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祝福のための格闘

「祝福のための格闘」創世記322333、ガラテヤ3714

2025824日(左近深恵子)

                                                  

 ヤコブの物語をこの所創世記から聞いています。ヤコブという名前は人々にとって珍しい名前ではありませんでしたが、創世記は、ヤコブが生まれ出た時のことに名前の由来があると伝えます。母親リベカの胎内には双子がいましたが、二人があまりに激しく押し合うので大きな不安を覚えたリベカに、神さまは「兄は弟に仕えるようになる」と言われました。その社会が順当とすることに縛られず、ご自分の自由において神さまは祝福を担う者を選ばれます。いよいよ出産の時が来ると、先に生まれ出た子は皮膚が赤みを帯びていたので、その子は「赤い」色を意味するエサウと名付けられます。後から出て来た子の手はエサウの踵を掴んでいたので、踵(アーケーブ)を意味する「ヤコブ」と名付けられます。先行くエサウの踵を掴んで行かせまいと最後まで1番を狙う姿は、その後のヤコブの考え方をよく表しています。やがて双子は成長すると、長男エサウは狩りが得意な野の人となり、次男ヤコブは家のことをよくするようになります。ある日狩りから空腹で帰宅したエサウがヤコブが作ったレンズマメの煮物を欲しがると、ヤコブは長子だけが持つ相続の権利と引き換えにしようと持ち掛けます。エサウは、アブラハム、イサクと神さまの祝福を担ってきたこの家族の長子であることの重みをあまりわきまえておらず、大切なものを守り通す為に踏ん張り続けられないところがありました。空腹を満たすことを最優先に、エサウは長子の権利を手放したのです。更に年月が経ち、父親イサクは自分の生涯の終わりが近いことを悟って、長子に祝福を受け継がせる儀式を今のうちに行おうとします。イサクがエサウとの間だけで事を進めようとしていることに気づいたリベカは、次男ヤコブに祝福を受け継がせるためヤコブを説得し、ヤコブは変装してエサウの振りをして、視力が落ちていた父から祝福を受けてしまいます。エサウが狩りから帰宅したことで、イサクは騙されたことを知ります。怒りに燃えるエサウは、「あの男がヤコブと呼ばれるのは、二度もこの私を押しのけたからなのだ。私の長子の権利を奪いながら、今度は私の祝福を奪ってしまった」(創2736)と言います。踵を掴むことを意味する「アーカブ」には「裏切る」という意味もあります。ヤコブの名前はまさに、騙し裏切ってでも、長子が持つものを奪い、神さまがこの家族に託された祝福をかすめ取るヤコブの生き方を表していると、ヤコブの名前の意味が再び言及されています。

 リベカはエサウの殺意からヤコブを守るため、ヤコブを自分の故郷の兄のもとに行かせようとします。神さまの祝福の約束を知らないカナンの民から妻を二人も迎えたエサウの結婚に心を痛めていた父親イサクも、リベカの故郷の親族から結婚相手を探すためにヤコブを行かせることを決意します。実態は兄の怒りからの逃亡であり、兄と父を騙した結果下された追放処分とも言えます。こうしてヤコブはおじラバンのもとで過ごします。結果として20年にも渡ったラバンの所での日々でも、ヤコブの生き方はあまり変わりません。カナンの地で兄から権利と祝福をかすめ取り、父を駆け引きに巻き込んだヤコブでしたが、おじとの間では立場が逆転します。ラバンの娘ラケルを妻にと願うヤコブの熱意をラバンは利用して、ヤコブから労働力も時間もかすめ取り、駆け引きに巻き込みます。ラバンとヤコブは似た者同士のように見えます。欲しいものを獲得するために才覚を発揮し、したたかに闘い続けます。二人のせめぎ合いや、巻き込まれた家族との関係で目立つのが、「報い」や「報酬」を意味する言葉です。ヤコブが意思に反して結婚させられたもう一人の妻は、宿った子どもに神さまからの報酬を意味する名前を付けます。ラケルとの結婚が実現し、子どもにも恵まれ、故郷に帰りたいヤコブと、去らせたくないラバンとの間で駆け引きが繰り広げられますが、ラバンは報酬を更に出せばヤコブを引き止められると考え、ヤコブはこれまで何度も自分を騙して報酬を10回も変えたと抗議します。故郷に帰ることを許さないラバンの元から、とうとうヤコブは家族を連れて逃げ出します。追って来たラバンとの間に、今後互いに害を加えないとの契約を結び、ようやくラバンに対しては堂々とカナンの地に向けて進むことができるようになりました。

カナンの地は、ヤコブにとって故郷です。しかし故郷に帰ることを決意した最大の理由は、神さまが「先祖の地、親族のもとに帰りなさい。私はあなたと共にいる」とヤコブに告げられたことにあります。カナンの地は、神さまがアブラハム、イサクに約束された、祝福を担い、祝福の基となってゆく地であります。だからヤコブは家族も財産も伴って故郷を目指します。

しかしそこには、自分がその祝福をかすめ取ったエサウが居ます。今もエサウは自分に殺意を抱いていると考えているヤコブは、故郷近くなるとエサウに使いを出し、自分は今や多くの財産を得ている者であることを強調し、エサウから何かを奪うことはなく、エサウに敵対する者ではないことを伝えます。しかしヤコブの知らせに応えてエサウが400人を引き連れてこちらに向かっていることを聞くと、ヤコブは非常に恐れて悩みます。もしエサウにしてきたことを深く悔いて、何とか謝罪をしたいと願っていたのなら、真っ先に行ってエサウを迎えることを考えたでしょう。しかしヤコブは一族のものたちと財産である家畜を二つに分けて、最初の組の後に次の組を行かせます。その理由が、「エサウが一つの組にやって来て、それを撃ったとしても、もう一つの組は難を逃れるだろうと思ったからである」と述べられています。それだけでなく、エサウをどうしたら宥められるかと策を練り、エサウへの贈り物として家畜を選び出し、それらを幾つもの組に分け、エサウが最後尾のヤコブに辿り着くまで、次から次へとヤコブからの贈り物を見出すように整えます。その理由が、エサウを宥めた後に「顔を合わせれば、おそらく赦してくれるだろうと考えた」からだと述べられます。エサウの接近も、伴っている400人も、自分を攻撃するためとしか考えられません。自分の熱意と才覚と努力によって多くのものを手に入れ、危機を切り抜けてきた、そうやって家族も財産も増やしてきたヤコブは、他者の心の内も自分の考え方でしか計れないのでしょう。

 その晩、ヨルダン川のヤボクの渡しを家族に渡らせると、ヤコブは独りで川の手前の宿営地に戻ります。エサウとの再会から後ずさりしているようです。ヤコブは、家族と財産という、世が祝福と考える現実的な豊かさを、他の人以上に手に入れました。ヤコブは自分が獲得してきた豊かさをもってしても歯が立たないもの、自分が築いてきたものをアッと言う間に自分から奪い取れるものを、恐れていました。それは、エサウが振り下ろすに違いないとヤコブが思っている死の力でした。ヤコブの前にはヨルダン川があります。人にとって激しく流れる川が、渡ろうとする者の存在も、その者も未来も、他者とのつながりも呑み込み無きものとしてしまう、立ちはだかる力であるように、死はヤコブの前に立ちはだかり、ヤコブから何もかもかすめ取り、愛する者たちも呑み込むことができます。現実的な豊かさも、駆け引きも、偽りも通用しない、死の力には為す術もない自分の無力さを知ったヤコブは、生まれた地、親族のもとに帰るようにと告げられ、ご自分が共にいると約束された神さまに祈ります。「かつて私は杖だけを頼りにこのヨルダン川を渡りました。しかし今や私は二組の宿営を持つまでになりました」とも祈ります。豊かさを手に入れた今、失うことへの恐れに呑み込まれそうです。「父アブラハムの神、父イサクの神、生まれた地、親族のもとに帰りなさい。私はあなたを幸せにする」と約束された神さまの祝福だけが、ヤコブの拠り所です。「どうか、兄エサウの手から私を救ってください・・・兄が私も、母親も子どもたちも殺しにやって来るのではないかと恐れています」と、神さまに助けを求めました。

 時は夜でした。恐れに押しつぶされそうなヤコブの心のように、夜の闇が地上の全てを覆っています。エサウに襲われる危機から神さまが救い出してくださることしか願うことができないでいたヤコブに近づき、ヤコブと相対してくださる方がありました。相手が神さまと知らず、ヤコブは格闘し続けました。かつてイサクから祝福を騙し取るために、「あなたの神、主が取り計らってくださったから」と神さままで自分の偽りに引きずり込もうとしたヤコブです。神さまからの祝福は求めても、神さまのみ前に自分を丸ごと据えることはほとんどないままであったヤコブです。神さまのみ前に自分を据えられないヤコブは、他者ともしっかりさし向かうことが無くきたのではないでしょうか。エサウとの対面が避けられないところまで来てもエサウと向き合うことができず、死の力に追いつめられていたヤコブに神さまの方から近づいてくださり、ご自分とさし向かう時を与えてくださいました。

 ヤコブがこの戦いを諦めない必死さは、この戦いに勝って相手から神さまの祝福を受けなければ自分は死に滅ぼされてしまうとの思いから来るのでしょう。胎児であった時から見受けられた、獲得するために闘い続けるヤコブらしさがここで発揮されているとも言えます。ここでは、その自分らしさを、注ぐべき方に、注ぐべきことにヤコブは発揮することができたのです。

ヤコブはかつてイサクから祝福をだまし取りました。手に入れたけれど、祝福はヤコブのものではありません。ヤコブが祝福に効力を与えられるのではありません。神さまの祝福であり、神さまからいただくものです。神さまから祝福をいただくために、神さまと差し向かい、闘うことを神さまがヤコブに得させてくださいました。ヤコブの罪を全てご存知である神さまは、ヤコブの罪にふさわしくヤコブを裁くことができる方であります。夜じゅう闘わずとも、そうお決めになればすぐさまヤコブを負かすことができる方であります。けれど神さまがヤコブを負かすということは、ヤコブを滅ぼすことであります。そして神さまは、滅びを超える祝福を与えることができる方でもあります。「私はあなたと共にいる」と約束してくださった神さまは、死の力と罪の闇の中で怯えながら神さまに助けを求めるヤコブに、滅ぼす裁きではなく、格闘の時を与えてくださったのです。

 ヤコブは「勝った」と言われていますが、完全に勝利したとは言えません。ヤコブは一撃を受け、股関節を痛めて、これまでのように歩むことができなくなっています。ヤコブが新しい名前を与えられている場面は、勝利した者に褒美が与えられているようにも見えますが、名前についてのやり取りを見ると、ヤコブがこのやり取りを支配していないことが明らかです。祝福を求めるヤコブに、相手は直ぐに祝福を与えるのではなく名前を問います。聖書において名前は、その人自身と深く結びついていると考えられています。踵を掴んで相手よりも上に行こうとするような、騙してでも相手のものを得ようとするようなヤコブの本質を表す名前、エサウに殺意まで抱かせたヤコブの罪を表す名前を、ヤコブはその相手に明かすことを求められ、ヤコブは応じないわけにはゆかず、名乗ります。すると相手は、「あなたの名前はもはやヤコブではない」と告げます。罪深い在り方を表す名前に代わって、イスラエルという新しい名前を与えます。「神と闘い、人と闘って勝ったからだ」とその理由が告げられ、ヤコブは自分が格闘してきた相手は神さまであることを確信します。イスラエルという言葉には、「神が戦われる」「神が支配される」といった意味もあると言われます。神さまからの祝福を求めて全力でぶつかっていくことのできたヤコブは、神さまに従う者の人生を支配するのは人では無く神さまであることを知る者となるのです。

 名前を聞かれたヤコブは、自分も神さまの名前を正確に知ることを欲します。神さまの名前を手に入れることは、神さまの祝福も手に入れることに繋がると思ったのでしょう。神の名を手に入れて神の本質を把握したいという思い、名前を知って自分が願う時に神を呼び出し、自分が願う祝福を神から手に入れ、自分が願うことに役立ってもらいたいという思いは誰の中にもあるものでしょう。しかし人は神さまを支配することはできません。神さまはヤコブの求めに応えておられません。ヤコブは自分の支配の下で神さまからの祝福を得たのではなく、神さまが神さまの自由の内にヤコブを祝福してくださいました。人間的で現実的な豊かさをふんだんに手に入れながら、それでも、その内実がよく分からなくても、神さまの祝福を求め続け、滅びの淵にあって神さまの祝福こそが自分の支えであることを確信し、祝福を欲して格闘し続けたヤコブの執拗さを神さまは認めてくださり、「あなたは勝った」と告げてくださいました。そして、「イスラエル」という新しい名前において生きてゆくヤコブに、祝福を与えてくださったのです。

 イスラエルとされたヤコブは、昇る朝日に照らされながら新しい人生を歩み始めました。夜を徹しての闘いに体力を失い、関節が外れ思うように足を運べない不自由さを負いながら、エサウとの再会に向けて進んでゆきました。その疲労と不自由さは、近くへと来てくださり、祝福を求めて挑む戦いを受け止めてくださり、新しい命と歩みを祝福してくださる神さまが共におられることを思い起こすことのできる宝となっていたことでしょう。本当に戦うべき相手は、敵対する誰かではないことを知り、死の力に怯えて逃げ続けるのではなく、くらいついてゆく奮闘を受け留めてくださる方がおられることを知り、神さまとの結びつきにおいて歩んでゆける幸いの中にあったでしょう。このヤコブの姿に、やがてイスラエルと呼ばれるようになる神の民の歩みの原点があります。現代の神の民である教会の、神さまとの結びつきの在り方がここにあります。神さまはヤコブに、ラバンのもとを発ち、故郷に帰るように告げられた時、「私はあなたを幸せにする」と言われました。疲れていても、脚に痛みを抱え続けていても、共におられる神さまの祝福に包まれてヤコブは幸せであったでしょう。神の民の幸いとは、神の民の祝福とは、神さまから何を得られるかよりも、この神さまとの結びつきにあります。神さまとの結びつきに堅く信頼して歩めることにあります。

 

 現代の神の民教会も、アブラハム、イサク、ヤコブによって受け継がれてきた神さまの祝福を他の人々にもたらす使命を担っています。祝福の約束は、イエス・キリストによって成し遂げられ、罪の赦しと新しい命が、キリストによって神さまにつながる人々に約束されています。アブラハムに与えられた祝福が、取り返しのつかない罪に塗れ、逃亡や後ずさりの道しか自分では見出せない私たちにも及ぶために、キリストが十字架にお架かりになりました。この信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子孫であり、新しいイスラエルである教会の一員です。私たちが取り組むべき闘い、神さまの祝福を求め、その祝福を誰かと分かち合うための闘いを既にキリストが闘い、私たちのために勝利をもたらしてくださっています。イエス・キリストの後に従い、私たちが生み出したり奪い取ってくるものではなく、神さまからの祝福に生きる幸いの中を歩みたいと願います。