「人の目、神の眼差し」サムエル上16:1~13、ヘブライ4:12~13
2025年11月2日(左近深恵子)
先週、夕礼拝でルツ記から聖書に聴きました。ベツレヘムにエリメレクとナオミという夫婦が暮らしていましたが、その地域一帯を飢饉が襲ったので、夫婦は2人の息子を連れてモアブの野に移り住みました。生き延びる為に、神さまが約束の地として神の民に託してくださったカナンの地を離れ、異国の地で暮らす決断をしたのでした。しかしやがて夫エリメレクが死んでしまいます。一家の大黒柱を失い、ナオミは故郷から離れた地で1人で息子2人を育てたのでしょう。息子たちは無事に成長し、それぞれモアブの女性と結婚します。その一人がルツでした。それから10年ほどして、今度は息子たちが次々に死んでしまいます。独り残されたナオミの耳に、神さまが故郷の民を顧みてくださり、再び人々が食べ物を手に入れられるようになっているとの知らせが届き、ナオミはベツレヘムに帰ることを決意します。息子の妻たちも一緒に行くと主張しますが、ナオミはモアブ出身の2人にとって実家に帰ることが最善の道だと考え、2人に「自分の民、自分の神」のもとに帰るようにようにと言い聞かせます。妻の内1人はナオミの言葉を受け容れ、別れを惜しみつつ親の許に帰りますが、もう1人の妻ルツは譲りません。ルツはきっと、亡き夫やナオミの、モアブの地でも神さまを崇め、祈り続ける姿を通して、イスラエルの民が信じる神さまを知ってきたことでしょう。とりわけナオミが、夫だけでなく息子たちまで立て続けに死に奪われた現実の根源に、命を与え、命を取られる神さまのみ手を見つめ、神さまのみ心を求めてもがきながら、その神さまの下で生き、死んでゆこうと、ベツレヘムへと向かおうとしている姿を通して、またナオミ自身が胸えぐられるような辛さの中にありながら、息子の妻たちに感謝し、妻たちのこの先を案じ、安らかな生活を神さまに祈り求める姿を通して神さまを知ったのでしょう。ルツは、自分にとって今やナオミの民が自分の民であり、ナオミの神が自分の神なのだと、神さまへの信仰を告白する者となっています。こうしてナオミと共にベツレヘムに行ったルツは、やがてボアズと言う人と再婚します。ボアズはナオミの夫エリメレクの親戚の者であり、地元の有力者で、畑を所有していました。ルツとボアズとの間にオベドという息子が与えられ、オベドにはエッサイが与えられます。このエッサイが、今日のサムエル記の箇所に登場するダビデの父です。
今日の箇所に始めて登場するダビデは、後に古代イスラエルの二代目の王となります。イスラエルの王の中で最も神の民に愛され、慕われた人と言えるダビデです。即位した後、神さまは預言者を通して、ダビデの末裔にダビデの後を継がせ、その王国を揺るぎないものとするとダビデに告げられ、ダビデ王朝がここから始まります。神さまは、ダビデの家、ダビデの王国は永久に続き、その王座は永久に固く据えられるとも言われ(サムエル下7:12~16)、そうしてイスラエルを固く支えてくださると約束されました。やがて神の民は、ダビデの血筋に神さまが与えてくださる、イスラエルの民を真に支配する王メシアを待ち望むようになります。ルツ記は、ルツとボアズからダビデへと至る系図を記して結びとしています。マタイによる福音書最初のイエス・キリストの系図も、男性が主な系図の中で、ダビデの3代前のルツの名前を伝えています。ダビデの曾祖母が、自分のことを大切に思うが故に実家に帰るようにと繰り返す義母の説得にも揺るがない神さまへの信頼に生きた異国の民出身のルツであったことを、こうして聖書は大切に伝えているのです。
ルツの孫、エッサイの8人の息子たちの末っ子としてダビデは生まれました。ボアズがそうであったように、エッサイの家もある程度裕福であったようですが、イスラエルの歴史において特別に影響力を持ってきた家というわけではありません。その小さな町ベツレヘムのエッサイの子どもたちの中に、神さまはイスラエルの王を見出されたのです。
神さまはサムエルという人をエッサイの所に遣わします。サムエルは油で満たされた牛の角を携えています。神さまが王として選ばれた者に注ぐ油です。油を注ぐことは聖書では、神さまがお選びになった人を神の民にとって重要な務めに任職することを意味します。祭司サムエルはかつて同じように神さまから遣わされてサウルに油を注ぎ、サウルはイスラエル最初の王として立てられました。サウルは国を整えてゆくことに大いに力を発揮しました。後のダビデの活躍は、サウルが積み上げてきたものがあったからこそとも言えるでしょう。しかしサウルは次第に神さまの言葉よりも、自分の思いを重んじるようになります。神の民イスラエルの王は、神さまのご意志の下で初めて王とされ、神さまのご意志に従うことで王としての務めを果たす者であります。このことが危うくなり、自分がやりたいように力を行使するサウルに、神さまはサムエルを遣わされましたが、悔い改めて神さまに立ち帰るよう求められても部下に責任を押し付け、神さまがサウルを王位から退けられたことを告げても、神さまの決定が家臣の者たちに知られたらどう見られるのかばかり心配するサウルでした。
サウルのこの現状を思って悲しむサムエルに、神さまは新しい王となる者をベツレヘム人エッサイの息子の中に見つけたと、角に油を満たし、出かけなさいと告げられたのです。神さまはサウルを王位から退けることを決められましたが、まだサウルは王位にある身です。サムエルはこの時ラマと言う場所に居ましたが、そこからベツレヘムに行く途中に、サウル王が住むギブアという町があります。サムエルはサウルから行動を監視されていると感じていたのでしょう。自分がいつもと違う行動を起こせば、サウルは猜疑心を募らせるだろう。新しい王に油を注ぎに行くことがサウルに知られたら、反逆の罪で自分を殺すだろうと、ベツレヘムに行くことを恐れるサムエルに神さまは、神さまにいけにえを捧げる祭儀を行うためにベツレヘムに行き、そこにエッサイを招くようにと知恵を与えられます。祭司サムエルにとって、祭儀を司るのは大切な務めです。ベツレヘムでいけにえの雄牛を調達するのではなく、ラマから持参するように主が命じられたのは、途中でサウルに咎められた場合に備えてのことかもしれません。こうしてサムエルは、油注ぎと祭儀の支度をしてベツレヘムに行きます。
ベツレヘムの長老たちが不安そうにサムエルを迎えたのは、サウル王とサムエルの関係が以前とは違ってしまっていることが彼らの耳にも届いていたので、サムエルが来たことで、自分たちが巻き添えを食う羽目になると恐れたのはないでしょうか。王の気持ち一つで、王の側かそうでないかレッテルが張られ、粛清の対象にされかねないと、ベツレヘムの長老たちも大きな不安を抱えている様に、王が委ねられた力を自身の保身のために他者に振りかざす者となってしまっている、現代に生きる私たちにもリアルな状況が垣間見えます。ベツレヘムの長老たちは、サムエルから神さまにいけにえを捧げ、礼拝するために来たと聞き、安心したことでしょう。サムエルはその祭儀に、エッサイとその息子たちを招きました。
祭儀に来た息子たちの中で、エリアブという人がサムエルの目に際立って映ったようです。心の内に「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と思います。「彼こそ」と言う表現に、この者で間違いないというサムエルの確信がうかがえます。けれど主はサムエルに「容姿や背丈に捕らわれてはならない」と言われたのです。
主の言葉は、容姿や背丈が素晴らしい者は選んではならないということでは勿論ないでしょう。サウルも、容姿や背丈の高さが際立っていたことが述べられていました(9:2)。ダビデも12節で、「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」(12節)と言われています。目立つ外見を持つ者を選んではならないとするなら、それもまた外見に捕らわれた判断となります。外見に捕らわれるかどうかというより、皮相的、表面的に判断しがちな人間の実態を神さまは明かにされ、神さまの選びはそのようなものではないことを示されたのではないでしょうか。
神さまは、「私は人が見るようには見ない」と、「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」からエリアブを「退ける」と言われています。この「退ける」と同じ言葉が、少し前でも用いられていました。前の章で、サムエルがサウルに主の言葉を告げた際、「あなたが主の言葉を退けたので、主はあなたを王位から退けられた」と言っています(15:23)。今日の16:1でも主は、サウルの現状に悲しむサムエルに「いつまであなたは、サウルのことで悲しんでいるのか。私はイスラエルの王位から彼を退けた」と言われています。主がサウルを退けられたのは、サウルが主の言葉を退ける者となってしまったからです。神さまのご意志によって立てられている王として、退けてはならないものを退ける者となってしまったからです。そこから神さまの下に帰ることに心を向けるより、他者の目にどう見えるかに心を奪われる者となってしまったからです。
神さまは人の内側を見ておられます。主の言葉を求め、主の言葉が伝える神さまのご意志に従おうとしている者の奮闘を、他の者は見過ごしても神さまは見ておられます。神の民の王として立てる者が、主の言葉が指し示す道を求め、その道を民が進むことができるように心砕いて民を導く者であるのか、主は見つめるのです。
神さまが見出しておられたエッサイの子どもは、祭儀への参加が認められず、羊の群れの番をしていました。まだ幼く、祭儀に参加するにふさわしい年齢に達していなかったからでしょう。その子ダビデが連れて来られ、その外見は人の目に好ましいものでありました。しかしダビデが主が選ばれた者であることは、外見や、サムエルが外見から受けた印象に拠って定まるのではなく、主の言葉に拠って確かなものとなることが油注ぎによって示されます。「立って彼に油を注ぎなさい。彼がその人である」と主から告げられたサムエルは、携えて来た油をダビデに注ぎます。ダビデの王としての即位はまだ先のこととなりますが、ダビデが、神さまが王として認めた者であることが示されます。ダビデにとっては、即位への備えの時の始まりとなったことでしょう。「この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」とあります。ダビデは、神さまが共におられる者であることが聖書で度々述べられますが、神さまが伴ってくださるダビデの歩みはここから始まったのです。
神さまのダビデの選びも、私たちの思いを超えたものでした。ダビデが王となった後、ダビデの活躍で国も安定した頃、ダビデは王である自分と神さまとの関係を、自分の思い中心に捉えることへと傾いたことがありました。そのダビデに神さまはこう告げられました、「牧場で羊の群れの後ろにいたあなたを取って、私の民イスラエルの指導者としたのは私だ」(サムエル下7:8)。神さまにいけにえを捧げる祭儀に参加するにはふさわしくないとみなされていたようなダビデを、羊の群れの後ろから導き出し、王とされた、ダビデも父親も考えもしなかった選びをなさったのは神さまであること告げる主の言葉にダビデは、「主なる神よ、取るに足りない私と、私の家を、ここまでお導きくださるのは、なぜでしょうか」と、神さまの選びを驚きをもって受け止め直したのです。
王としてのふさわしさに人が期待することを超えて、神さまは神さまの自由の内にダビデを王として選ばれました。ダビデが導く神の民イスラエルを、神さまがご自分の民とされたのも、イスラエルの民の側にふさわしさがあったからではありません。数が多く、強い民を神の民とする方が、神さまの器として神さまの祝福を他の民にもたらし、神さまのお働きを世に知らしめるために、正しい選択だと思うのが人の常識です。しかし神さまは、どの民よりも少なかったイスラエルを「地上にいるすべての民の中から選び、ご自分の宝の民とされた」のだと、それはただイスラエルに対する「主の愛のゆえ」であり、かつて誓われた救いのご計画を実現するために、奴隷の家、エジプトの王ファラオの手からあがない出したのであると、モーセを通して言われています(申7:6)。
イスラエルは小さく弱い民でした。イスラエルが数を増して力を持つことを警戒したファラオによって奴隷にされ、虐げられていました。神の民とは、人として生きることが退けられていた所から、神さまによって導き出された民であるのです。神の民の1人である夫やナオミを通して神さまの愛と救いを知り、自分もこの民の一人となって神さまを崇め、生きて死んでゆくことを願ったルツのように、神の民を通して神さまを知り、神さまに従う道を行くことを願った人々も共に、神の民とされてきたことを、旧約聖書は大切に記してきました。そして、ダビデからおよそ千年後のベツレヘムの町に、ダビデの血筋の家に、救い主をお与えくださいました。ダビデの血筋の者であっても、ダビデの町ベツレヘムで、臨月の妻の出産に相応しい宿泊場所を得ることもできないような、弱く小さな家族に、神の独り子を委ね、救い主の親としての務めを与えてくださいました。
キリストの弟子の1人ペトロは、最後の晩餐の席で主イエスから、「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰が無くならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、きょうだいたちを力づけてやりなさい」と言われました。他の者たちがどんなにサタンに信仰を揺さぶられても、自分は牢であろうと死であろうと、どこまでも主イエスに従っていくと、その覚悟を口にします。ペトロは、揺るぎない信仰に生き通せる者だと、自分自身を見ていたのです。しかし主イエスはペトロに「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは3度私を知らないと言うだろう」と言われます。その晩、ペトロは主の言葉通り、大祭司の家の中庭で、召使の女に、別の人に、更にまた別の人に、主イエスを知らないと言ってしまいます。最後の言葉を言い終えない内に鶏が鳴きます。その時主イエスが振り向いてペトロを見つめられたとルカによる福音書は伝えます。ペトロは主イエスの眼差しの中で主の言葉を思い出し、そして庭の外に出て、激しく泣いたとあります。
晩餐の席で主イエスの言葉を聞いた時には、主の言葉を押し返すように、自分はそのような者ではないと主張しましたが、主イエスに見つめられ、主の言葉を思い出し、自分には見えていなかった、見ようとしなかった自分の内側を、主は初めから見つめておられたことを知ります。ヘブライ書が記しているように、主の言葉は、いかなる両刃の剣よりも鋭く、魂と霊とを切り離すまでに刺し通して、ペトロの奥底に突き刺さります。この時初めてペトロは、既に聞いていた主の言葉に、本当に聴くことができたのでしょう。ペトロがご自分を退けることを知っておられながら、「立ち直ったときには」と、ペトロの立ち直りを願ってくださる言葉に心を開き、「きょうだいたちを力づけるように」と、主が示しておられた道を、主と共に見つめることへと背中を押されたことでしょう。このペトロが、主イエスの十字架と復活、昇天の後に、使徒たちの中心となって福音を語り、教会に仕える者となります。剣のように突き刺さる主の言葉を退けるのではなく、主が求めておられることを、主の言葉によって求める者となったのです。
人の目は気づけば曇り、自分の手が為して来たこと、自分の手の中にあるものばかり見つめがちです。自分のふさわしさに自分を誇ってみたり、ふさわしさが足りないと不安に苛まれたりの、行ったり来たりかもしれません。ふさわしさを持たない私たちを、ただ神さまの愛によって、救い主へと導いてくださった神さまの、み言葉の光に照らされて歩むことを、互いに祈り合いつつ求める神の民でありたいと願います。
