは、神さまがアブラハムに与えられた“あなたを大いなる民とする”、“この地をあなたの民に委ねる”との約束が実現された第一歩の地と言えます。信仰の父祖アブラハムの、神さまの言葉に従う歩みと、そこから世代を超えて受け継がれてきた歩みと、神さまが祝福をもって約束を実現してくださってきた神の民の歴史を、思い起こすことのできる地です。ユダ族の人々から王として立てられたことはダビデにとっても、かつてサムエルを通して、あなたをイスラエルの王とすると告げられた神さまの約束が、部族内のこととは言え、一歩実現された出来事でした。その最初の一歩がヘブロンの地で刻まれたことは、ダビデにとって、神様の言葉に従う歩みを力づけられるものだったのではないでしょうか。

一方ユダ族の外では、サウルの死後、王位を巡って多くの血が流されていました。将軍の後ろ盾でサウルの後を継いでいたサウルの息子が殺され、その息子を王に担ぎ上げて実権を握っていた将軍も殺されました。そこで「イスラエルのすべての部族はヘブロンのダビデのもとに来た」とあります。それは、ユダを除いた全ての部族が、代表者たちをダビデのもとに遣わしたことを指すのでしょう。ヘブロンでユダ族の王となっていたダビデに、自分たちの王にもなることを要請するためでした。彼らにとって、サウルの娘ミカルと結婚していたダビデには、サウルの王朝の後継者となる資格があると言えたでしょう。代表者たちはダビデに、「私たちはあなたの骨肉です」と述べています。ダビデはサウルと同じベニヤミン族の出身ではないが、同じイスラエルのユダ族の1人であり、そしてダビデがサウル王朝と血縁にあることを指して、自分たちはあなたの骨肉だと述べているのでしょう。

ダビデに王の資格があると考える理由は他にもあります。ダビデはかつてサウルの軍の指揮官として活躍していました。有能な指導者であることが知られています。王としての素質が十分にあることは実証済です。

けれど何よりも、ダビデに対する神さまの約束が、ダビデを王にと望む彼らの最大の理由でありました。主なる神が王権をサウルの家から移し、ダビデの王座を打ち立てると約束されたことは、広く知られていました。だから彼らは、王となる人はダビデの他にいないと、心一つにやって来たのです。彼らは、主なる神がダビデに告げられた言葉、「わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる」、この約束の言葉をダビデに告げました。ダビデが神の民イスラエルの王となることは、人望が厚いダビデに王になって欲しいという彼らの願いに拠るのでも、ダビデの有能さや外見や人柄といった王にふさわしい素質に拠るのでもなく、神さまのご意志に従うことであるのだと、共に確認したのです。

その上で、今度はイスラエルの長老たちがダビデの許に来たことが述べられています。先に代表者たちがダビデに要請し、このことは神さまのご意志によるものであることをダビデと共に確認できたので、各部族は、今度は長老たちを派遣したという流れではないでしょうか。長老たちが来たのは、ダビデに油を注ぐためです。かつてはサムエルがサウルとダビデに油を注ぐ務めを担いましたが、サムエルは亡くなり、イスラエルの全ての人々が彼の死を悼んだことが、サムエル記上25章に記されています。今日の箇所では各部族の長老たちがこの役割を担っています。ダビデは主のみ前で彼らと契約を結んだとあります。「主のみ前で」とは、神さまを礼拝し、祭儀を執り行うヘブロンの聖所で、このことが行われたことを指すのでしょう。ダビデは長老たちに対して、つまり各部族に対して、契約を結びました。神さまのご意志によって立てられた王として、神の民イスラエルに、神さまのご意志に従って誠意を尽くすことを、約束したと考えられます。この契約に基づいて、長老たちはダビデに油を注ぎます。主のみ前で、主の言葉に従って、ダビデはイスラエル12部族全体の王として立てられたのです。

 ヘブロンで王として立てられたダビデは、暫くヘブロンを拠点に国を治めましたが、その後エルサレムを征服し、エルサレムをイスラエルの中心地とします。丘の上にあり、三方を山や谷に囲まれた天然の要害である、難攻不落と言われたエルサレムを征服し、周囲を城壁で囲み、これを国の新しい都としたことに、ダビデが優れた軍人であることが現れていますが、同時に12部族から成る民を治める者としての、ダビデの思慮深さがうかがえます。イスラエルは単一のまとまった国家というより、緩やかに部族同士がつながっている連合体です。それぞれの部族の思いがあります。エルサレムには、エブス人が住んでいました。12部族のどこにも属していなかったエルサレムを、12部族全体の中心地としたのです。エルサレムが、ダビデが属するユダ族の地と、サウルがその出身であるベニヤミン族の地の境にあることも、エルサレムを国の都としたダビデの知恵を思わせます。ダビデは、困難が起きる度にその都度対処する英雄である以上に、神の民が互いに一つとなるために国を建て上げてゆくことを願う王であることが、伝わってきます。

なお、カナンの民エブス人の町であったエルサレムを都としたことにより、イスラエルという神の民は、アブラハムに遡る血筋であることを誇る人々のものだけではなく、神の民と共にただお一人の神を仰ぎ、イスラエルの神に従うことを願う、種々雑多な民から成るものであることが、より明らかになったと言えます。

5節は、ダビデがヘブロンで油を注がれ王となったのは30才の時であったことを伝えます。サムエルが父親や兄たちを招いて執り行う祭儀に加わることが許されず、祭儀の間羊の世話を任されていたダビデが、主の言葉に従って招いたサムエルによって羊の群れの後ろから導き出され、油を注がれてから、随分と長い年月が経ちました。その間、サウルから妬まれ、命を狙われていた時期が長く続きました。ダビデがサウルを倒して王位から引き摺り下ろそうとすればできないことはない状況もありましたが、ダビデは、神さまが王として選び立てた人だからと、神さまの選びを重んじてサウルのことも重んじ、自ら王位を取りに行くことはせずにきました。自分の立場を押し上げ、自分の勢力を拡大するために、自分の力や自分に寄せられた人望を用いて画策することはせずにきました。サムエルによる油注ぎから、12部族の王としての油注ぎまでの、長く、厳しい年月を、ダビデは神様の約束が実現されるために最善の時が来るのを待つ時としました。王として揺るがせてはならないものを揺るがせるサウルに支配されていた各部族の民にとってその年月は、神の民の王とはどのような者であるのか問う時であったのではないでしょうか。異なる部族の代表者たちが、自分たちとは異なる部族出身のダビデに対して、“私たちはあなたの骨であり肉であります“と述べています。互いの違いも貫いて、自分たちを神の民とされ、自分たちの神となってくださった神さまへの信頼において一つとなっています。ダビデ個人への信頼に拠ってではなく、何より、ご自分の言葉を成し遂げられる神さまへの信頼に拠って、同じ心でダビデを王としています。王とされたダビデも、人間の王を与えられた民も、この王を選び立て、この王を神の民の王としてくださっているのは神さまであることから離れてしまったら、互いを繋ぐものは無くなってしまいます。神の民の真の王は主なる神であることを蔑ろにしてしまったら、王と民は、王としての資質が問われるだけの、全ての人を満足させることはできない人間と、満たされることのない要求を主張し続けるしかない民の関係に陥って行きます。神さまはダビデに、「わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる」と告げて、羊たちの後ろからダビデをここまで導き、イスラエルを牧する羊飼いとしてくださいました。神の民の王は、神さまが「わが民」と呼んでくださる神さまの群れを、神さまのみ心に従って導き、守り、養う羊飼いであるのです。

 

神さまはダビデに、ダビデの家を永久に固く据えると約束されました。そしてダビデの血筋に属するヨセフの息子として、世に、真の王を与えてくださいました。真の王、イエス・キリストは、神でありながら、人としてお生まれになり、私たちの骨肉となってくださいました。私たちと同じ血が通う肉の温かさを持った人間となられた救い主は、私たちに罪の赦しを得させるために、苦しみの道を歩み続け、十字架で骨を折られ、肉を裂かれ、血を流される死を、死んでくださいました。そうまでしなければ贖うことのできない罪の支配から私たちを救い出し、神の民、神の子らとして、神さまの祝福の内に、永久の命に生きてゆく者とするためです。このキリストの救いを我がためと受け入れている人は、生きる時も死ぬ時も、永久に、キリストは私たちと共におられ、養い、神さまのもとへと導いてくださる真の王、真の羊飼いであることを知る者とされています。ただこの方をのみ、私たちの真の王と共に崇める主の群れであることを、共に願う者でありたいと思います。