「とこしえの約束」創世記17:1~7、ヨハネ6:28~29
2025年7月16日(左近深恵子)
創世記はその初めにおいて、神さまが全ての造り主であること、人間も神さまから命を与えられたことを語ります。人はその上、神さまのかたちに、神さまの姿に造られたのだと。それぞれが神さまのかたちを与えられているから、人は誰もが本来、神さまの語りかけにお応えすることができる者とされているのだと。そして、人間は互いに相手を、神さまのかたちを表す存在として尊び、神さまから造られた者同士として交流することができる者とされているのだと、示されてきました。どのようにも応答できる自由の中で、神さまの招きにお応えする道を選び取ること、自由の中で人他者を尊ぶ道を選び取ることを願って、人々をお造りくださいました。では人はその自由をどのように用いるのか、エデンの園以降の物語を通して、聖書は明らかにします。人間たちの心に計ることは常に悪に傾き、人間の悪が生み出す腐敗や暴虐が大地に溢れている様を神様は見つめ、人間の悪と向き合い続けておられます。ノアの時代に、大きな洪水によって大地から人間たちの悪を押し流されたその後で神さまは、人の故に地を呪うことはもう二度としないと約束されます。人間が自分たちの悪で大地を覆うことはもう無いからではありません。神さまがそう決断されたからです。自ら悪の大水に呑み込まれてゆく人間たちが、神様の祝福の中を生きていくことができるように、神さまが決断され、神さまが救いの歴史を開始してくださいました。その基としてアブラムを選び立ててくださいました。妻サライが不妊であったため子どもがいなかったアブラムに、多くの子孫を与え、子孫たちは大いなる国民となると約束されました。アブラムは神さまの言葉に信頼し、それまでの安定した生活から、神さまが示してくださる地を目指す旅へと、サライと甥のロトと雇っている人々を連れて出発しました。カナンの地に辿り着いたアブラムに神さまは再び現れてくださり、この地をあなたの子孫に与えると告げてくださいました。偶像の神々を崇めるカナンの人々が暮らしているその地にあっても、共におられ、契約を新たにしてくださった神さまに、祭壇を築いて礼拝を捧げたアブラムは、その後も神さまを礼拝しながら進んでゆきました。
今日の箇所でも神さまは、アブラムに現れてくださり、同じように「あなたは多くの国民の父となる」と約束され、契約を立ててくださっています。同じようなことが繰り返されているようでもありますが、この間のことを思うと、神さまが再び現れてくださり、再び同様の契約を告げてくださったことの重みに気付かされます。
カナンの地に入ったアブラムは、礼拝を捧げては、先へと進む歩みを始めましたが、その日々にやがて暗雲が立ち込めます。飢饉がカナンの地を襲ったのです。アブラムは、この地に導いてくださった神さま、どうしたら良いのか、神さまが今求めておられることは何であるのか、問うことができたはずです。しかし神さまのご意志を祈り求めることをせず、その地を去って、エジプトへと逃げます。ここまで導いてこられた神さまがこの先も導いてくださることへの信頼も、この地で子孫を与え、子孫にこの地を与え、そうして自分を祝福の基としてくださるとの契約も、危機の中では現実的ではないかのように手放したのです。
逃げた先のエジプトで、ファラオがサライを宮廷に召し入れようとします。サライがアブラム妻であることを知らず、アブラムの妹に過ぎないと思ったのでした。アブラムは、サライが宮廷に召し入れられるままにさせます。サライは自分の妻だとファラオの求めを断ることで、自分の身に危険が及ぶことを心配したのです。寧ろ、兄である自分はファラオから厚遇されると考えたのです。サライをファラオに渡すということは、子孫を与えるとの神さまの契約を共に担うサライを見捨て、神さまの契約を諦めるということです。
神さまから差し出された手を振りほどくように、契約を諦めるアブラムですが、神さまは諦めておられません。神さまのみ業によってファラオはサライがアブラムの妻であることを知り、サライをアブラムの元に帰らせ、アブラム一行をエジプトから去らせます。こうしてアブラムたちは再び約束の地、カナンへと戻ることになります。
ではその後は、サライを救ってくださった神さまの契約にアブラムは固く立ち続けられたのかと言うと、そうではありません。カナンの地での生活が再び始まりましたが、それは、約束の地にいながら子孫が与えられるという約束は実現されない日々の連続です。希望が現実とならない中、神さまへの信頼が揺さぶられます。次第にアブラムは、神さまが言われる子孫とは、自分の子ではなく、家の僕のことではないかと思うようになります。自分たち夫婦に実の子を与えるということではなく、神さまは、家の関係者から自分の家を継ぐ者を与えてくださるのではないかと。
そのような時、神さまが再びアブラムに語りかけてくださいます。「恐れるな」、「あなたが考えている者があなたの後を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が後を継ぐ」と言われます。更に夜空を示し、あなたから出る子孫はて星の数ほどになると、改めて契約を告げてくださいます。アブラムは神さまを信じます。
その後も、子どもの誕生という神さまの約束が実現されない年月が続き、アブラムたちがカナンの地に住み始めてから10年が経った頃、サライは待ち続けることに耐えられなくなります。サライは、自分の女奴隷によって子どもを得、その者に後を継がせることをアブラムに提案します。そのようにして後を継ぐ子を得るのは、その当時、その地域で珍しいことではありませんでした。サライの願いをアブラムも聞き入れ、サライの女奴隷ハガルによって子どもを得る道を取ることにします。神さまの約束を神さまが実現してくださることを待つよりも、自分たちの才覚、能力、可能性といった自分たちの手の中にあるものによって自分たちで実現できる道を選んだのです。神さまがただ恵みによって結んでくださった契約を捻じ曲げて、自分たちのコントロール下に置こうとしたのです。
夫婦の計画通り、ハガルはアブラムの子を宿し、出産します。しかしハガルは神さまが選び立てられた者ではありません。自分たちの力による代替案で、神さまの契約を自分たちが実現させようとした結果、アブラムもサライも苦しみ、ハガルに深い苦しみを味わわせます。
その後神さまが語りかけてくださることが無いまま、時が過ぎてゆきます。この時代の聖書の年齢の数え方が今の私たちと同じであるかどうか定かではありませんが、アブラムが99歳の時、神様は再びアブラムに現れてくださいます。ハガルの出来事から13年、神さまが現れてくださることも、語りかけてくださることも、子どもが生まれることも無いまま、夫婦は既に高齢になっています。17:17でアブラムが心の内に「100歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラが子どもを産めるだろうか」と呟いていることからも、2人が子どもを望める年齢では無いことは明らかです。これまでアブラム夫婦は、神さまの契約の実現はこのままでは不可能だと見限り、家の者に後を継がそうと考え、神さまからそうではないと正されると次は、女奴隷に子どもを産ませようとしました。自分たちが持っている人材や能力、可能性といった自分たちの力で道を切り開こうとした結果、夫婦の関係は歪み、他者を深く傷つけ、神さまが契約の担い手と定められた自分たち2人に、契約を実現させる力はもはや全く無いことを13年かかって突き付けられました。そのアブラムに、沈黙を破って神さまは現れてくださいました。そして語り掛けてくださいました。
神さまが最初に告げられたのは、「私は全能の神である」との言葉です。自分の悪が祝福に生きる道を自ら狭め、遠のけて来て、祝福の基となるとの神さまの契約を実現する力は自分に無いことを突き付けられているその現実の中に神さまは来てくださり、「私が、全能の神である」と言われます。人の悪も無力さも超えて、祝福に至る道をもたらすことができる全能の神であることを、告げてくださいます。
続けて「私の前に歩み、全き者でありなさい」と言われます。「私の前に歩」むと訳されている言葉は、そのような意味で用いられることが一般的ですが、言葉自体は「私の顔の前に歩む」となっています。旧約聖書において「顔」は、その人の一番深い内容を表すものと考えられています。顔と顔を相対さずに関係を築くことはできません。「私の顔の前に歩みなさい」とは、“私との人格的な応答関係の中で歩みなさい”ということでしょう。アブラムがこれまで神さまの契約を自分の方へと引き寄せ、自分の力の下に置き、神さまの契約を捻じ曲げようとしてきたことを思うと、この呼びかけは一層重く響きます。
「全き者でありなさい」とも言われます。「全き者」との表現に、一点の誤りも無い完璧な人間であれと、不可能なことを求められているような響きを聞き取りがちですが、そうではなく、自分の丸ごとをもって神さまのみ顔の前に在りなさいということであります。
神さまの前に歩み、全き者であるということは、ロボットのように機械的に神さまの契約に従っていれば良いということではありません。神様のみ前に自分の命も存在も思いも迷いも悲しみも苦しみも丸ごと注ぎ出し、神さまの言葉に耳を傾け、また神さまに祈る、そのような交わりの中で、契約の担い手であることを願うことであります。自分の全てをもって神さまに信頼することへと、アブラムを新たに招いてくださっています。
「そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす」「あなたは多くの国民の父となる」と告げて、神さまは契約を立ててくださいました。これまでのアブラムとサライの歩みにもかかわらず、以前と同じように契約を告げてくださいます。「契約を結び」の「結び」と訳された言葉は、「与える」という意味の言葉です。自分の力の下に神さまの契約を引き寄せようとした者に、神さまが契約を「与え」てくださるのです。7節の「契約を立て」の「立て」という言葉は、突然新しいものを出してくるのではなく、「これまでもあったものを承認する」「確立する」といったことを意味します。既にこれまで示してこられた、子孫を与え祝福の基とする契約を、悪に引きずられ続け、幾度も誘惑に負けてきた人間に与えることを神さまが承認され、神さまがその契約を確立してくださるのです。
アブラムはひれ伏したとあります。ひれ伏すとは、礼拝の姿勢であります。なおも自分を、契約を結ぶ相手としてくださる神さまに、アブラムにできることは何よりも神さまを礼拝することであったのでしょう。
神さまはこの時アブラムに新しい名前を与えておられます。神さまから新しい名前を与えられ、その名で生きるということは、これまでの古い生き方から、神さまに全き信頼を置く新しい生き方へと変わるということです。「アブラム」と「アブラハム」、言葉の上では意味が大きく変わるわけではありませんが、神さまは新しい名前を、「多くの国民の父」となるしるしとして与えておられます。この者から多くの子孫が出、大いなる民となり、すべての氏族に祝福をもたらすとの契約を、神さまが必ず為し遂げてくださることのしるしです。「アブラハム」と言う名前で生きてゆくことは、この神さまに全き信頼を置いて自分は生きているのだと、表明することと言えるでしょう。何かあれば自分の才覚にこそ頼り、神さまに成り代わる道を画策していた古い自分に戻ってしまうのではなく、神さまの契約が自分を通して成し遂げられることに信頼し、自分の全てをもって神さまのみ顔の前で歩む者なのだと、与えられた名前によって何度でも気づかされることでしょう。
更に神さまは、この契約をアブラハムに続く子孫との間にも立て、代々にわたる永遠の契約とすると言われます。高齢という年齢に、諦めや苛立ちばかり覚えてきたアブラハムに、アブラハムの死を超えて、子孫たちにもこの契約を確立し続けてくださると約束してくださるのです。それは、あなたの神であるだけでなく、あなたから出る子孫たちの神となるためだと、告げてくださるのです。
心が悪に傾き続けてしまうアブラハムが、神さまの契約を担う者であり続けるのは、アブラハムの力に拠るのではありません。アブラハムと、その先の子孫たちと、永久に契約を立て続けてくださる神さまへの信頼から始まります。アブラハム以上に心が悪に傾き続ける私たちが、神さまの御顔の前に自分の全てをもって歩み続けられるのは、私たちの力に拠るのではなく、神さまがお与えくださった主イエスこそ私たちの救い主であることへの信頼から始まります。イエス・キリストへの信仰は、私たちの力によるものではなく、神さまのみ業です。
ヨハネによる福音書から主イエスの言葉の一部を先ほど共にお聞きました。この箇所の直前で主イエスは群集に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。彼らは思ったでしょう、永遠の命に至る食べ物を神さまからいただくために人間が働くということは、どんな良いこと、立派なことを行うことなのだろうかと。何をしたら、神さまのみ業を行うことになり、永遠の命に至る救いを得られるのだろうかと。そこで人々は主イエスに、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問います。すると主は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになったのです。
良い業、立派な業を、あなたがたは何を根拠に行うのか、と問われているようです。神さまがお遣わしになった方、主イエスを信じることから、人の言葉や行いは生み出されてゆくのです。み子を世に与えるほどに、神さまは私たちを悪の支配から解き放ち、神さまの祝福の中を生きる者としたいと願っておられます。それほどに、世を、私たちを、愛しておられます。この神さまの愛を信じ、この愛によって神さまが遣わされたイエス・キリストを信じることが、永遠の命に至る朽ちない食べ物をいただく私たちの歩みの始まりとなるのです。
神さまに信頼することにふらつき続け、自分の力にこそ頼り、諦め苛立つことへと引きずられる私たちが、神さまに信頼する生き方へと導かれる、それは神さまのみ業そのものです。神さまがお遣わしになったみ子イエスを信じ、み子イエスの後に従う人生へと導かれる一人一人において神さまが働いておられます。