2025.6.22.主日礼拝
詩編22:28-32、ヨハネ17:20-23
「すべての人を一つに」浅原一泰
一年の中で、世界中で、またこの日本で教会が最も注目を集める時。それはクリスマスのシーズンかもしれない。教会に最も人が集まる時、と言っても良いように思う。しかし教会は、決してその時だけ存在しているのではない。風が吹こうが嵐に見舞われようが、何が起ころうとも教会は日曜日に礼拝を守っている。それは何の為なのだろうか。そこに、一人も欠けることなく全員というのはあり得ないとしても何人かのクリスチャンは必ず集まって来るのは果たして何の為なのであろうか。
集まらなければならないから。神様がそのように求めておられるから。行ってそこで果たさなければならない役割、責任があるから。真面目な信徒の方々の心の中に思い浮かぶのはそう言ったところだろうか。では、毎週教会の礼拝に集まって来る自分と、めったに教会には足を運ばなくなっている方々との違いはどこにあると思われるだろうか。どの教会であれ、毎週礼拝に来れないのはご高齢だから、ご病気だから、という理由だけではないクリスチャンは必ずいるし、その数は決して少なくない。
毎年アドヴェントの頃になるとよく読まれるルカ福音書1章に、天使ガブリエルがマリアにイエスの誕生を予告する場面がある。あの時、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられたマリアは、「それは主が求めておられることですから」と即座にガブリエルの言葉を受け入れたわけでは決してなかった。「私がやらなければならないことですから」などと彼女は一言も言ってはいなかった。ルカは、その時のマリアはガブリエルの言葉にひどく戸惑い、これは一体何のことなのかと考え込んだ、と伝えている。
今からお話するのは、教会とは全く無縁で足を踏み入れたこともなく、戸惑いなど何も感じることなく今を生きておられる方々には何の役にも立たないことだろう。加えて、教会に来ることに何の迷いも躊躇いもなく、「クリスチャンは何があっても礼拝を守らなければならない」と真面目に思っておられる方にも全く通じない話を私はしようとしているのかもしれない。しかし、我々人間が何をどう思おうと、あの十字架にかかる直前にイエスは当たり前のように教会に来ている人のためだけでなく、来れなくなっている人、更には教会に足を向けたこともない人のためにも祈っていた。世にある全ての人間のためにイエスはこう祈っていた。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」。
この福音書の初め、1:1以下を開いていただきたい。そこにはこのような言葉が並んでいた。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」
葉っぱを付けずに、「言う」という漢字一文字で「ことば」と読ませる「言」。これはロゴスというギリシャ語が訳されたものだが、この漢字一文字の「言」はイエス・キリストのことである。クリスマスに初めてこの世に生まれたのではない。キリストは初めから神と共にあり、すべてのものはキリストによって成ったのだ、と書かれている。しかしながら人間は誰も、そのことを知らなかった。キリストによって命を与えられているのに、しかもキリストが放つ光によって照らされ、そうして命が守られ支えられているのに、この世に生まれて来た人間は例外なく誰も、そのことを知らなかった。今となっては毎週のように教会の礼拝に集まって来る人もそうでない人も、未だに足を向けたことなど一度もないという人もすべてがそうであったことは否定できない。
ヨハネ福音書によれば、キリストは先ほどの祈りを祈り終えるや否や捕えられ、裁きにかけられて十字架の刑に処されて息を引き取る。キリストを信頼して、キリストに従っていれば救われると信じてその後を追って来た弟子たちは世に残される。キリストが死んだことによって、弟子達がキリストの声を聞く道は完全に閉ざされるのだろうか。昔聞いたあの方の声を、言葉を、姿を記憶の中に留めるだけ、思い出に浸ることだけしか出来ないのだろうか。そうではなかった。世に残された弟子達はその後、復活のキリストと出会ったと聖書は証言するからである。死んでも生きておられるその声を聞き、神と完全に一つとなって生きておられるこの方と出会うのである。それはこの世で人間として生きておられた姿ではない。栄光に包まれ、永遠の命に生きておられるこの方に出会うのである。するとその時、何が起こったであろうか。出会った者たちは畏れひれ伏しつつ主を褒めたたえ始め、その口からは賛美の歌声が溢れ、礼拝する群れが生まれたのである。そこに教会が生まれたのである。それまで神が世に遣わされたキリストを通して神の言葉を聞いていた弟子達がその時、この方こそ神であると語り始めたのである。この方こそ、昨日も今日も明日も永遠に生きておられるわが主、わが神であると。
そこに教会が生まれた。「主は生きておられる」と復活のキリストを宣べ伝える者が立ち上がった。御言葉ははっきりとそのことを証ししている。そして歴史もそのことを認めざるを得ないのである。
では何が彼ら弟子たちを変えたのであろうか。キリストのあの祈りがあったからではなかったか。「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」とキリストが祈っていたからではなかったか。
初めに言があり、言は神であり、神と言であるキリストが共にあり、一つであった世界。キリストが「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」と祈った世界。それはこの世ではない。神の国であった。「万物は言によって成った」と言われていたように神の国から分かれてこの世は、またそこに住む人間も生きものすべてもキリストによって成った。
しかし弟子たちも、この世に住む誰もがそのことを知らずにいた。未だに知らないまま過ごしている者の方が多いのが事実である。それほどこの世は神の国から遠くかけ離れている。「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。聖書の1頁目、旧約の創世記1:2に書かれているあの言葉は21世紀の今の現状をも正確に言い当てている、と言って良い。しかしそう描かれている世界は神の国ではない。この世である。万物が言であるキリストによって成っているのにそのことに背を向け、知らないまま好き勝手に生きる者たちがうごめく闇と混沌の世界である。
だからこそキリストは、十字架にかかる直前に弟子たちのために祈っていた。「あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と、世に取り残され、キリストと引き離されるや否や忽ち闇と混沌の力に引き戻されかねない彼らのために、「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と、キリストは祈っていた。
「栄光」とは、神の国である。神と言が共にあり、言が神であると言われ、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」とキリストが祈っていたあの神の国である。言によって成ったのに、神からも言からも背を向けて己を神として好き勝手に誰もが歩き始めて造り上げられた闇と混沌の世界であるこの世を立ち止まらせ、神の国へと振り向かせるために神はまず自らが人間の姿形を取ってこの世に来られた。それがクリスマスの出来事である。闇と混沌の世界であるこの世は、死んだら命が終わると誰もが思い込み、死を恐れる余りにそれを脅しのネタに使う者が現れたために人間は、死なないで済むならどんなことでもやるといった奴隷と化してしまっている。果たしてそれで良いのだろうか。そのままで良いと本当に皆が思っているのだろうか。万物は言であるキリストによって成ったと言われていたが、その中でも人間は特別である。神は人間をご自分の姿形に似せて造られ、神自ら命の息を吹き込んで人間は生きる者となったと聖書は記している。言なるキリストはこの福音書の中で繰り返し語っていた。「私は道であり、真理であり、命である」と。「私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して、誰も死ぬことはない」のだと。病ゆえに死の危険が襲いかかっていた友ラザロに対しては、「この病は死で終わるものではない。神の栄光のためである」、つまり神の国が、神の業が現れるためのプロセスであるのだと。そのすべてを聞かされていたのが弟子たちである。決定的とも言える言葉をキリストはこの福音書の5章24節以下で弟子たちに伝えている。「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である」のだと。
それでも、死は誰にとっても恐ろしい。誰だって死にたくはない。このすぐ後にキリストが捕えられる場面では、弟子たちは自らの命かわいさにキリストを見捨てて逃げ去ってしまう。唯一歯を食いしばってキリストの後を追って行ったペトロでさえ、「お前はあの男の弟子だろう」と問い詰められるや否や三度も、「私はあんな男は知らない」と否定してしまう。
それが分かっておられたからこそ、見抜いておられたからこそキリストは祈っておられたのではないだろうか。「あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と祈っていたのではないだろうか。祈られていたからこそ弟子たちはつまずいても、裏切っても、後に復活のキリストに出会って変えられ、立ち上がらされ、主を褒めたたえる者へと生まれ変わらされていった。そうとは言えないだろうか。
冒頭に司会者に読んでいただいた聖書の言葉はこのようなイエスの祈りで始まっていた。
「また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」
弟子たちだけではなく、弟子たちの言葉によってキリストを信じ、神を信じる者たちのための願い。まさしくそれは今も世に建てられ続けている教会のため、教会に連なる我々クリスチャン一人一人のため、更にはまだ信じてはいなくても、これから信じるようになる一人一人のためにもキリストは祈っておられた、ということである。
改めて問い直したい。教会とは、何の為に存在しているのであろうか。そこに集められるキリスト者とは、何の為に存在しているのであろうか。それはこのキリストの祈りが実現する為なのではないだろうか。この方こそ神が世にお遣わし下さった独り子なる神であることを、世が信じるようになる為ではないだろうか。決して我ら自身の為だけではない。御自分の独り子を愛するように、神が我ら一人一人をも愛しておられる、そのことを世が知るようになる為、まさしくそれは、「地の果てまですべての人が主を心に留め、立ち帰るように。国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように」と、先ほど読まれた旧約詩編のあの言葉が実現するためであろう。教会に来れなくなってしまっている方々も、神を知らずに背を向けたまま己の満足を求めて生きている世の人々も含め、これから生まれて来る明日の世代をも含めて、この世を神の国へと振り向かせ、すべての人が一つになる為であろう。望もうと望むまいと教会は、そこに集うクリスチャンは、既にその神の愛の証人として、あのキリストの祈りの実現のために立たされている。
主の日に我々が教会で礼拝を守ることにはそれほどの意味が込められている。「あなたは身ごもって男の子を産む」と天使から告げられたマリアが深く戸惑い、思い悩んだならば、我々だって迷って当然であろう。それが神が求めておられることだから、と安易に決めつける前に、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と疑い悩んで当然であろう。そのようなマリアが最後には「お言葉どおり、この身になりますように」と、主の言葉によって変えられるところにこそ意味がある。礼拝で聞かされる復活のキリストの言葉によって集う我々が変えられるところにこそ、礼拝の意味がある。我ら一人一人がその礼拝に集められ、主の御声を聞き続けること。聞くだけではなく、値なきわが身をもかくまで愛して下さる神の惜しみない愛に新たに目開かれること。心から神の御名を褒め称えずにはいられなくなること。そう信じて主を礼拝し続けることがあなたがた教会の使命であると。弟子達だけではない。復活の主は全世界の教会に、全てのキリスト者に、今も生きて語りかけておられるのである。そうしてこの朝も我らは、主の言葉の実現の為に、主に用いられる為に、その御声を新たに聞かされていることを深く胸に刻みたい。