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生き延びるために

「生き延びるために」創世記61422、ヨハネ124450

2025615日(左近深恵子)

 

 神さまは人に、十分に分かち合い、心も体も養われる豊かな実りと住まいを与えてくださったことを、創世記の天地創造の物語は語ります。人の命と存在も、神さまから与えられています。人と人は、互いに助け合い、神さまからの祝福を土台に関係を築くことができる者とされています。その上人は、神さまのかたちに造られ、神さまの創造のみ業に参与して世界を神さまの意志を映し出す場とする使命を与えられています。世界と人を含む様々な被造物をお造りになった神さまは、人間たちに、「産めよ、増えよ、地に満ち」よ言われて、この先、人が進み行く道を祝福してくださいました。では増えた人々はどのように生きる者となったのか、その人々に託されている地はどのようになったのか、創世記第6章は明かにします。

 人の悪が地にはびこっています。人が心に計ることは常に悪に傾いています。そう5節に記されています。神さまはその様を見つめておられると。

その人々の中には、世界の状態を嘆く者がいるかもしれません。私たちが世界の様を見て嘆くように。人々自身が、何とかしなければならないと思い、神さまの使命に生きようと挑むこともあるかもしれません。私たちがそうであるように。しかし、そのような人の在り方は、全く主流となっていません。抗ったところで、悪へと傾いてしまう人間の在り方は仕方がないのだと人々自身が諦めてしまうことも、自分はまだましな方だと思いこもうとすることもあるかもしれません。私たちがそうであるように。けれど神さまは「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とあります。「私は、創造した人を地の面から消し去る」と言われます。そのみ手でご自分のかたちにお造りになり、造られた人をご覧になって喜ばれ、地に満ちよと祝福された、その人々をお造りになったことを悔やまれるほどに心痛め、その人々を消し去ると言われるほど、神さまは人の悪に苦しまれます。

神さまの眼差しは、悪に陥って行く人にだけ向けられているのではありません。「地上に人を造ったことを」と言われています。「地」という言葉が11節以降22節まで何度も繰り返されます。悪に引きずられる人々を見つめ、豊かな大地が人の悪に蝕まれている様を見つめておられます。悪は人自身も、他の被造物も滅ぼすのです。「腐敗」という言葉も、11節、12節で繰り返されます。これは腐らせ、荒ませ、衰退させ、壊すことを表す言葉です。エレミヤ書で主は、主の言葉に聴き従うことを拒み、頑なな心のままに振る舞い、主なる神ではないものを神とする民を、この言葉を用いて、腐って役に立たなくなった帯に譬えておられます(13章)。また、陶工が自ら粘土を捏ねて、多くの労力と時間を費やして器を作っても、それが願うものとならなければ自分の手で壊し、作り直すことを主は述べられ、陶工がしたことをイスラエルの民に為し得ないと言うのかと、エレミヤに告げられます。そこで用いられる、陶工が器を「壊す」ことを表すのも、「腐敗する」と同じ言葉であるのです。

神さまの祝福にも神さまから示されている使命にも重きを置かず、自分の道に相応しいものは自分が見定められると自分自身に依り頼んで、み心にお応えする道から離れてゆく人の悪は、他のものたちにまで影響を及ぼします。そうして「すべての肉なる者が、地上でその道を腐敗させ」るまでに至っています。

11節、13節には「暴虐」という言葉も繰り返されています。暴力的で残酷な人間の力によって、隣人に不正を行うことを意味します。聖書では、隣人、社会に対する不正だけでなく、み心に対する在り方を問題とします。そのような、み心に背を向けて他者に暴力的に浴びせる言葉や行いが、大地を覆っているのです。

自分の判断を正当化すること、あるいは自分のことも他者のことも諦めることが、どんなに他者を、他の被造物を巻き込んでしまうのか、自分の言動の結果を末端まで追いきれない私たちは、神さまほどに腐敗や暴虐の実態を見つめることができていません。ノアの時代の人々がそうであったように、腐り、荒み、衰退し、壊れた状態になっている人々と世界を、大水で覆うと言われる神さまの決断に自分の悪が関与していることを、私たちも認めることに困難な者であります。そうして、神さまの決断に対し、残酷すぎるという思いだけをくすぶらせてしまうかもしれません。

神さまはノアに13節で、「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている」と言われます。神さまが進んで終わりをもたらすことを決断されたというよりも、寧ろ、終わりが神さまの前にとうとう来てしまったということです。人の罪が、決断を下し、この状態を終わらせなければならない、そのような状況をもたらしてしまったということです。放っておけば滅びてゆく人と世界を、自ら滅びるままにされるのではなく、み手で滅す決断をされます。その理由をまだ明らかにしないまま、神さまはノアに箱舟の青写真を示されます。材料と寸法、水が内側に入らないようにタールで塗装することや、明り取りや戸口を設けることなどです。

青写真を一通り示した後、神さまは再び滅ぼす理由を、先ほどよりも少し詳しく語られます。このまま人々を放っておけば、人は肉体の命をなお暫くの間は保っていられるかもしれません。しかしその実態は、内側から腐り、壊れつつあります。天地創造の物語は、神さまが人を創造された時、土を捏ねて形を整えられた後、人の鼻にご自分の息を吹き入れてくださったと語ります。人は、神さまに息を吹き入れられてはじめて、生きることができるようになる者であると。17節で神さまは「命の息のあるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼす」と言われています。神さまに命の息を吹き込まれて生きる者とされた全ての者にとって滅びとは、肉体の終わりよりも何よりも、内なる命の息を失うことであるという現実を告げておられます。「今こそ私は」と、ご自分がその滅びをもたらすことを断言されます。一部の地域の表面を撫でるようなものではなく、「すべての肉なるものを、天の下から滅ぼす」と。命の与え手である神様が、一人一人にお与えになった、その人を生かし続けてきた命の息を、徹底的に取り上げると決断されるのです。

与えてくださった方が取り上げることを決断され、造られた方が徹底的で壊滅的な力でそれを為さる。そのみ業の中、自らの力で生き延びることができる人はいません。命も生き延びる道も、神さまから与えられます。神さまはノアとその家族にその道を与えてくださいます。ノアとその家族を通して、あらゆる種類の生き物にも、人間たちの罪によって彼らが奪われてきた在り方が回復される道を与えてくださいます。命の与え手がどなたであるのか、命の息を吹き込んでくださり、生き続ける者としてくださるのはどなたであるのか深く知り、他のものではなく神さまこそが神であるのだと知り、新たに生きる道を与えてくださいます。人々が皆、悪に流されるままであった時代に、神様のみ前に歩むことを求め続けて来たノアを、再出発の先頭に立つ者として選び立ててくださいました。神さまはノアに、家族と、あらゆるつがいの動物たちと、食糧を携えて、箱舟に入りなさいと、それは「あなたと共に生きるため」だと言われます。箱舟の材料や寸法を示したのも、水の侵入を防ぐ塗装を指示したのも、あなたとあなたの家族や動物たちが生き延びるためだと。箱舟を作る作業を始めればノアには周囲から、愚かだ、無駄だ、神がお造りになった人間や世界を滅ぼすはずなどないではないか、そういった嘲りが浴びせられるかもしれません。妨害され、作業が思うように進まないこともあるかもしれません。この地を水が覆う気配など何一つ見えない日々が続くかもしれません。それでも箱舟を作るのです。それは、神さまが与えてくださる命に、ノアと家族と、この大地で共に生かされている者たちと一緒に生き延びるためなのです。

 再出発の道を神さまは、ノアとの間に立てる契約だと言われます。人を真実に生かし、本来神さまが与えてくださっている命に生きてゆかせるための契約です。その人自身だけでなく、自分の悪に巻き込んでしまいかねない他のものたちをも生き延びさせるために、神さまが与えてくださる恵です。

 大水と箱舟によって神さまが与えてくださったのは、その時代で終わる恵ではありません。人の悪は次の世代にも、その先にも影響を及ぼします。将来に渡って滅ぼす要因となってしまう人の悪からの救いという恵みです。契約は、その救いを保証します。契約と言う言葉がここで初めて登場していますが、全く新しいことが示されたわけではありません。「契約を立てる」と言われる時の「立てる」という言葉は、これまでもあったものを承認することを示します。人や世界の創造の前に、それらの存在を願う神さまのみ心がありました。その人々が自ら滅んでゆく姿を見つめ、苦しまれ、ノアを選び立てることで人々と世界が新しく出発することを願われるみ心がありました。そのみ心とご計画が、ここに契約となって明らかにされたのです。生きるという契約が実現することを示すしるしが何も目に見えなくても、神さまの言葉通りノアは箱舟を作りました。神さまが示された青写真には、舵も帆も何もありません。水に覆われれば漂うしかない舟です。方向を変えることも、風の力を利用して進むこともできない、ただ神さまに委ねるしかない舟をひたすら建造したのは、神さまの言葉と契約が命の保証であることに信頼したからであります。

この物語を、雨が降り始めて、大地を覆い尽くすまでだけ切り離して聞くならば、これは残酷な出来事と言えるでしょう。大水の下で起きていることを想像せずにいられない、真剣に耳を傾ける者にとっては、辛い物語かもしれません。大水の場面に過去を思い出さずにはいられない人にとっては、足早に通り過ぎたい物語かもしれません。それでも、なぜこの大水をもたらされたのか告げる神さまの言葉に耳を傾けるならば、神さまが滅ぼそうとしておられるものを見ることへと導かれます。神さまは、自ら滅びの道を自滅に向かって進み続ける人間の在り方を、滅ぼされます。箱舟は、自ら滅びの道から神さまの元に立ち返ることのできない人間に示してくださった道です。ノアは、神さまの言葉に従い、示された道を進み続けた人であったのです。

ノアの正しさを9節は「神と共に歩んだ」と述べています。社会や世間が人を評価する物差しに拠って、正しさを語りません。際立つ功績があったと言われているわけでも、ノアの自分の信念を貫く生き方が評価されているのでもありません。神と共に歩む、それが最も神さまの目に貴いことであると聖書は伝えています。そのような歩みをする仲間は他にいない中、ノアだけが神さまと共に歩むことを貫く者でありました。神さまと共に歩むとは、言い換えるならば、いつも神さまのみ心を尋ね求め、み心にお応えし、従うことをひたすら願い、為し得ることを為した先はみ手に委ねるということでありましょう。たった一人がそのように生きたからといって世界が変わるわけではないと、世からは無に等しいものとみなされるような歩みを、神さまは広い世界の中で見出し、見つめてこられたのです。大水の後の人間たちと世界の将来を委ねるために神さまがこの人を選び立てられたのは、ノアが箱舟を建造することにおいてひと際有能であったからでも、家族や動物たちが皆一つの舟で長期間過ごす間、先頭に立って彼らをまとめてゆく指導力に長けていたからでもなく、神さまのご意志に従ってきた者だからでしょう。これまでそうであったように、この先も、ただ神さまのみ心を尋ね求める者であると信頼されたからでしょう。

神さまの言葉に耳を傾けない世にあって神さまと共に歩むことの難しさを、私たちもよく知るのではないでしょうか。神さまと共に歩みたいという願いを持ち続けることからして、当たり前ではない私たちです。礼拝において神さまのみ前に進み出てようやく、神さまと共に歩み切れなかったこと、神さまと共に歩もうと願うこころを絶えず持ち続けた者ではなかったことに気づかされるような私たちです。世に生きているのだ、そのようなことは不可能だと居直りたくなる私たちであります。けれど神さまは、世にあって、人がご自分と共に歩むことを諦めておられません。腐って、廃れて、衰退し、崩壊しつつある、まるで天地創造の前の混沌と深い水が渦巻く闇のような状態の時代の中で、たった一人でもノアの歩みを神さまは喜んでおられます。この一人の人を選び立て、その人の箱舟を作る骨の折れる作業を通して、家族にも他の被造物にも、生き延びる道を示してくださっています。

 

神さまは、お造りになった者たちが悪に呑み込まれ、腐敗と破壊が満ちる時、遠くで眺めながら見捨てるのではなく、心痛め、お造りになったことを後悔されるほど苦しまれ、滅ぼし、救う御業を為さることを創世記は伝えます。そして、神のみ子が十字架で犯罪人の一人として処刑される、その命による贖いに拠らなければ、私たちの罪を根底から赦す救いは実現しないと、神さまが罪に呑み込まれた私たちの只中にみ子を与えてくださったことを、そうして神であるみ子が私たちと同じ人となられ、地上に降られ、死に至るまで私たちを救うために歩み通されたことを、新約聖書は伝えます。ヨハネによる福音書において主イエスは、「私を信じる者が、誰も闇の中に留まることのないように、私は光として世に来た」と言われます。主イエスを信じる者は、主イエスではなく、主イエスをお遣わしになった方、つまり父なる神を信じるのだと、主イエスを見る者は、主イエスだけでなく主をお遣わしになった方を見るのだと、主イエスの言葉は、主イエスが自分勝手に語ったのではなく、父なる神がお命じになった言葉なのだと言われます。ご自分は、歴史を貫いて救いの御業を為してこられた神さまの御業を成し遂げるために来られた方であることを告げます。そして、父なる神の命令は永遠の命であると、言われます。私たちの罪にもかかわらず私たちを諦めず、見捨てず、私たちを生かすために神さまは語り続けてこられました。暗闇のような世にあっても、自らでは滅びの道を進む生き方しかできない私たちであっても、自分や世の何かの発する光ではなく、キリストの光に照らされ、神さまの祝福に包まれて永遠の命に至る道を歩んでゆくために、み言葉は私たちに無くてはならないものです。神さまの言葉に信頼し、神さまと共に歩むことを祈り求める私たちの一歩一歩も、神さまに見出されていることを覚え、無くてはならない言葉に聴き、お応えする者でありたいと願います。