2025.9.28.主日礼拝
イザヤ64:5-8、ヨハネ8:44-47 「なぜ信じないのか」 (浅原一泰)
創世記の初めに有名な兄弟の話がある。カインとアベルの物語である。兄カインは弟アベルを殺してしまう。アベルが悪を働いたからではない。それは兄カインの弟に対する「妬み」故の行為であった。カインの捧げ物に対して神は目もくれず、アベルの捧げ物だけに目を止められたからである。この弟がいることで自分の立場は追い詰められ悪化の一途を辿るかもしれないことへの恐怖の余り、カインはあのような行為に走ってしまったのかもしれない。さすがに殺人まで犯そうとは思わないとしても、同じように誰かによって自分が追い詰められているように感じて、心の中でその相手に何らかの牙を向けてしまった経験をお持ちの方は結構いるのではないだろうか。カインはばれてしまったけれども、おそらく実際には人にばれないように今もなおカインと同じことをしている人間は少なくないのではないだろうか。
カインの父親と母親であるアダムとエバは神から命を与えられた最初の人間でありながら神から言われていた言葉を守り切れず、むしろその神の言葉を捏造した蛇の囁きを選んだことは皆さんよくご存じのことである。神の言葉とそれを捏造した蛇の囁きと、いったいどちらに真理があるか。いったいどちらが偽りでどちらに真実があるのか。言うまでもないであろう。ということは人類は初めから真理ではなく偽りを選んだわけだ。それが原罪という罪の根源とされている。聖書によれば人類すべてが、誰一人例外なくこのアダムとエバの子孫である。ということはつまりこの世は初めから真理ではなく偽りが蔓延しそれが支配する世界であり、そこには真理、真実は無視されるか踏みにじられる世界が広がっていたし今もなおそうなのだと、それが現実だと言い切って良いように思う。罪に引きずられてそのようになってしまったこの世を聖書は闇とも呼んでいる。そして闇のこの世では、何が真実で何が偽りなのか、ということには目も向けられず、結局は生き残った者が勝つ、やられた方が悪いのだ、と言ったうわべだけの評価が下され続けている。そのように思うのはこの中で私だけだろうか。
ところで夏休み明けのことだった。授業なんか受けたくない、真っ平ごめんだと全身全霊でアピールしてくる生徒たちにこんな話をした。今から話すことは80年前の8月以降に起こっていた、殆ど誰も知らない広島のある1ページである。原爆が落とされた時、幼い頃から体に重い障害を抱えていた少年が被爆して重傷を負った。しかし入院先の医師たちや看護婦たちの懸命な努力で彼は次第に回復し、小さい頃から人に助けてもらわなければ生きて来れなかった彼はその医師や看護婦を初め、今まで助けてくれた人の恩に報いたいと必死に努力しある印刷工場に就職が決まる。ハンディのあるために一人前の仕事ができない弱みを克服しようと懸命に努力する彼の熱意に打たれ、サポートする若い女子職員が現れた。彼女のおかげで彼は次第に仕事をこなせるようになり、お得意先からも頼られるまでになる。しかしその彼を原爆症が襲う。余りの激痛の苦しみのために入院した彼を、サポートしたあの女性職員は付き添って看病する。しかしその甲斐も空しく最後は地獄のような痛みに悶え苦しみながら彼は息を引き取る。翌日、その女性は病院に来て世話になった医師と看護婦に感謝の言葉を述べたその翌朝、自分のアパートで死体となって発見された。大量の睡眠薬を飲んだからだそうだ。遺書が見つかった。そこにはこう書かれていた。「私は彼をサポートしたいと力を尽くして来た。この世ではそれが出来たが、彼が旅立ったあの世では誰が彼をサポートするのか。私はそんな中途半端な思いでサポートしたのではない。あの世でも、最後まで彼をサポートしたいのだ」と。
自殺はあってはならないことだし聖書も厳しく禁じている。しかし彼女がとった行為は表面的には自殺に見えても、本当は彼女は命をかけて最高の隣人愛を見せてくれたのではないか。彼女のような人を地の塩、世の光とイエスは言ったんじゃないのか。その隣人愛は私にも、君たちにもある。枡の下ではなく燭台の上に置かれなければ気づかれないとしても、あなたがたにもそれがあるとイエスは言ったんじゃないのかと。こんな話をしたら誰もが真剣な表情をしていた。教室は、人を妬む思いなどかけらも感じられない空気で埋め尽くされた。
しかしその女性と実際の自分とを比べたら、そこには決して超えることができない溝がある。彼女がいる向こう岸に泳ぎつくことなど出来ない激流が流れている。生徒の誰もがそう感じた筈だ。その時、自分はただ呆然と立ち尽くすしかないのだろうか。諦めるしかないのだろうか。しかし生徒たちをまだ支配しているのは真理ではなく偽りだ。だから何が真実で何が偽りかを考える暇も与えられず一瞬にして教室は闇に戻る。カオスとなってアダムのような男子生徒たちが騒ぎ出す。そして誰もがカインの思いを味わう経験を繰り返していく。
今日読まれたヨハネ福音書の少し前の8:40に次のような御言葉があった。
「ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を、殺そうとしている」(8:40)。
この時代、イエスを取り囲んでいたユダヤ人達にも罪が囁いていた。罪は神を妬んでいる。だから神から聞いた真理をイエスが伝えようとするのを拒絶しようとこの時もざわめき立っていた。そうして遂には、罪は彼らユダヤ人に囁きかけ彼らを操って、神の真理を語るイエスを殺害させようと促していた。そんな罪の力に操られていた人間たちに対してこの時、イエスはこう言っていた。
「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」。
「悪魔」。それはアダムとエバを神の言葉に背かせるように仕組んだ蛇であり、神に認められ賞賛された弟アベルを殺さなければ自分が生きる居場所がなくなるようにカインを追い詰めたあの力である。アダムとエバの子孫はこの時のユダヤ人だけではないのであるから、今もなお人類全てが、私たちも、悪魔である父から出た者であることは否定できないように思う。そしてアダムを初め人類全てを操る罪は神の言葉を受け入れられない。自分を正当化することしか考えられない。自己正当化を貫き通す為には、どうしても真理である神の言葉を追い払わねばならない。その真理を携えて神のもとから世に来たイエスを亡き者としなければその目的は達成されない。そこで罪は十字架上で無残に処刑された人間などが神の子である筈がないと罪人たちに認めさせる。それが罪の企みであったと思う。
しかし44節でイエスは続けてこう言われた。
「悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない」。
アベルを殺したカイン然り。自分を魅了した女性バテシバを手に入れるためにその夫ウリヤを激戦地へと送り、戦死へと追いやったダビデ然り。イエスのたとえ話の中で、収穫を受け取る為にぶどう園の主人が送った僕らを次々と殺し、最後には主人の息子まで殺してしまう農夫然り。いずれの者たちも神を頼ろうとしない。神の前では自分の立場が完全に否定されることを察知しているから、自分を正当化する為には神の言葉を拒絶するしかない。真理を掻き消し、亡きものにしようとする。
しかしそれは、彼らが神を知らなかったからではない。もし今までの闇のままで偽りと欺きが語られ、それがまかり通っていれば彼らは皆、それまでの自分のままでいられた。そして語る者を彼らは喜んで受け入れたであろう。しかしイエスは、「しかし、私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じない」と言った。この時も、イエスと彼らとの間にはあの越えることの出来ない溝が広がり、渡ることのできない荒波と激流がしぶきを上げていた。イエスが神の独り子であるからこそ、また、神のもとから来たイエスが語るのは神の真実であるからこそ、自分を正当化したい罪は断固として受け入れられない。我が住みかを奪われてなるものかと、そのためにはこのイエスを殺してしまおうと、罪はその支配下にいる人間たちを促し、囁き、操るのである。だから罪に操られている人間は、信じることが出来ない。罪に阻まれて、その者達の内には神の真理が届いていないからである。しかしまさにそのような、罪に操られていた者たちに向かってイエスは言われた。「なぜ私を信じないのか」。
彼らを操っていた罪は真理を察知していたからこそ尚更、彼らを信じさせないように働きかけていた。では世の人々は「なぜキリストを信じないのか」。失礼を承知で言わせてもらうなら、その人たちが信じないのは、或いはクリスチャンである我々が未だに信じきれないところがあるのは、かつてのユダヤ人達を操っていた罪に、その人たちも我々もまだ支配されているからであろう。
「私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの正義もすべて、汚れた衣のようになりました」。先ほど読まれた旧約イザヤ書の言葉である。クリスチャンであろうとなかろうと、アダムとエバの子孫である人類は誰もが罪に支配されてきている。誰一人例外なく罪のうちに生まれて来た者であると聖書は告げている。64:5では、罪と言う「私たちの過ちが風のように私たちを」あなたのもとから、真理から、光から、「運び去りました」と告げられている。人間がそのような者である以上、誰もが罪に支配されてきた以上は、その人間がどう足掻いても自分から信じることなど出来っこないのである。罪の子供であった自分が、自らの思いや知恵や力を発揮したところで神の子供になれるわけがないのである。
罪に支配されて来た人間たちと神の子供たちとの間にも越えることの出来ない溝がある。原爆症で苦しみ抜いた青年を命をかけてサポートするために一線を越えたあの女性がいる向こう岸へ、泳いて渡ることなど決して出来ない荒波と激流がしぶきを上げている。だから多くの者は、クリスチャンであろうとなかろうと、「自分には無理だ、だから渡らなくてもいい」と思ったままである。ではお聞きしたい。なぜクリスチャンである我々はかつて洗礼を受けたのだろう。そこへと導かれたのだろう。その時も、越えることの出来ない溝が、渡ることなど不可能な荒波と激流が自分の目の前に広がっていることに、その時の我々は気づいてなんかいなかったと思う。そんな光景を想像もしていなかったかもしれない。しかしそんな私たちにイエスは、イエスだけは、あの言葉を繰り返し語りかけてくださっていたのではなかったか。
「なぜ信じないのか」。
その言葉を何度も繰り返し語ってイエスは、本当は私たちが振り向く前から、気づくよりも遥かに前から私たちを招いて下さっていたのではなかっただろうか。そうして私たちは、真理を語るこの方主イエスに背負われ、イエスに守られてあの溝を、激流を、越えさせられたのではなかっただろうか。そのことに気づかないまま、自分の肉体はまだこちら側にいると思い込んだままでいる私たちを、それでもイエスは繰り返し何度も何度もあの言葉を語りかけつつその私たちを背負って、激流の向こう側へと、喜びに溢れた神の子供らが群れをなしている向こう岸へと、運んでくださってきたのではないだろうか。己が思い己が知恵によってではなく、このイエスによって、主の日毎に、何度も繰り返して目を留めて下さる神を崇めひれ伏す命へと私たちは生まれ変わらされる。それがイエスの業であることをあなたは信じるか否か。礼拝でいつもそのことが問われているのだと思う。そのことを信じる信仰を求められているのだと思う。しかしそれも私たち自身の思いや行動で答えられるものではない。答えたとしてもそれがその場限りの浅薄なものとなってしまうことを、心あるクリスチャンは誰もが自覚している。所詮は罪ある自分の判断で答えても、その答えは真理ではなく偽りとなってしまう。というのも、誰も自分の思いや力で溝を越えたわけではないからだ。神のもとから神の言葉を、神の真理を伝える為にあの溝を超え、激流の中を渡って世に来られた方は後にも先にもたった一人しかいないからである。その唯一なる神の独り子、主イエス・キリストによって我らは、神の御心を受け入れ従う者、神の言葉を拒むのではなく、聞いて信じる者へと変えられる土の器に過ぎないからである。
「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われていた通り、ただイエスの働きかけのみによって、恵みによって罪人は神に属する者とされるのである。それが我らの弱く貧しい思いや業なんぞによるのではなく、独り子なる神キリストの業であるからこそ、罪がいかに我らに手を伸ばしてきても最早キリストの前では太刀打ちできない、ただ罪はしり込みするしかない。本当はそれほどまでに確かなる救いの中に我ら信じる者一人一人は置かれている。そのことに改めて気づかされ、確かめ合いたいのである。
私たちには越えられない溝を越えて、神のもとから世に来て下さったイエスによって神の言葉を聴く者とされた、或いはされようとしている私たちを、今この時も私たちの只中にいまして、私たちを手放すことなく導いておられる真の羊飼いなるイエス・キリストが、喉の渇きを訴える羊らを潤すように、今日この主の日も神の言葉を、神の真理を惜しみなく語りかけて下さっている。罪が巧みな囁きをもって私たちを誘おうとしても、「しかし主よ、今、あなたは私たちの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。いつまでも過ちを覚えていないでください」とのあのイザヤの祈りに耳を傾けてこの羊飼いは身を挺して、自らを罪に差し出し十字架に引き渡してまでして羊を守っている。そのことに目開かれた今、何時如何なる時も、ただこの方のみを、我が主と崇める、小さな、しかし素直な、従順な羊の群れとさせられたい、その思いを新たに強められたいのである。