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後悔、心痛、そして永遠の契り

 主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた(創世記65)。それが、洪水の物語の始まりでした。そして洪水が引いていった後、主は心の中で人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだと言われたとあります(創世記8:21)。洪水を巡る語りは、人の悪で始まり、人の悪は相変わらず、という、起承転結で括れない形で語られています。つまりは、創世記6章から8章の洪水物語は、人を蝕む、しぶとい「悪」の問題と、これに向き合われる神の格闘を語る枠組みの中にあるということがわかります。聖書を紐解くときに大事なことは、何の意図で語られているかということを見失わないことです。ここでは「悪」の問題について語られているのだ、と。

実は古代オリエント世界には、似たような大洪水の物語がたくさんあります(紀元前2000年紀の『ギルガメシュ叙事詩』や『アトラハシース叙事詩』など)。今でもそうですが、紀元前数千年前も、このような洪水物語は、聖書を知らない人たちでも、けっこう多くの人たちがよく知っていた物語でした。ただそれぞれに語られる文脈によって、この物語は別の響きをもって聴かれてきました。例えば永遠の命を求める冒険物語の中で語られるものもありました。あるいは人口が増えすぎて、人の数をコントロールするための策として神話の神々の気まぐれな決定によって洪水がもたらされる、といったものもありました。それぞれに別の意図で物語が用いられてきたのです。聖書は、そういう古代オリエント神話での使われ方を知っていましたが、それらとは全く違う目的をもたせて、(皆が馴染んでいた)洪水物語を用いたのです。人間の悪とそれに向き合われる神の苦悩、心痛を語るための物語として(イェルク・イェレミアス『なぜ神は悔いるのか―旧約的神観の深層』(日本キリスト教団出版局、2014年参照)。

機械じかけの冷徹な神様ではなくて、対話をし、やり取りのなかで関係を大事にする、‶血の通った″仕方で人と向き合われる神が、悔やみ、心痛めながら「悪」と格闘された方であることを語る中で巧みに用いられているのです。

少し聖書の語り出しを思い出してみますと、創世記の冒頭で地の塵で人を形作られ、天地を創造された。ところが創世記の3章で、早々と神との関係に破れ、自らなしたことを他人に擦り付けてでもわが身を護ろうとして愛を失う人間の姿が描かれました。その後も、兄は弟を殺して家庭は崩壊、離散してゆき、その子孫は暴力的な復讐の歌を歌ったことも記されています。与えられている選択肢と自由を、誤った方向へと用い続けてしまう人間の世の実態を語ってきたのです。創世記の6章~9章に至るまでの伏線が、創世記の1章にありますので、そこを少し丁寧に読んでゆきますと、2か所、神が創造されたものを「見て、よしとされた」という言葉が欠損、欠けている箇所があることにお気づきになるでしょう。それは2日目の創造で触れられている水と水を分けられ、大空の下の水と大空の上の水とを分けられ、空間を造られた箇所です。神は言われ、そのようになった、神は大空を天と呼ばれた。その後に出てくるはずの定型句「神は見て良しとされた」という言葉がなぜか無いのです。すぐに夕べがあり、朝があった、第何日目。と続く。そしてもう一か所は、人間の創造について語られた箇所です。特別な創造であることは、その言葉遣いや丁寧な語り口にあらわれています。ただよく気を付けて読みますと、同じ第6日目という区切りの中で造られた地の生き物の創造の後に「神は見て良しとされた」とあります。その前日の水の中を泳ぐ魚、大空を飛ぶ鳥の創造にも「神は見て良しとされた」とあります。ところが人間の創造については「神は見て良しとされた」とは書かれていないのです。「全てをご覧になって良しとされた」という1章最後のところに全てが込められているから、含まれているのだ、と理解することもできますが、やはり、一つ一つの創造の御業について神様が、ひとつひとつをご覧になりながら、「良し」「良し」と言われたことを大事に受け止めるならば、それが無いということは、そこでなぜだろうと問わざるをえません。その欠けにこそ、その沈黙にこそ大事な意味が込められていることを考えさせる。「神は見て良しとされた」と言われない 「大水」と「人間」、お気づきだと思います。その2つがまさに6章以下の洪水物語、そして人間の悪の問題へとつながってくるのです。創世記1章~3章で張られたいくつかの伏線が、6章以下の洪水物語で回収されるのです。もちろんこの伏線の完全な回収は、未だになされ切ってはいない。今日も人間の悪の問題はしぶとく続いていることは、821節でも言われていますが、今日、この言葉を聞いている私たちも、毎日のニュースで十分知っています。終わりの日に新しい天と地が完成する時まで、その時に、本当の意味で天地創造が完全に回復されるまでは、悪の問題の伏線は伏線のまま続いている。そのただ中で、聖書を読み、み言葉を聴く私たちは、洪水物語を通して人の悪の問題と向き合い続けられる神と出会うものとされているのです。

大水は聖書では「混沌」と結びつけられています。「混沌」「カオス」や存在を根底から揺るがす「深淵」といった抽象的な概念は、より具体的に荒れ狂う海やあらゆる命も文明も文化も根こそぎにする怒涛渦巻く水のイメージで語られてきました。ひいては「悪」を象徴する破壊的な力と重ね合わされてきました。創世記1章で天地創造は淡々と神様が世界を秩序立ててゆかれた印象も与えられますが、その静謐さの中に激しい神の戦いを見るのです。その戦いの末に完成した世界が、今もそうですが、人の世の御しがたいほどの頑なさと未成熟さと畏れを知らない無恥によって破壊されてゆくのを、ご覧になり、どんなに心痛められたか、天地創造のために混沌と戦い、成し遂げられた世界が汚され、壊され、虚しくされゆくことに、ただ崩壊してゆくに任せるのではなく、創られた責任をとられるかのように、ついに御自ら終止符を打たざるを得ないことへの慟哭が響くのを、聞きとった預言者がこんな言葉を残しています(エレミヤ4:23-26)。

あなたの歩み、あなたの行いが/これらのことをあなたにもたらした。/これはあなた自身が犯した悪であり/実に苦く、あなたの心臓にまで達している。」

続いて、

私のはらわた、私のはらわたよ。/私はもだえ苦しむ」と

私は地を見た。/そこは混沌であり/天には光がなかった。私は山々を見た。/ そこは揺れ動き/すべての丘は波打っていた。私は見た。/人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。/実り豊かな地は荒れ野に変わり/町はことごとく、主の前に/主の燃える怒りによって打ち倒されていた。と語るのです。

天地創造の御業が反転して巻き戻されてゆくかのように、憎しみに裂かれた人が人をむごい仕方で殺め、復讐の炎は連鎖して燃え上がり、地は混沌へと回帰し、天には光がなく、人も失せ、空の鳥も姿を消し、豊かな実りを湛えていた大地は寒々とした廃墟へと変わっていく様をご覧になった。私たちが今日、憎しみと紛争と破壊に引き裂かれる世界を目の当たりにしていることと重なり合います。

 ある強制収容所の経験者の言葉です

飛び去った空の鳥については、1979年の夏、アウシュビッツとビルケナウに戻って初めて、私はこの預言者の言葉を理解した。 その時初めて、炎と沈黙の嵐の中、地平線上に鳥の姿が見えなかったことを思い出した。私はビルケナウに立ち、エレミヤを思い出した。(Elie Wiesel,Jeremiah,Five Biblical Portraits. University of Notre Dame Press, 1981, 126

今日のガザ、ウクライナの街々、イラン、テルアビブの空を思います。人の悪を目の当たりにして神が、自らの創造を「悔やまれる」時には、激しい「苦痛」が伴っていることを知ることになります。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創世記65)。はらわたが捻転するような痛みであることが語られる。確かに神は私たちのように怖じ惑うことはなく、動揺することなく、またすべてを知り、すべてを統べ治めておられる。けれども、達観して何が起ころうと一切関わりを超越されることを選ばず、むしろ人の世の破れの中で呻き苦しむ者の呻きに耳を傾け、叫びを聞かれて、契約を思い起こされ、顧み、御心に留め(出224)行動を起こされ、人々に慰めと希望をもたらすことを選ばれる方です。創造された世界が、その心に計る事ことごとく悪に傾く人間によって汚され、崩され、壊れてゆくことに、後悔と心痛で、内に激しく捻転する思いを持たれた、と。滅びゆくがまま、成り行きに任せられたのでもなく、激しい怒りに任せて裁くのでもなく、愛する者たちが悪に魅かれ、身を委ねて、破壊的な陶酔に陥ってゆくことに耐え難いパトス(熱情、苦痛)を覚えられた、と。御自ら喜びをもって「見て良し」とされながら造られたものを、その御手で壊さねばならない事態に心痛められたと。

 ただ悪の問題は洪水では解決しない。洪水の後も、「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ」と言われる。ノアの子孫であっても、救われた後に歪な関係に陥ってゆくことが語られます。傷ついた世界、破れを持った関係を抱えたまま、にもかかわらず共に歩む、と。抗い過つ相手と共に歩む決意をされ二度と人の悪のゆえに壊れゆく世界を悔いて、ご破算にするのではなく、罪と悪に悔やみ、心痛め続ける選択をされた。それが神と地上全ての生き物との間の永遠の契約を契るとの言葉にあらわれています。

 「私が地の上に雲を起こすとき、雲に虹が現れる。その時、私は、あなたがたと、またすべての肉なる生き物と立てた契約を思い起こす。大洪水がすべての肉なるものを滅ぼすことはもはやない。雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、神と地上のすべての肉なるあらゆる生き物との永遠の契約を思い起こす。

たとえ地上に人の悪がはびこって、滅びの予兆が見られ、暗雲たちこめる事態になっても、そこに天と地をつなぐ弓のように虹(Rainbow)をかける時、人間だけでなく世界のすべての動植物との間に契った契約を思い起こす、と。虹は光の反射でもありますので、密雲が濃く世界を覆っているように見える時にも決して光は失われない、ということでもありましょう。光あれと言われて造られた光は、闇の中にも照り続けると。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハネ15)。

新約聖書の新しい契約は、虹をしるしとして、代々とこしえに契られた契約をも引いているのです(この後アブラハムとの契約、モーセとの契約、ダビデとの契約などが続きます)。人の世の悪も罪もしぶとく続き、世を覆う闇は濃くなるけれど、そこに神の永遠の契約は色あせることなく、輝きくすむことなく、むしろ新たにされ、闇の中にあって輝き続けるのです。そしてその極みが、キリストの十字架による新しい契約です。

創造された世界が、その心に計る事ことごとく悪に傾く人間によって汚され、崩され、壊れてゆくことに、後悔と心痛で、内に激しく捻転する思いを持たれ、愛する者たちが悪に魅かれ、身を委ねて、破壊的な陶酔に陥ってゆくことに耐え難いパトスを覚えられた神は、幼い時から悪に足を掬われ続ける人間を裁き滅ぼし尽すのではなく、むしろ、心痛と嘆きの極みにおいて、独り子なる主イエス・キリストの苦難と十字架の死をもって、罪も悪も滅ぼし尽された。御子の裂かれた肉と流された血によって、信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得させるために。終わりの日に回復され、完成される新しい天と新しい地を遥かに望み見ながら、この福音を携えて今週、暗さ濃く成りゆくニュース降り注ぐ世にあって、それでも虹を見て、歩んでまいりましょ