神の祝福、人の謀略

「神の祝福、人の謀略」創世記271829、ヘブライ121417

2025817日(左近深恵子)

 

 イサクとリベカの夫婦に、神さまはエサウとヤコブと言う双子の男の子を与えてくださいました。先週はリベカの妊娠と誕生を通して神さまが告げられた言葉に耳を傾けました。リベカの胎に居た時から二人が激しく争うことに不安を抱くリベカに神さまは、2人は二つの民の始まりであり、一方の民が他方の民より強くなり、兄は弟に仕えるようになると告げられました。生まれ出る順番を争い、競り勝ったエサウは兄となり、負けてエサウに先を行かれたヤコブが弟となりました。弟となったこのヤコブの方を、祝福の担い手とすることを神さまは定められたのでした。双子にとって祖父であるアブラハムに神さまが託され、父イサクが受け継いできた祝福を、核となって担う者は、弟の方であると示されたのです。先週も引用した箇所でありますが、ローマの信徒への手紙でパウロは、神さまの祝福を担うのにふさわしいと世が思うような正しい行動を何かしたわけではない、母親の胎に居る時に、神さまは兄が弟に仕えるようになるとリベカに告げられたのだと述べています。神さまの選びのみ業は、人のふさわしい行いによってではなく神さまによって進められるからだとパウロが述べている言葉が重く響きます。

 最初に祝福を担うことを神さまから託されたアブラハムは、神さまから、生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさいと命じられました。私たちが神さまに対し、故郷と親しい者たちを後にして出発する者に与えてくださることを期待するのは、旅路の安全と、新しい地での幸な日々ではないでしょうか。しかし神さまがアブラハムに与えた約束は、アブラハムを大いなる民とし、祝福されること、またアブラハムを祝福する人を神さまが祝福されることです。アブラハムが祝福の基となって、あらゆる民が祝福されるということです。私たちが旅路の先に願うような安定した暮らしや豊かさが、聖書において神さまからの祝福とみなされているところも多々あります。しかし神さまはアブラハムの出発に当たって、あなたは着いた先で安定した何不自由ない生活を送れるとは言われていません。祝福の内実は示されません。祝福の結果神さまがもたらされることだけが語られ、その大半はアブラハムの子孫を通して為されること、アブラハムはその目で見ることがかなわないことです。アブラハムは、神さまが約束を実現されることへの信頼だけで故郷を旅立ったのです。

 しかし、その後アブラハムが祝福の器としてふさわしく在り続けたかと言うと、そうとは言い切れません。神さまが示されたカナンの地で暮らし始めたものの、その地を飢饉が襲うと、アブラハムは神さまのご意志を尋ね求めることもせずにカナンの地から豊かなエジプトへと逃げてしまいます。では避難先のエジプトの地でアブラハムは、祝福の基として他の民に祝福をもたらす者となったかと言うと、その逆です。アブラハムは保身のため、またファラオから好待遇を受けることへの期待から、妻サラにアブラハムの妹と言わせて、ファラオがサラを妻として宮廷に召し入れることを認めてしまいます。アブラハムの期待通り、アブラハムはサラの兄としてファラオから手厚くもてなされ、奴隷や家畜を贈られます。しかし神さまがファラオとその宮廷に恐ろしい災いを下されたことで、ファラオはサラがアブラハムの妻であることを知り、サラをアブラハムの元に返し、「さあ今すぐあなたの妻を連れて行きなさい」と告げます。これ以上エジプトに災いをもたらさないよう、早くここから出て行ってくれと言わんばかりです。アブラハムは、サラを差し出した見返りに受けとった財産をエジプトに返すことなく、カナンに戻ります。アブラハムがエジプトにもたらしたのは、祝福どころか災いでした。アブラハムが犯した取り返しのつかない大きな過ちはこれだけではありません。神さまの言葉とみ心から離れ出てしまうことを重ねた末に、アブラハムは神さまの約束に信頼して歩む者となってゆきます。祝福を担う者とされたことによって、その使命をどのようにして担い、神さまにどうお応えするのか、神さまのみ前に自分を置いて自分の思いを注ぎ出してみ心を問い求める中で成長していったのです。

 同じように神さまから託された務めを担う中で成長していた多くの他の者たちと同様、ヤコブも、神さまに従うことにおいて成長してゆきます。今日の箇所はまだまだその途上にあることを示しています。

 ヤコブとエサウは、神さまから多くの賜物をいただいた個性豊かな兄弟でした。そしてまた、エサウにはヘブライ書が語るように、神さまからの祝福を受け継ぐことの重みをわきまえず、大切なものを守り通すために踏ん張り続けることのできない弱さがあり、ヤコブには他者を顧みようとしない自己中心さがあることも明らかでした。生まれ出る前から争っていた二人です。そして父親イサクは狩りの獲物が好物であったので狩りが得意なエサウを愛し、母親リベカはヤコブを愛していたと創世記が伝えていることから、親子の愛情にも大きな偏りがあったことが分かります。ある日エサウがヤコブの求めに応じて長子の権利をレンズマメの煮物と引き換えに売り渡したことで、兄弟間に軋轢が生じます。家族の中に偏り、歪みを抱えた、どこにでもあるような家族です。この家族が担ってきた祝福を、次世代へと渡して行く重要な今日の箇所の出来事においても、4人が同時に登場していないところに、この家族の実態が現れているようです。

 イサクは自分の死がさほど遠くないことを感じ取っていました。臨終の際に親から子に与える祝福を、今の内に息子に与えておこうと考えます。家族全体が同席し、皆で行うことが当然とされ、そうしたいと願うのが自然である大切な儀式を、妻リベカに相談せず、次男ヤコブにも告げず、エサウとの間だけで進めようとしています。イサクとエサウは深い愛情によって結びついた親子です。しかしその愛情は同質であることに基づいていて、内向きなものです。親が方向を誤れば、子も誤ってしまいやすいものです。

リベカは、イサクがエサウに話している言葉を聞いて、夫がしようとしていることに気づきます。しかし、イサクを問いただすことも、説得を試みることもありません。長男が家の祝福を継ぐことを当然とするイサクの考えを変えることはできないと思ったのでしょうか。それほど社会が順当とするものに留まろうとするイサクやエサウの思い、イサクとエサウの深い結びつきは、厚い壁であったのでしょう。

リベカは次男ヤコブに祝福を継がせるために策を練ります。リベカの策は、イサクの視力が落ちていることを利用して、エサウが出かけている隙にヤコブにエサウの振りをさせ、イサクにエサウと思い込ませ、ヤコブが祝福を代わりに受けるというものでした。

人を騙すのは正しいことではありません。エサウが帰宅すれば必ずリベカとヤコブが手を組んでイサクを騙したことが必ずイサクにもエサウにも知られます。家族の間の溝は一層深くなってしまいます。それでもリベカはヤコブに計画を告げます。ヤコブはしり込みします。父親を騙すことは間違っているからと抗うのではなく、母親の策は上手く行くはずがなく、自分が損害を被ることを案じるからです。祝福をいただくどころか、呪いをこの身に招いてしまうと怯むヤコブにリベカは、「その呪いは私が引き受ける」と言い切ります。

リベカはエサウの手料理の振りをしてイサクの好物の美味しい料理を黙々と作り、ヤコブにエサウの服と子山羊の革を着せて変装させ、自分が造った料理とパンをヤコブに手渡します。リベカの行動は衝動的なものというより、堅い決心によって突き進んでいるように見えます。聖書にその理由は記されていません。しかしリベカを突き動かしたのは、双子を宿した時に告げられた神さまの言葉に従うためではないでしょうか。2人の息子は二つの民の始まりであり、一方の民が他方の民より強くなり、兄は弟に仕えるようになると神さまが告げられて以来、リベカはその言葉を心の中で思い起こしては、どのように実現されるのだろうかと思い巡らしてきたのではないでしょうか。今イサクは、通常近しい親族たちを皆招いて行う臨終を前にした儀式を、エサウとの間だけで行おうとしている。自分はこうする他ないと、不正を行う者に下される裁きを我が身に引き受けてさえも、神さまの約束の実現のためと、行動したのではないでしょうか。

リベカが聞いた神さまの言葉を、ヤコブやエサウやイサクが知っていたのかどうか、聖書は述べていません。ヤコブは神さまの言葉を知らなかったからか、神さまの言葉が実現することに信頼していなかったからか、気が進みません。生まれ出る順番の争いに負けても、先に行くエサウの踵を離そうとしなかったヤコブです。兄だけが持つ相続に関する権利を自ら行動を起こして手に入れたヤコブです。しかし危ない橋を渡ってまで、父親が託されてきた祝福を手に入れようとする熱意はありません。ヤコブが乗り気でないのは、相続に関わる長子の権利と違って、父親が担ってきた祝福というものが、内実のはっきりしないものであったからかもしれません。そのようなもののために危険なことはしたくないと抗います。呪いは自分が引き受けると母親に言われてからは、母親の指示通りに行動し始めます。母親が呪いを受けるのなら自分にはリスクが無いと、そういうことでしょうか。それとも、そこまで覚悟をしている母親の熱意に、ヤコブも祝福を得なければと思ったのでしょうか。

支度ができ、父親に近付く今日の場面では、ヤコブはもはや受け身ではありません。(いぶか)しがる父親に躊躇なく言葉を発し、「あなたの神、主が取り計らってくださったからです」と、神さまを自分の欺きに引きずり込もうとします。しかしイサクから「声はヤコブの声だ」と言われてからは、最低限の言葉のみを発するようになります。イサクは何度も、お前は本当にエサウなのかと確認しています。最後まで相手をエサウと呼ばず、「我が子」「息子」としか呼んでいません。僅かでも違和感が残り続けたのでしょう。巧みに振る舞っていても、ヤコブはこの場を支配しきれていません。そのヤコブを覆うように、イサクが祝福の言葉を告げます。視力が衰えても、欺かれても、祝福を息子に引き継がせる儀式を堂々と執り行うイサクの祝福の言葉が、この場に染み渡ってゆきます。

イサクは目の前の息子が纏うエサウの衣服に平原の香りを嗅ぎ取り、愛するエサウに祝福を与えられる喜びに溢れた言葉で祝福を始めます。大地に恵みをもたらす神さまのお力が、息子の人生にいつも注がれるようにと続けます。息子から出る民が諸国の民を従える大いなる民となるようにとの祝福を述べた後の、「あなたは兄弟の王となり、母の子らはあなたにひれふすように」との言葉は、かつて神さまがリベカに告げられた言葉と響き合います。エサウに与えているつもりで、意図せずしてヤコブに、神さまの約束に応えるような祝福を告げています。最後の、「あなたを呪う者は呪われ、あなたを祝福する者は祝福される」との言葉は、神さまが最初にアブラハムに語りかけられた時に告げられた、「あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う人を私は呪う」との言葉を響き合います(123)。息子への祝福を、神さまの約束で結びます。祝福の言葉を発しているのはイサクですが、それは神さまから与えられるものであり、息子に神さまからの祝福を見出す人々を祝福されるのも神さまであることを告げます。父イサクは、兄の長子の権利を自分のものにし、謀略によって祝福も獲得しつつあり、その策略を成功させるために神さまのお名前さえ用いてしまうヤコブに、そうとは知らず、神さまのみ前に立たなければならないことを教えます。この先、人と人との関りの中で、神さまを自分の都合の中に引きずり込むのではなく、神さまのみ前に自分を据えて他者と関わってゆく道を示します。そうして人は、神さまの祝福を他者に示す器として成長させられてゆくことを、ヤコブだけでなく私たちも、教えられます。

狩りの獲物を手に帰宅したエサウによって、イサクは祝福をだまし取られたことを知ります。エサウはヤコブに殺意を抱きます。リベカはエサウからヤコブを守るために、ヤコブを自分の故郷に逃れさせなければならなくなります。暫くの間だけの別離と思って行かせますが、結局ヤコブは20年間その地に留まることになり、リベカに再びヤコブと会える日は訪れません。覚悟の上決行し、謀略は成功し、ヤコブは祝福を受けましたが、払った犠牲はまことに大きなものであったでしょう。この先リベカの故郷で叔父から騙され続けることになるヤコブは、母親の言葉に従ったことが裏目に出てしまったと思うことがあるかもしれません。ヤコブとリベカは、その後の年月、大きな苦しみ、悲しみを負い続けることになります。それでも、神さまのご計画はこの出来事を通して前へと推し進められます。埋められないままの溝を抱え、互いにコミュニケーションを取ることも難しくなっている家族の、罪が沁み込んだ思いと謀略を突き抜けて、神さまはあらゆる民に祝福をもたらすご計画を実現してゆかれます。神のみ心に従おうとする人間の正しい行いを神は喜ばれます。しかしまた、そのような思いが心の内に無い者たちの言動が世を覆っている時にも、神さまのみ心は阻まれて実現しないのではありません。

自分の欲求を直ぐに満たしてくれる、目に見える豊かさこそが祝福なのだとし、その自分の欲求を実現することに神さまを引きずり込もうとしてしまう者を、神さまは祝福を担う器となることへと招いてくださいます。人の短絡的な欲求や自己中心的な策略、神さまを見失った者の自己実現のための熱意は、主イエスの告げられる福音を自分にとって不都合なものだと退け、神さまが遣わされた救い主、キリストであることを否定し、とうとう主イエスの存在も働きも十字架の死によって自分たちの中から取り除こうとしました。その十字架に至る苦しみとイエス・キリストの命の値をもって、神さまは私たちを救うご計画を実現されました。主イエスの死は、私たちの罪の赦しのための贖いの死でありました。独り子の苦しみと死によって、罪赦され、心から安らいで神さまの祝福に包まれて生きる新しいいのちを私たちに与えるために、最も悍ましい人の悪意や裏切りや謀略や無関心の只中で独り子なる神が苦しみ、死んで行かれることで、神さまは、救いのみ業を実現してくださったのです。

 

自分の罪ゆえに抱えることになった苦しみや悲しみの中にある一人一人を、神さまは神さまのみ前へと招き、神さまの救いのご計画に信頼し、神さまの救いと言う祝福を伝える器となることへと招いておられます。神さまの祝福を責任をもって担う歩みの中で、神さまを仰ぎながら神さまに向かって成長してゆく道へと、招いてくださいます。人と人との関りの歪みや欠けにも拘わらず、世代から世代への継承の脆さにも拘わらず、神さまの祝福は、人の言葉と行いにおいて証され、広まり、私たちにもたらされています。私たちの思いや行動を超えて働かれる神さまの導きの重みと確かさに信頼し、神さまの祝福の内に歩み、祝福を担う者でありたいと願います。