2025.7.25.主日礼拝
イザヤ6:1-5、使徒言行録7:54-60
「一筋の道」 浅原一泰
3日前の報道によれば、イスラエル軍によるガザ地区への攻撃によってその犠牲者は既に6万人近くに達したという。遡ること77年前、1948年にパレスチナの地にユダヤ人が入り込んでイスラエルという国を建国して以来、両者の敵対関係は絶え間なく続いてきた。今現在でも、パレスチナ人居住区のガザをイスラエル政府が、過激派組織ハマスの撲滅という大義名分を掲げながら、実際には何の罪もないパレスチナの幼い子供たちを始め、一般市民たちへの攻撃、殺害を繰り返している。
ユダヤ人。その祖先が旧約聖書の人間の側の主人公であるイスラエルの民であるが、彼らは初めから常に周囲との軋轢、争い、そして迫害を受けるなどの環境に曝されて来た。エジプトで奴隷生活を強いられ、迫害されて苦しみの余りに発した彼らの呻き声に神が耳を傾け、彼らに手を差し伸べて指導者モーセを先頭に、エジプトから神が彼らを脱出させた話は皆さんも知っておられるだろう。そうしてイスラエルの民はようやく神が彼らに約束した土地カナンに辿り着くが、その後も民は周囲の先住民たちとの軋轢、争いに悩まされ、更には同じ民同士の間で力関係を巡って内輪もめが発生して国が分裂してしまう。その後は大国アッシリアやバビロンに侵略されて遂に国家が滅亡してしまうのだが、国民の多くは殺されずに捕虜となってバビロンに連行され、それから約50年後、今から約2500年ほど前の紀元前六世紀の末期にバビロンを倒した大国ペルシャによって民は釈放され、再びカナンの地に戻って来た。彼らがユダヤ人と呼ばれるようになったのはその頃のことである。
しかしその後も周辺民族と争いは止むことなく、新約聖書の時代になってイエス・キリストが十字架の死を遂げてから40年後には、ユダヤ人の謀反を抑え込むためにローマ帝国がエルサレムの神殿を破壊し、更に60数年後にローマはユダヤを完全に滅ぼしてしまう。以来、生き残ったユダヤ人は国を追われて全世界に散り散りとなり、1948年のイスラエル建国まで長きに亘ってそれぞれの地で生き延びるしか道がなくなるが、その独自の宗教的生活ぶりの故か、或いはシェークスピアの「ベニスの商人」に描かれる守銭奴のような彼らの振る舞いの故か、何処の地においてもユダヤ人は敬遠される。その究め付けがあのナチス・ドイツによるホロコーストである。ナチス・ドイツが倒れた第二次大戦後、あのパレスチナの地に各地からユダヤ人らが大量に入り込んでイスラエルという国を建国する。その地にいたパレスチナ人は追いやられて難民となり、イスラエルに対して敵意を抱いてテロを繰り返し、イスラエルはパレスチナを撲滅しようと無差別攻撃を繰り返している。
ところでイエスはユダヤ人である。今読まれた聖書に出て来たステファノも、また、怒り狂ってステファノに石を投げつけ彼を殺した者達もユダヤ人である。それを見ていた証人たちが上着をある若者の足元に置いたと言われていたサウロ、後にパウロと呼び名が変わるこの若者も、全てがユダヤ人である。
ヨハネ福音書の4:22には、「救いはユダヤ人から来る」と言うイエスの有名な言葉がある。しかしその一方で、マタイ福音書では、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」(10:34-35)というイエスの言葉もある。この二つの言葉を重ね合わせてみると、そこから何が見えて来ると思われるだろうか。ユダヤ人というと古くは出エジプトの民、今はナチスから迫害された民族とかガザへの攻撃を止めない国家というイメージで括られ易い。しかし本来ユダヤ人というのは一枚岩ではなかった。先ほどその祖先が内輪もめから国を分裂させた話を紹介したが、イエスの時代もユダヤ人の中に違う考え方、違う価値観を持つ者達のグループがあり、違うグループ通しの間には常に緊張が漲っていた。例を挙げると民衆への律法指導に熱心だったファリサイ派、神殿における儀式を司るサドカイ派、その腐敗した神殿の運営に嫌気が差し、荒れ野で敬虔な生活に徹したエッセネ派やクムラン、神から与えられた約束の地を取り戻そうと血気に逸る熱心党、そしてクリスチャンがいた。今のユダヤ人も大きく分けて過激派と穏健派とに二分される。パレスチナ人も過激派ハマスと穏健なファタハに二分される。そのように同じ血を分けた兄弟であるかもしれないのに、我々人間は分裂し、憎み合い殺し合いを繰り返している。
新約聖書のフィリピの信徒への手紙の中にこのような言葉がある。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:6-9)。
この言葉によれば、神の身分であるイエス自身がユダヤ人となって僕というか奴隷の身分になり、十字架の死に至るまで従順であったという。それが神の御心であるからイエスは最後まで従順を貫かれた、と言う。神と等しいこの方が苦しみの極みまで味わった、というのは、神自らがそれを味わったと言うことである。それは我々人間が味わう苦しみとは比べ物にならないほどの、まさにこの世のものとは思えないほどの苦しみの極みを神自ら味わった、ということである。そのことによって何がもたらされたのか。神はこのイエスを高く上げられたという。神はイエスをよみがえらせたのである。そのことによって神はこの時、死の持つ力を打ち砕いた。真の命は死をもってしても終らせることなどできない、それが命の本当の力であることを示した。信じるなら、その命に結ばれるという喜びの知らせを、福音を、神はイエスを通してこの世にもたらしたのである。「救いはユダヤ人から来る」とはそのことである。
さて、先ほどのステファノはイエスの弟子であり、イエスを心の底から信じていた。しかしイエスを拒み、イエスを世に遣わされた神を拒み、ステファノを激しく憎む者たちがそこにいた。それは彼らがステファノから、「あなたがたは間違っている」、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」、つまり救われるのは自分たちユダヤ人だけだ、という狭い考えにしがみついて目が見えなくなっている者たちということだが、「あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に、つまり目には見えない神の働きかけに、逆らっている」と見事に指摘されたからである。ステファノが自分の考えを語り終えると、その者達は歯ぎしりするほどまで激しく怒った。その者達とは裏腹に、ステファノは天を見つめた。そして「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったという。一方、彼に石を投げる者達は、エルサレムの神殿という建物の中にこそ神はいる、この神殿は自分達ユダヤ人の為にある、と思い込んでいた。そのような彼らの思いもステファノは少し前の7:48で、「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みにならない」と告げて真っ向から否定していた。ステファノは神殿という建物にではなく、天におられる神を仰ぎ見たのである。するとステファノを憎んで止まないその者達は大声で叫びながら耳を塞ぎ、ステファノ目掛けて一斉に襲いかかった。そして都の外に引きずり出してステファノに向かって石を投げ始めた。ステファノを石で打ち殺しにかかった。そのユダヤ人たちは皆、十戒の「殺してはならない」という戒めを、子どもの頃から毎日のように唱えて体に染みついていた者たちである。それでも殺す、という思いが彼らの心を支配した。そうして間もなくステファノは死の眠りについた、と聖書は伝えている。
彼を憎み、イエスを信じないユダヤ人達の手によってステファノは殺された。それはステファノがイエスを信じ、イエスをこの世に遣わした神を信じたから、である。イエスを信じるが故に殺されることを殉教と言う。日本でも長崎や天草、五島などで多くのキリシタンが殉教の死を遂げてきた。しかし誰よりも先ず、このステファノが、歴史上最初の殉教者となった。
皆は何を感じるだろう。ステファノの死は惨めな敗北の死だろうか。教会の方々は、イエスを信じてはいるけれどこんな死に方はしたくない、と思っておられるだろうか。世の中の一般的な人々やここにいる高校生たちは、「だから宗教は恐い」というイメージを持つかもしれない。しかしこの場面を通して聖書が伝えようとしていることは、本当は全く別のことだ。そしてその全く別のことというのは、実はすべての人間に関わることだ。クリスチャンであろうとなかろうと、誰一人として人間は、この世で生きている間、神を見ることなど出来ない。しかしステファノが息を引き取り死の眠りに就こうとするまさにその時、彼の目の前で天が開いた、と書かれていた。そしてそこに神の栄光と、神の右に立っておられる復活のイエス・キリストを彼は仰ぎ見た、と書かれていた。それまでステファノが生きていたこの世では、憎しみと敵意がステファノを包んでいた。しかしステファノがこの世から息を引き取ろうとするその間際に、神とイエス・キリストは鮮やかに自らを彼に見せた、というのである。自分に石を投げつけて来る者たちに「正しいことを言っているのになぜ分からないのか」という怒りと悔しさをステファノが感じなかった筈はない。しかし天から見つめる神とイエスの姿がステファノを変える。かつて神は、酷い十字架の死に至るまで神の御心に忠実に従ったキリストをよみがえらせ、高く上げられた、と先ほど伝えた。そして今、その神の右におられる復活のキリストがステファノを招いている。そのことでステファノは死の眠りに就く間際に生まれ変わっていた。「暴力に打ってでも力づくで異なる意見をねじ伏せようとする者は明らかに間違っている。しかし私はその者たちを許そう。なぜなら十字架につけられたイエスもかつて、自分を嘲り罵る群衆を赦し、彼らのために祈られたのだから」。こう思って敵のためにも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈った時、ステファノには紛れもなく本当の命が宿っていたのではないだろうか。あの死をもってしても終らせることなど出来ない真の命が彼を生かしていたのではないだろうか。
その昔、預言者イザヤも、天に神が座しておられるのを見たと言う。この世ではなく、天の上にある神殿を見たと言う。その時彼は思わず叫んだ。「災いだ。わたしは滅ぼされる」と声を挙げて怯えた。人間は皆汚れており、その汚れ故に聖なる神の前では滅ぼされるしかなかった、ということだ。しかし神とキリストを仰ぎ見たステファノは平安に包まれていた。イザヤとステファノの違いは何か。ステファノは変えられていた。神とキリストから見つめられて彼は新しい人間へと生まれ変わらされていた。キリストは、そのような全ての罪人の汚れ弱さも、醜さ全てを身代わりに背負って、我らが耐えられない苦しみの極みをも身代わりに背負っている。最も酷い殺され方をも黙って担っている。そのキリストが死に打ち勝って天にいます神の右に立っている。信じる者に死に打ち勝つ命を与えようと、手を差し伸べている。ステファノは、そのキリストの招きを確かに受け止めた。そうして彼は新しい命へと生まれ変わったのである。
死に打ち勝つ命を与えられ、神の御許に迎え入れられるというそのキリストの招きに比べるなら、この世の痛み苦しみなど一時のものでしかない。過ぎ去り行く痛みでしかない。この世が敵意をむき出しにして束になって襲い掛かってこようと、死を迎える間際に神が、ご自身とキリストを天から見せてくれる。じっと見つめて招いてくれる。主を信じる者に備えられたその一筋の道を曲げることなど、敵であろうと世の権力者であろうと、どこの誰にも出来ないのである。むしろその一筋の道は、自分に石を投げる敵をも愛し、敵の為に祈らせる。歴史上最初の殉教者であるステファノの死は、世にある全てのキリスト者が死を迎える時にこそ、敵をも愛する神の愛に包まれ、その命を神が死で終わらせない、という救いを示しているのではないだろうか。
「私は道であり、真理であり、命である」と生前にイエスは語っていた。死を乗り越える命の道を歩むようにと、イエスはステファノにも、イエスを信じる者にも、そして今はまだイエスを知らなくても、神から命を与えられてこの世に生きている全ての人間に招いている。
そのために、想像も出来ないほどの痛み苦しみの極みを全て身代わりに、イエスが既に背負っている。生きている間はそのことに気づかなくても、そして悩み苦しみに押しつぶされそうな人生が続いたとしても、その生涯の幕を閉じる時こそ、神は天を開いてご自身を示し、右にいる復活のイエスを示して下さるのである。イエスによって神の国へと招かれる為にあなたは世の生涯を送って来たのだと、そのことに気づかせるのである。どんなに酷い殺され方をした人間に対しても、である。今現在のことだけで一喜一憂し、思い煩い、不安に苛まれてしまう我々に、神のもとで、神と復活の主と共に住むという、神は終りの日の勝利を約束している。そのことに気づけない自分の無知、自分の信仰の貧しさに気づかされたい。今日のこの主の日、御言葉によって我々の頑なな心が砕かれて、自分の思いではなく神の御心が示されたこと、復活の主の慈しみに気づかされたことをご一緒に感謝し、共に主の御名と褒め称えたい。