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祝福を継ぐため

「祝福を継ぐため」創世記2418、ロマ113336

202583日(左近深恵子)

 

 慣れ親しんだハランの地で、親族や親しい人々と暮らしていたアブラハムは、「神さまから、生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」と言われました。不妊により子どもを望むことができなかったアブラハム夫妻から、大いなる民をかみさまがその地で興すと、僅かな人々からなるような民ではなく、国民と神さまが呼ばれるような、大きな神の民となると約束されました。それは、アブラハムを祝福の基とし、アブラハムとそこから興される民を通して、地上のあらゆる氏族が神さまから祝福されるためであると。

 アブラハムは神さまの言葉に信頼し、愛着のある地域も安定した暮らしも後にして、自分の人生と自分の家族や家の者たちのこの先を全て神さまの言葉に託して、ハランの地を出発しました。神さまが示されたカナンの地に辿り着くと、神さまはアブラハムに更に、「あなたの子孫にこの地を与える」と約束されました。神さまの言葉に強められ、カナンの人々の中で暮らし始めたアブラハムですが、多くの民どころか一人の子どもも与えられない年月が続きます。神さまの言葉に全てを委ねきれなくなり、アブラハムは幾度も神さまの言葉ではないものの力に縋ろうとしました。カナンの地で暮らし続けることを手放したこともあれば、神さまの約束を共に担うはずの妻サラを見捨てることで自分の身を守ろうとしたこともあり、アブラハムもサラも、自分たちの間に子どもが与えられることに望みを持つことを止め、自分たちの力で別の仕方で家を継ぐ子どもを手にいれようとしたこともありました。ハランの地を旅立った時には神さまの約束に全てを委ねていたアブラハムでしたが、その信頼が揺さぶられる危機に何度も襲われました。その度、アブラハムを不安に陥らせ、神さまに信頼することを空しく思わせるものよりも、アブラハムを通して神さまが推し進められる救いの御計画の方が勝ることを知り、神さまへの信頼を強められる、そのような人生をアブラハムは歩んできました。

 長い年月の末、高齢のアブラハム夫婦にとうとう神さまが子どもを与えてくださりれ、夫婦は神さまの言葉通りその子をイサクと名付けました。やがて妻サラは死に、アブラハムは深い悲しみを抱えながら、妻の遺体を葬るために土地を購入しました。それが、カナンの地において最初に手に入れた家族の土地でした。それは、神さまの言葉への信頼の証とも言えます。今はイサク一人ですが、やがて子孫が増え、神の民としてこの地で暮らし、あらゆる民に神さまの祝福をもたらすようになる、その神さまのご計画の第一歩として、この地に妻の葬りの土地を購入しました。やがてアブラハムもここに葬られることになるのです。

先ほどお聞きしました2428には、アブラハムの言葉が記されています。これがアブラハムの言葉として伝えられている最後のものとなり、25章でその死と埋葬が述べられます。今日の箇所は、アブラハムの人生の締めくくりと言えます。先ず、ハランの地で神さまがアブラハムに約束されたように、これまでの人生、事あるごとに主が祝福を与えてこられたことを述べます。自分の人生の終わりが近いことを強く感じる今、アブラハムは神さまから与えられてきた祝福を数え、感謝をしています。そして、自分の死の先を望み見ています。神さまは子孫を約束され、イサクを与えてくださり、イサクは成長して大人になっています。自分には見ることはもはや叶わないけれど、独り子イサクの先に神さまが備えておられる、神の民へとつながる歴史を望み見ています。

新約聖書のヨハネによる福音書には、復活されたイエス・キリストが、弟子たちが集まっている只中に来てくださった出来事が記されています。その場にいなかった弟子のトマスは、主イエスの手に釘の跡を見、その手の穴に、また槍で突かれたわき腹の傷に自分の指を入れなければ、決して信じないと言い張りました。トマスが主イエスの出来事を否定したくて、否定しているのではないことは、これまでのトマスの言動が示しています。以前主イエスが友人ラザロが病気であると聞き、ご自分の命を狙う人々が待ち受けているにも関わらず、ユダヤの地に向かおうとされた時、周りの人々が引き止めにかかる中、トマスは独り、「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と、弟子たちに呼びかけました。主イエスが、身に危険が及ぶことも覚悟の上で為そうとしておられることに、自分も命を賭して従う覚悟のあったトマスであります。それほどに主イエスに信頼し、どこまでも従うと決意していたトマスが、主イエスが神の子であり、死者の中から復活されたことを受け止めることにもがいています。再び主イエスは、トマスも居る時に弟子たちの只中に現れてくださり、トマスに向かって「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。この時にトマスは、主イエスが神の子であり、神であり、復活されたキリストであることが分かります。そして「私の主、私の神よ」とその信仰を告白します。そのトマスに主イエスは、「見ないで信じる人は、幸いである」と言われました(ヨハネ20章)。

信仰とは、見えなくても、歴史を貫いて神さまが与えてくださっている救いを信じることです。見えないけれど神さまの言葉に信頼し、神さまの言葉を実践する時、神さまの祝福に触れる幸いを知ります。神さまの言葉に生きてはじめて、祝福を受け止めることができます。ヘブライ人への手紙の第11章にも、「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです」とある通りです(ヘブライ111)。

アブラハムはこれまでを振り返り、いただいてきた祝福に感謝し、自分の死の先も続いてゆく神さまの祝福の道を望み見ています。だから、静かに去ることができます。そして、静かに去って行くだけで満足しません。残された時間も神さまの言葉に従うため、為し得ることをします。イサクの世代も、その先に続く世代も、神の民として神さまの祝福を受け継いでゆくことができるように、残された力を注ぎます。自分自身に行動を起こす力が十分に無くても、アブラハムは諦めることをしません。祝福の基とされたアブラハムは、その祝福を新しい世代に受け継がせるために、遺言とも言える最後の願いを家の僕に託したのです。

アブラハムが託したのは、家の財産の全てを任せているほど信頼を置いている、老僕でした。この僕に、イサクの妻となる娘を、カナンの民の中からではなくアブラハムの故郷、ハランの地で、アブラハムの親族の中から探し出し、連れてくることを誓わせます。イサクへと引き継がれる祝福の道に合流する者は、異教徒のカナンの民の中にではなく、アブラハムに注がれている神さまの祝福を全く知らないわけではない自分の親族の中に居ると考えたのでしょう。

妻を探す使命を結婚する本人イサクにではなく僕に命じており、妻となるリベカを連れてきてからようやくイサクが登場するのは、不思議な気もします。しかし、結婚は親、特に父親がアレンジするのが当時の習慣であり、父親アブラハムが僕に命じたのは、珍しいことでは無いと考えられています。

アブラハムは僕にただ命じるのではなく、主にかけて誓わせます。アブラハムがこのことを、父親の願いとしてだけでなく、神さまのみ業としていることが伝わってきます。息子が神さまの導きの中、祝福を受け継ぐ家庭を築くことを願い、神さまが僕を導いてくださることに信頼し、主なる神への祈りと、自分との約束の下に、僕を遣わそうとしています。

僕は、想定されることをアブラハムに問います。結婚相手を見つけることができても、その娘が、故郷や親や親族の傍を離れて誰も知らないこの地に来ることに、同意しないかもしれないと。イサクの方が、娘の土地に移り住むことを求めるかもしれないと。

アブラハムは、イサクを向こうへ連れていかないように注意しなさいと告げます。相手の娘や、娘の家族・親族が求めても、イサクを行かせてはならないということでしょう。アブラハムを故郷からこの地へと導き、この地を子孫に与えると約束された神さまは、約束を実現するために、この地でイサクと共に暮らす妻を与えてくださることに信頼しています。けれどまたアブラハムは、娘や娘の家族が僕の言葉に神さまのご意志を見出せないこともあり得ることを知っています。神さまは、全ての人に対してそうであるように、相手の娘の自由を奪い、意思を持たないロボットのようにその娘を従わせることはなさらない方であると。だからもしその娘が僕についてくることを望まないのなら、僕はアブラハムとの誓いを解かれるとも告げます。前もって僕が使命を果たせなかった時のことも告げるのは、僕が帰って来た時に自分はもはや僕を迎えられないことを考えていたからかもしれません。最後に僕に再び、イサクを向こうへ連れて行くことは断じてならないと告げて、アブラハムの言葉は終わります。アブラハムの生涯最後の言葉は、神さまが約束を実現してくださることへの信頼の表明であり、この約束の地で、神さまに信頼して歩む神の民の歴史がイサクの先に刻まれてゆくことへの願いの言葉でありました。僕はこのことを誓い、旅の支度を整え、出発します。アブラハム一人では為し得ない働きのために、僕が遣わされます。アブラハムと僕、二人の神さまへの固い信頼によって、神さまの祝福を新しい世代が受け継ぐための旅が始まったのです。

この先を読み進めますと、僕はアブラハムの故郷の町に着くと先ず神さまの導きを祈ります。祈りの言葉を言い終わらない内にリベカが現れます。その心からのもてなしに打たれ、アブラハムの親族であることを知り、このリベカこそ主がお定めになった人であることを僕は知ります。僕はリベカの家族に、主の導きによってリベカと出会ったこと、この結婚は主の導きであることを伝えます。家族も、この結婚が主のご意志によるものであることを受け止め、結婚を認めます。しかし結婚が決まった翌日に、僕がリベカを連れて出発すると告げると、家族はもう少し娘と一緒に過ごさせて欲しい、せめて後10日ほど、家族のもとに娘を留めて欲しいと頼みます。家族として当然の願いであります。しかし僕も譲りません。この旅の目的をかなえてくださったのは主であるのだから、人の思いで日を送らせてはならない、早く帰って自分の主人に、主なる神がこの旅の目的を叶えてくださったことを報告すると主張します。互いに譲れない行き詰まった状況に解決をもたらしたのは、リベカでした。僕と共に今日出発するとリベカが決断し、僕はリベカを連れて主人イサクの所に帰ることができたのです。

創世記にここまで聞いてくると、神さまの約束の実現を待つことに長い年月を要してきたアブラハムの人生の終わりに、アブラハムの願いと僕の祈りが、こんなにも早く叶えられたことに、驚きを覚えます。神さまの約束の実現を待ち望み、み心から離れては導かれ、立ち返ることを重ねて来たアブラハムをおそらくすぐ傍で見て来た僕にとっても、アブラハムの生涯最後の願いがこうして直ぐに実現されたことは、深い喜びであったのではないでしょうか。

ただ、アブラハムはその実現をその目で見ることはなかったかもしれません。カナンの地に戻り、リベカを出迎えたのはイサクです。僕が旅の報告をしたのもアブラハムに対してではなく、イサクに対してです。カナンの地からメソポタミアの町の間は、片道でも少なくとも1か月を要したとも言われます。リベカ到着の時には、アブラハムは既に亡くなっていたか、リベカを出迎えることも、僕から報告を受けることもできない状態であったことが考えられます。神さまが願いに応えてくださり、祝福を受け継ぐこの家族が新しい世代へと移りつつあることをその目で見ることはできなかったとしても、アブラハムは死で終わらない祝福を感謝しながら、その生涯を終えたことでしょう。

新しい世代に祝福の道が引き継がれてゆくこの出来事において、リベカにアブラハムと重なるものがあることを、多くの人が受け止めてきました。見ず知らずの旅人の一行をもてなし、そのラクダを世話するためにも走り回って、水や食べ物や寝る場所を支度する様子は、アブラハムがかつて、主なる神とは知らずに通りがかりの旅人を引き止め、立ち働いてもてなしたことを思い起こさせます。そして最もアブラハムと重なるのは、故郷も親族も後にして、主が示される地へと旅立つリベカの、主に対する信頼です。神さまの祝福を引き継ぐ新しい世代の家族の誕生において、創世記はイサクよりも寧ろリベカの主への信頼を明確に語っています。創世記の第12章は、神の民の始まりに選び立てられ、祝福の基とされたアブラハムの第一歩が、「生まれた地と親族、父の家を離れ 私が示す地に行きなさい」との主の言葉に従うものであったことを語ります。そして24章は、アブラハムの生涯の終わりが、主の約束が自分の死の先も実現されてゆくことへのアブラハムの信頼で締めくくられたことを伝えます。更に、突然遠方から来たアブラハムの僕の告げる結婚話を、主の導きと信頼したリベカの故郷を後にする決断によって、リベカが祝福の道に合流してゆく様を伝えます。この先を肉の目で見ることはできなくても、主の祝福が受け継がれてゆくために残された時間と力を注ぐアブラハムの行動と、アブラハムから託された使命に忠実に従う僕の祈りによる行動と、神さまに信頼し、見えないこの先に向かって故郷を後にしたリベカによって、神さまからの祝福を受け継ぐ道は大きく前進し、私たちもその道へと導かれているのです。

神の民であるとはどのようなことなのか、アブラハムとリベカがしめしてくれているようです。神の民とは、アブラハムの血筋を受け継ぐ者が自動的になるのではありません。アブラハムは、神さまが示されるところへ出て行くよう召された時、「これに従い、行く先を知らずに出てい」きました(ヘブライ118)。神さまの祝福の道がイエス・キリストによって決定的にもたらされている私たちにとって、主の召しは、キリストの十字架と復活によって私たちの罪が赦されていることに何よりも明らかです。このキリストによる救いが私のためであるのだと知り、主への信仰を告白し、神さまの導きに信頼し、主の祝福を受け継ぐ道に、先がはっきりと見えなくても、踏み出す人々が神の民です。 

ローマの信徒への手紙は、神さまの富と知恵と知識の深さを語ります。神さまの裁きの究め難さを、神さまの道の辿り難さを語ります。神さまに従う道を踏み出さないままで知り得るはずがないその深さ、豊かさは、主に従う道へと踏み出してはじめて知るものであります。アブラハムは、非常に実現の難しい使命を僕に託しました。それが成し遂げられる目算が無ければ、最も信頼する大切な僕をそのような旅に出すことは無かったでしょう。自分を故郷から導き出し、事あるごとに祝福で包んでくださった神さまが約束を与えてくださったから、その神さまが、息子と共に神さまの祝福を担う相手をこの地に連れてくることを得させてくださるとの希望を持つことができたのです。私たちには、ご自分の命を十字架にささげて、私たちの救いを実現しておられるキリストの後に従う道が与えられているのです。