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祝福の道筋

「祝福の道筋」創世記1219、ヘブライ118

202576日(左近深恵子)

 

創世記からこれまで、天地創造の物語、ノアの物語を聞いてきました。神さまは世界をどのような所にお造りくださったのか、人をどのような者としてお造りくださったのか、創世記は示してきました。

人はそもそも、神さまから「極めて良い」と喜ばれる世界を、神さまの祝福の中、人生を始める者であると天地創造の物語は語ってきました。人と人との関りも、神さまからの救いを相手に互いに差し出し合う、そのようなものであり、人は誰かの助け手となることができる者なのだと、語られてきました。けれどエデンの園からバベルの塔の物語に至るまで、浮かび上がるのは、神さまがそのよう者としてお造りくださった本来の在り方、人自身にとって最も幸いなその在り方に留まることができない人間たちの悪が大地に広がってゆく様です。人の悪による腐敗と暴虐は、世界を創世記の初めに語られているような闇や混沌に覆われてしまうことへと、向かわせ続けます。たとえ神さまが、ノアの箱舟の時の洪水のような大水で何度押し流しても、何度リセットしてくださっても、人には悪を抱き続けてしまう傾向があります。人の悪を見つめ、向き合ってこられた神さまは、このような人間を救うために、歴史を貫いて推し進められる救いのみ業を、始められます。そのために、一人の人物を立てます。その人から一つの民を興し、その人を、その民を、祝福の基とするためです。その人物が、アブラムです。

後にアブラハムと呼ばれるこの人物は、神の民の信仰の父祖として重要な人となってゆきます。新約聖書でもその名前は幾度も登場します。主イエスもユダヤの民を「アブラハムの娘」「アブラハムの子」と呼んでおられます。しかしユダヤの民の中には、自分たちがアブラハムから神さまが興してくださった民の一員であることの恵みを歪めてしまう者もいました。アブラハムに遡る民の一員という自分たちの出自に胡坐をかいていた民の指導者たちに対して、洗礼者ヨハネも、「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ39)と厳しく告げています。キリストの弟子たちは、キリストが復活され、天に昇られ、聖霊が降られた後、神さまがキリストによってもたらしてくださった救いを力強く語り始めましたが、ペトロとヨハネはエルサレムの神殿でユダヤの民に、“『地上のすべての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』とアブラハムに約束された神さまが、全ての民が祝福されるこの救いを実現なさるために、先ずキリストを復活させられ、あなたがたのもとに遣わしてくださったのだ”と、“それはキリストがあなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせるためだったのだ”と語っています(使徒32526)。

では神さまが祝福の基の始まりに選び立ててくださったアブラムとは、どのような者であったのでしょう。創世記第11章によると、アブラムが生まれたのはカナンの地から遥か東、ユーフラテス河のほとりにある、ウルという大きな町でした。父親はテラと言い、テラにはアブラムを含め3人の息子がいました。3人はそれぞれ結婚しましたが、兄弟の内一人は、息子や娘たちを遺して若くして死にました。遺された息子の名はロトと言います。アブラムはサライと結婚し、サライは不妊で、子どもがいなかったとあります。親を亡くしたロトを、おじであるアブラムが世話をするようになっていたと思われます。やがてテラは息子アブラムとその妻サライ、そして孫のロトを連れてウルを出発します。テラはカナン地方を目指し、西へ西へと移動します。しかし、ここから南下すればカナンの地に至るハランという町まで来た時、理由は記されていませんがテラはそこから先に進むことを止め、ハランに留まります。テラはそこで生涯を終えます。アブラムとサライは、断念したテラに代わって、カナンを目指して出発することもできたはずですが、そうせずに彼らもロトと共にハランの町で暮らし続けます。そのアブラムに、神さまはある日語り掛けられたのです。

 神さまの呼びかけは「行きなさい」との言葉から始まります。行き先は告げず、「私が示す地に」と言われるだけです。出発した後に、それはカナンの地であることを神さまは示されます。テラが向かうことを断念し、アブラムがその意志を受け継ぐことをしなかった地です。神さまはそのアブラムを立て、アブラムの心にカナンに向かう思いを与え、熱意の炎を燃やしてくださいました。この先157で、神さまはアブラムにこう言われます、「私はこの(カナンの)地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である」。アブラムが神さまから語り掛けられたのはハランです。しかし神さまはテラと息子たちがウルに居た時に、既にこの家族を導かれていました。テラがウルを出発し、カナンの地を目指したのは、テラの思いだけに拠るものでは無かったことを、15章のこの神さまの言葉でアブラムは知ったことでしょう。テラの心はハランの地で折れてしまい、アブラムはその思いを継がなかった。しかし神様は、始められた救いのみ業を諦めておられません。人の思いを超えて、アブラムをそこから立ち上がらせるように、「行きなさい」と呼び掛けてくださったのです。

神さまが命じる出発は、ハランの地を離れることだけではありません。神さまはアブラムに、「生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」と言われます。正確にはアブラムが生まれたのはハランではなくウルです。アブラムの親族は妻と甥のロト以外、ウルにいます。テラがこの時既に死んでいたのか、それともテラはアブラムの出発後に死んだのか、アブラムの出発とテラの死の順序については、議論があります。いずれにしても、「生まれた地と親族」と言う言葉は、アブラムが根差してきた土地やアブラムがその中に身を置いてきた環境全体を指していると言えるでしょう。アブラムは土地の知り合いや親族に、助けが必要な時には支えられて生活をしてきたことでしょう。「父の家」という言葉は更に近い血縁関係を指します。アブラムの生命と肉体が生まれてから大人になるまでその中で守られ、育まれ、今のアブラムの人となりがその関係の中で形作られてきた、同じ価値観を多く共有できるつながりです。アブラムが安心して頼みとできるつながりです。神さまが告げられた「生まれた地と親族、父の家」とは、アブラムが愛着をもってきた過去とも言えます。それらとの結びつきを断ち切れ、一切関わりを持つな、ということではなく、それらの環境、それらのつながりに頼ることを止めなさい、これからはただ私に拠り頼みなさいということであります。

神さまに何を拠り頼むのか、神さまは約束を与えてくださいます。示された地でアブラムから大勢の子孫が生まれ、その子孫たちが一つの国民とする、それも「大いなる民」としてくださると、その民を祝福してくださり、その民を通して地上のあらゆる民に神さまの祝福がもたらされると言われます。アブラムはイスラエル民族だけでなく、あらゆる民の祝福の基であるのです。

また神さまは、アブラムに神さまからの祝福を見、これこそ真の祝福だと喜び、アブラムのように自分も神さまからの祝福をいただきたいと願う人を祝福されると言われます。しかしアブラムに与えられる祝福を呪い、祝福を与えられる神さまに背を向ける人に対しては、裁きの言葉が述べられています。裁きの言葉も告げられていることに私たちは抵抗を覚えがちです。しかし、裁きが告げられる者は単数形で、祝福を与えられる者は複数形で記されています。アブラムに祝福を見出す人の方がそうでない人より遥かに多いと神さまはお考えなのでしょう。そして、裁きについて述べられるのは一度だけですが、祝福されることは何度も何度も告げてくださいます。人々の悪と向き合っておられる神さまが、人々にもたらすことを何よりも願っておられるのは祝福であります。アブラムを、その祝福の基とすると約束されます。

アブラム夫婦が、不妊という現実の中をこれまで生きてきたことを思うと、これは驚くべき約束です。家族の未来に希望を持つことのできる夫婦は他にいくらでもいるのに、神さまは一人の子どもすら望むことができない悲しみを抱えて生きて来た、神さまのお力が無ければ祝福の基に決してなることのできないアブラムに、彼の子孫が大勢となると約束されるのです。アブラムから人々へと溢れ出す祝福の真の源は、ただ神さまなのです。

示される地でアブラムが寄留の民となることを思うと、また驚きを与えられます。ウルからハランへと移り住んだアブラムは、寄留の民の寄る辺なさをよく知っていたことでしょう。この先親族のいない地で、寄留の家族となる自分たちに神さまが子孫を与えてくださり、その子孫たちがその地で大いなる国民と呼ばれるようになると、神さまは約束されるのです。腐敗と暴虐に呑み込まれてしまう人々を、神様の祝福の中へと導く祝福の基として神さまが立てられたのは、大いなる民とされる力も可能性も、それが望めるような状態も環境も持っていないアブラムです。人の思いも力も越えて、ただ神さまの決断とお力によって、救いのみ業が始められるのです。

神さまはアブラムから大いなる国民を興すと言われます。しかしアブラムは自分がどんなに長生きをしたとしても、自分の子孫が大勢になる時代まで生きていることができないことを当然分かっていたでしょう。自分が祝福の基とされ、神さまの祝福が自分からあらゆる民にもたらされるとの神さまの言葉が実現されてゆく様を見ることができないことを分かっていたでしょう。それでもアブラムは神さまの言葉に従い出発し、そのためにそれまでの暮らしを手放します。ハランの地でアブラムが豊かな生活を手に入れていたことは、5節の「蓄えた財産とハランで加えた人々を伴い」という言葉からうかがえます。財産は主に家畜を指すのでしょう。その家畜を世話する人々も雇っていた生活です。このままハランに住み続ければ、この先の暮らしにさほど心配は要らない状況であったでしょう。アブラムが後にしたのはそのような生活です。何かあった時のためにハランに家族や財産を残しておくことはしません。家族も、雇っていた人々も皆引き連れ、皆のこの先も、財産も全て神さまに委ねての出発は、「生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」との神さまの徹底した求めにお応えするものです。自分では見ることが叶わない自分の視野や生涯という時間を超えたことも全て神さまに委ね、神さまに聞き従う人生を踏み出したアブラムの信頼と行動が、神さまの救いの歴史を形としてゆくことに貢献してゆくのです。

 ハランを出発し、南下してカナンの地に入り、カナンの民が暮らすその地のシェケムという場所まで来たアブラムに、神さまは再び現れてくださいます。カナンの民の土地であり、人々が偶像の神々を崇めているこの地にあっても、神さまは自分たちと共にいてくださることを知ります。共におられるという祝福に加え、神さまはこの地をアブラムの子孫に与えると告げられます。先にアブラムの子孫を大いなる国民とすると約束されたその約束を、より明確に告げてくださいます。子どもを望めないアブラムが子孫に恵まれることも、寄留の地で子孫たちが土地を得られることも、アブラムや子孫の力では為し得ないことであります。それを望むことのできる根拠もアブラムの側にありません。ただ、神さまの言葉が実現されることに信頼だけがあります。ノアが箱舟を出て最初に行ったことが、祭壇を築き、神さまを礼拝することであったように、主がこの地でも共におられることを知ったアブラムが最初に行ったのは、祭壇を築いて神さまを礼拝することでした。いつの日か神さまが子孫に与えてくださることになる地であることを思いながら、その場所で礼拝を捧げたことでしょう。

シェケムからまた出発し、ベテルの東の山地へと移動すると、アブラムはそこに天幕を張ります。当時の旅は、移動しては天幕を張って滞在することの繰り返しです。敢えて天幕を張ったことが記されているのは、暫くの間ここに滞在したからかもしれません。その場所でも、アブラムは先ず祭壇を築いて神さまを礼拝したのです。

ハランの地で神さまから語り掛けられてからここに至るまで、アブラムの言葉は何も伝えられていません。静かに神さまの言葉に聴き従い、進んでは、礼拝の場を設え、神さまに礼拝を捧げる行動が述べられてきました。アブラムが声を発したことが伝えられるのは、礼拝の場だけです。「主の名を呼んだ」とベテルの近くでの礼拝が表現されています。「主のみ名を呼ぶ」という表現は、自分の存在の丸ごとをもって主に向かい、主に自分を注ぎ出す在り方を表します。示された土地を進みながら、歩を進める度に神さまへと向かい、礼拝を捧げては先へと進むアブラムの歩みです。このアブラムの歩みを通して、祝福の源をお立てになる神さまのみ業が、少しずつ推し進められてゆきます。このアブラムに、天地創造から神さまが与えようとしてこられた祝福を見出すことを、神さまは願っておられるのです。

 

 ヘブライ人への手紙11章は、アブラムの出発を、信仰によるものであると述べます。アブラムは、自分を基として神さまが祝福の道筋を打ち立ててくださることに信頼し、その道の具体的な経路を知らなくても、抱いている希望が実現する様を全て見ることができなくても、踏み出しました。それは信仰者一人一人の生涯でもあります。礼拝において神さまの言葉に耳を傾け、自分の思いも力も超えて、私たちの歩みを通して神さまの大きなみ業が為されることに確信を与えられ、私たちは一週間へと踏み出します。その道中、私たちが気づく先から神さまが導いてこられたことを、振り返って気づかされる驚きもしばしばあるでしょう。私たちの力が及ばないところでも、私たちの生涯という時間を超えたところでも、私たちが願っても繋ぐことのできない私たちの思いや業の一つ一つを、み心ならばみ業に繋いでくださり、神さまの祝福を示すものとしてくださることに、希望を与えられて進む者です。アブラムに与えられた祝福が、キリストにおいて私たちにも及ぶために、キリストは十字架で私たちが受けるべき神さまの裁きを負ってくださいました。ただ神さまにのみ拠り頼んで踏み出したいと願います。