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あなたがたを自由に

2025.10.26.

詩編33:4-11、ヨハネ8:3-38 

「あなたがたを自由に」浅原一泰

 

今月31日の金曜日には、あのマルティン・ルターがドイツ、ヴィッテンベルクの城壁に95ヶ条の提題を張り出し、それによって宗教改革の火蓋が切られたことを覚える宗教改革記念日を迎えようとしている。それから500年以上の歳月が流れた今、我々キリスト者、特にプロテスタ ントの教会で礼拝生活を守り続けているキリスト者の特徴は何か、ともし訊ねられたら、皆さんは何と答えるだろう。宗教改革の三大原則として昔からよく言われて来たのは、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「恵みのみ」の三つである。だから「信仰」を何よりも重んじ、またかけがえのない宝物のように見なしている。そのようなことが多くのクリスチャンたちから答えの一つとして挙げられるのではないだろうか。

 

「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」。

ロマ書3:28にあるこのパウロの言葉が500年以上前のルターやカルヴァンたちを動かした。更にまた、それからどれほどの時が流れようとも、全世界の、特にプロテスタントの教会にとって、またそのキリスト者にとって、決して廃ることなく、綻びることなく、その言葉は光を放ち続け、全世界の教会、信仰を持つ全てのキリスト者を照らしている、と言えるであろう。

 

パウロの言った通り、キリスト者たるものは、その人のいかなる行いや才能によるのでもなく、ただその信仰によってのみ義とされることを、私も信じている。教会は人間の行いで建っているのではなく、一人一人の信仰によって生きた教会とされるのだ、と私も思う。また信仰がその人に与える力の強さ、恵みの豊かさ、信仰のかけがえのない大切さを私自身のような小さな器でも、これまでの信仰の歩みの中で何度も教えられ、気づかされてきた。しかしながら、信仰さえあれば何でも許される、と言うことにはならない。信仰を持ち出しさえすれば、その人は何を言っても、何をやっても許される、と言うことにはならない。第一、自分はどれほどイエスを我が主と信じているのか、なんて決して自分では分からない。神のみぞ知る秘密であろう。信仰が深いか、浅いか。それがキリスト者を見分けるような、尺度にはならないだろう。一度深い信仰にたどり着いた人は、生涯変わらずに同じ信仰を持ち続ける、と思う人もいるかもしれないが、決してそんなことがあるわけはない。信仰が深いように見えた人が、ある時から熱が冷めるように祈らなくなり、信仰を捨ててしまうことさえある。

 

今、その人に信仰があるから、それがその人に永遠の命を保証する、と言えるか。自分に信仰があるから、と言ってそれが、神の国に入ることを決定的にする、と言えるか。洗礼を受け、聖餐に与ってさえいれば罪の誘惑から守られる、と言うことにはならないことは皆さんよく経験されて来たことであろう。神の栄光の為に目覚ましい奉仕を続けていれば神に義と認められる、と言うことでもない。神の言葉を取り次ぐために召された伝道者も説教さえしていれば神の民とされる、と言うわけではない。

 

自分を信じた多くのユダヤ人たちに向かってイエスはこの時、こう言われていた。

「あなたがたが私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」(8:31)

多くの者が自分を信じた、ということでイエスは満足していない。信じると言っている一人一人を信用していたわけでもない。そうかと言って彼らを跳ね除けたわけでもない。イエスは弟子となるように、神の言葉にとどまるように招いていた。そして言われた。弟子となったその時、あなたたちは真理を知る。真理はあなたたちを自由にする、と。

 

皆さんは何を思うだろうか。そう言われても難しい。信じるだけで自分は精一杯であると思うだろうか。二千年前のユダヤ人はこの言葉に躓いた。我々は既にアブラハムの子孫だ。奴隷になったことなどない。なのになぜあなたがたはこれから自由になると言われなければならないのか。神に選ばれ、アブラハムの子孫として祝福を受け、誰の奴隷にもなっていないのに。彼らは反発さえ感じた。

 

こういう人がいるかもしれない。彼らはキリストの十字架も復活も知らない。自分の都合の良いように神の言葉を理解していたから躓いて当然だと。しかしキリストの十字架の死によって罪赦され、その復活によって、信仰と言う新しい命を与えられているキリスト者は躓く筈がないと。しかしこうも言えるかもしれない。ユダヤ人達も先祖代々、唯一の神を信じ、十戒を通して神の御心を示され、自分たちは神に守られ導かれていると信じた。それで十分であると。それ以上自由とされる必要はないと。そんな当時のユダヤ人達の思惑と、信仰さえあれば十分だと言うらキリスト者が陥りやすい思惑とは似通っている。そのどちらもが、神の業ではなく人間が打ち立てたものである。洗礼を受け聖餐に与ってさえいれば永遠の命を保証される、と言うのは神の業ではなく人間の思い込みとなっている。それは聖書の言う真理ではないだろう。思い込みがあなたがたを自由にするわけがない。未だに「罪の奴隷だ」と、イエスは言いたかったのではないか。真理があなたたちを自由にする。その自由とは「罪からの自由」である。そしてあなたたちを罪から解き放つことができるのは思い込みではない、真理だけだとイエスは言っているのである。その真理とは何であるのか。

 

「主の言葉はまっすぐ、主の業はすべて真実」、「天は主の言葉によって、天の万象は主の口の息によって造られた」と先ほどの詩編にあった。イエスが言う真理とは、御言葉と御業とをもって天をも地をも造り賜う主の働きである。全地を慈しみで満たし賜う神の御心である。その神は今、罪の奴隷とされていた者らを解き放ち、一人一人に罪からの自由を与えようとしている。そのことによって、神の御心と言う真理の全てが成し遂げられようとしている。イエスはそう言ったのである。

 

「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる」。

神の御心と言う真理は、神が世に遣わしたイエスにおいて全てが示される。イエスが十字架にかかり、復活によって死から命へと起き上がり、神のもとへと昇っていくこと、聖霊を注がれることにおいて、本当に人間が罪から自由とされる道の扉が開かれる。その道は、洗礼や聖餐が神の国に入ることの保証なのではなく、あなたたちが信仰へと招かれ、洗礼や聖餐へと招かれた神の業であり、それを信じる心も神からの賜物である。それだけではない。その言葉は罪から本当に自由とされるその時まで、神の国の民とされるその時までも神の業によってのみ守られることを示している。

 

罪の奴隷であった者が神の国の民とされる道。それは神の恵みである。神の賜物、ギフトである。その道に入れられても何時しか我々は、自らの思いや業でそれを実現できると、思い込みかねない。聖餐に与り続ける限り、その道を自分は歩んでいると思い込みかねない。信仰ある限り、自分はその道から逸れないと思い込みかねない。我らがそのような者だからこそイエスは弟子となるように招くのである。

 

「あなたがたが私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」(8:31)

私の言葉にとどまるならば。罪の奴隷であるあなたたちがイエスの僕とされるならば。自分の才能や奉仕によってではなく思い込みによってでもなく、イエスの告げる御言葉に捕えられる土の器とされるならば、あなたがたは本当に私の弟子であり、神の国の民とされる道のりを私と共に歩むのだと。あなたたちを神はそのように招いているのだと。イエスはそう言われるのである。

 

 

信仰とは、その人がどれだけ神を思い慕っているか、と言うその人の熱意なんかではない。信仰とはその人に働く神の業である(ルター)。二千年前のユダヤ人は躓いた。神の選びや十戒があると言う人間の思い込みから外へ出ることをしなかった。そうして罪の奴隷のままでいることを選んだ。しかし私達に与えられている信仰は、罪の奴隷から、キリストに縛られ、主の僕とされることである。昨日も今日も明日もイエスは我らと共にいて、導き続けてくださる。神の国の民とされるまで養い続けてくださる。そのことを何よりも喜び、この方を我が主と崇めたい。