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聖霊が語らせるままに

「聖霊が語らせるままに」使徒2113、ヨエル315、詩編331222

202568日(ペンテコステ礼拝)左近深恵子

 

 使徒言行録の今日の箇所が伝える出来事は、教会の根源にあるものが何であるのか教えてくれます。教会の根源にあるものよりも自分の今日や明日をよりよく生きることの方が自分にとって重要であるように思いがちな私たちです。けれど、今日や明日をより良く生きたいと願う私たちに、命と存在を与えてくださっているのは神さまです。その神さまの恵みを、私たちは教会を通して知ります。一人一人の日々の土台は、教会を通して与えられます。教会の始まりは私たちの日々の根源でもあるのです。

 今日の箇所によると、「五旬祭」、もしくはペンテコステと呼ばれる祭りの日に、エルサレムのある家に集まっていた主イエスの弟子たちに聖霊が降り、一同は「他国の言葉」で「神の偉大な業」を語り出したとあります。五旬祭の「五旬」という言葉は「50日目」を意味する「ペンテコステ」というギリシア語の訳です。過越しの祭りから数えて50日目に、収穫を与えてくださる神さまに感謝を捧げる、ユダヤの三大祝祭の一つです。毎年大勢の人がこの祭りをエルサレム神殿で祝うために、様々な国や地域から集まってきました。ユダヤ人は国を何度も滅ぼされ、世界中に離散していたからです。「パルティア、メディア・・・」とここで挙げられているそれぞれの地域の言語が母国語となっていた人々に、ガリラヤ出身者が大半の主イエスの弟子たちが、その人々の母国語で神さまの偉大な業を語ったので人々は大変驚きました。中には、弟子たちはぶどう酒に酔っているだけだと嘲る者もいたとあります。

 聖霊が降り、主イエスの弟子たちの群れは主の教会となりました。教会はその始まりから、福音を外の人々に語ります。語られたのは、「神さまの偉大な業」とあるように、福音です。教会がある程度規模が大きくなって教会の活動が安定したら伝道にも踏み出そう、というのではなく、初めから福音の種蒔きが教会の活動の核にあります。弟子たちは自分自身のこと、自分の偉大さを伝えたくて語ったのではありません。弟子たちが伝えたいことはただ一つ、神さまの偉大なみ業です。その核となるのはイエス・キリストの十字架と復活です。この福音を弟子たちは、自分が語りたいように語ったのではありません。人々が「自分の故郷の言葉」「生まれ故郷の言葉」「私たちの言葉」と何度も言うように、福音を相手が理解できる言葉で語っています。相手が理解できる言葉で福音を語ることの難しさを、福音を伝えようとする者は皆知っています。それができたなら、そこから先、相手が受け止めてくれるかどうかは、祈り願うだけであります。教会はその最初の伝道において既に、福音を受けとめてもらえず、嘲られる辛さも味わっています。それでも教会は福音を伝えずにはいられません。まだ福音を知らない人々に向かって、相手の心の奥にまで届く言葉を探しつつ語ることが、変わらない教会の歩みです。国籍や地域が違っていても、それらの違いも壁も溝も貫いて、主イエスが私たちの救い主であることを知る幸い、私たちの真の国籍は天にあることを知る喜びを伝えようとします。聖霊は初めから教会に、世界伝道の幻と夢を与えてくださっています。

 教会はこの日突然、何も無い所に現れたのではありません。この出来事に先立って、この弟子たちは備えをしてきました。この都で50日ほど前、主イエスは彼らの目の前で逮捕されました。主イエスはご自分の民の指導者たちとローマ帝国の権威によって不当な裁きにかけられ、ご自分の民からも見捨てられ、罵られ嘲られる中、十字架で死んで行かれました。

 しかし主は3日目に復活され、その後40日に渡って弟子たちに何度も現われてくださいました。復活された主イエスは、神の国、つまり神さまのご支配について話されました。かつて語られたように、ご自分について聖書(旧約聖書)に書かれていることは必ず実現すると改めて告げられました。弟子たちは、彼ら自身が神さまの御業を聞いてきたから、そして主イエスの御業を見てきたから、ペンテコステの日に人々に語ることができました。彼らが語ったことは、彼らが聞いてきたことでした。主イエスとのこれまでの日々があって、ペンテコステの出来事が起こったのです。

復活の主は弟子たちにまたこう言われました、「『メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都に留まっていなさい」(ルカ244649)。主イエスはこうも言われました、「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受けるからである」(使徒14)。その後主イエスはエルサレム郊外の山から天に挙げられ、弟子たちの目から見えなくなりました。見えなくなった主イエスを探すように天を見つめていた弟子たちに、神様は天の使いを通して、「あなたがたを離れて天に挙げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたがた見たのと同じ有り様で、またお出でになる」(使徒111)と語られました。それから、弟子たちはエルサレムの都の泊まっていた部屋に集まっては、心を合わせて祈るようになりました。弟子たちはもはや主イエスの姿を見ることはできなくなっていても、故郷であるガリラヤに帰ろうとはしませんでした。主の言葉が実現することに信頼していたからです。その言葉がいつ実現するのか分からなくても、まだ見えないその日の到来を信じて祈りを捧げ続けました。祈りによって備えていた弟子たちに、聖霊が降られたのです。

11人の弟子たちと女性の弟子たちや他の弟子たちが心を合わせてひたらすら祈りをしていたと、使徒言行録11314にあります。弟子たちが集まって祈っている情景は、ここだけ見ると当たり前のことのように思えるかもしれません。けれど彼らが一緒に祈っていること、まして心を合わせてひたすら祈っていることは、決して当たり前のことではありません。私たち自身のことを考えてもよく分かるのです。経験してきたこと、置かれている環境、皆違う私たちが集まって心を合わせて祈ること、ひたすらに祈ることは、決して当たり前のことではありません。当たり前ではない者たちが祈る群れとなっている、その祈りの備えと聖霊のお働きが、教会の根源にあるものと言えます。それは、祈りを捧げる彼らの熱心さが、彼ら自身を教会にしたということではありません。彼らが天から聖霊を降らせ、自分の上に留まらせたのでも勿論ありません。自らは一つになれない、共に心を合わせて祈ることのできない者たちが主において一つとされ、自分たちが聖霊の住まいとなることを願って、いつ訪れるか分からない主の言葉が実現される日を待ち望んで、静まって祈っていたのです。

かつての弟子たちは、誰が自分たちの中で一番偉いのかとしばしば張り合う者たちでした。主イエスが十字架にお架かりになるエルサレムに向かう途上ですら、主イエスがいつも語っておられる天の国、神の国において、他の弟子たちよりも自分が上でありたいと言い合って揉めていた者たちです。自らでは真の一致を生み出すことのできない、私たちと何ら変わるところのない弟子たちでした。

主イエスが逮捕されると、彼らは次々と主イエスを見捨ててしまいました。自分を頼りにし、他者よりも上に居るはずだと争ってきた彼らが主イエスを裏切る自分の弱さを知り、自分が持っていると頼りにしていたものはどんなに脆く儚いものであるのか気づいたことでしょう。自分だけでなく、他の弟子たちの脆さも知ったことでしょう。それでもまだその時点では、自分の弱さはまだ他の弟子よりはましだと思うことに縋っていたかもしれません。“三度も主イエスを知らないと言ったペトロよりはましだ”などと思ったかもしれません。彼らは扉に鍵をかけて閉じこもっていたことをヨハネによる福音書は伝えています。主イエスの復活の知らせを聞いても、主イエスのように捕まってしまうのではないかとの恐れの方が勝っていたのでしょう、同じ部屋にいながら、彼らの心は決して一つではありませんでした。それぞれの裏切りによって、互いに不信の念は強まって、溝はより深いものとなっていたのではないでしょうか。しかし復活の主は、主を見捨てて死に引き渡した自分たちに現れてくださいました。主イエスがその命をもって自分たちの罪を贖ってくださり、神さまのもとで赦されていることを知りました。神さまのみ前では誰も、自分は他の人よりも優っているなどと言い張れない者であることを知りました。頼りにしていたものが崩れ去り、内側は空っぽのように思える自分の、その内側に聖霊を迎え、聖霊に満たされる土の器とされることを、弟子たちはその身をもって証ししています。

かつての弟子たちは、祈る群れではありませんでした。勿論祈りは彼らの日常生活の中で習慣となっていたでしょう。祈るとはどのようなことであるのか知りたいと求める思いも持っていました。だから、祈る主イエスの姿を見て、「私たちにも祈りを教えてください」と弟子が願い、主イエスがそれにお応えになって、私たちが主の祈りと呼んでいる祈りを教えてくださったことを福音書は伝えています。日々の習慣として祈っており、祈ることを求める思いも持っていた彼らですが、弟子たちが祈っていたという記述は福音書にありません。対して主イエスが祈られていたことは、何度も伝えられています。とりわけ大切なことを為さる前に、主イエスは夜を徹してまで祈られる方でした。十字架にお架かりになる前の晩も、食事の後、祈るためにゲッセマネに弟子たちを伴われました。主は弟子たちにも傍で祈るように言われますが、彼らは目を覚ましていることができなかったことを、三つの福音書が伝えています。その弟子たちが、主イエスの復活によって本当に祈ることができるようになりました。復活によって、主イエスが今も生きて共におられることを知り、主によって生かされる者は、死によって断ち切られない命に生きることを知りました。主の言葉に信頼し、主の言葉が実現される日に備えて祈ることができる者となりました。十字架に至る苦しみをお受けになり、復活されたイエス・キリストによる罪の赦しを、主イエスが約束されたように、全ての民族に宣べ伝える証人と自分たちがなる日に備え、父なる神が約束された、み子なる神が送ってくださる神さまのお力を受ける日、その聖霊によって洗礼を受ける日に備えて祈る者となりました。その名によって祈るイエス・キリストがどのような方であるのか知った者は、同じ主のみ名によって祈る隣人と心を合わせて祈ることへと導かれます。天に昇られた主イエスを見ることはできませんが、彼らはかつてのように恐怖心で身も心も強張らせて、同じ所にいながらそれぞれがそれぞれの扉の中に閉じこもっている者たちではありません。一つ所に集い、心を合わせ、祈っています。こうして備えた者たちは、聖霊を受けると、福音を宣べ伝えることへと踏み出します。他国の言葉で弟子たちが福音を告げた後に、ペトロの説教が続き、福音を受け入れた人々は洗礼を受け、教会に新たな人々が加わります。「そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります(使徒242)。祈りによって備えるだけでなく、祈りによって感謝する群れとなっています。主イエスがそうしておられたように、祈りに心を合わせつつ、歩むリズムを持つようになりました。行動することこそが力だと思いがちな私たちです。恐れや不安を行動する達成感で紛らわせようとする時も、行動する力も湧いてこない時もあるでしょう。だからこそ、共に座し、祈りを合わせる信仰の群れが私たちに必要です。キリストの体なる信仰の群れを通して神さまのみ業の力を知ります。キリストの後に従うことが最大の喜びであることを知ります。そうして、キリストから託された福音の種蒔きへと踏み出すことができます。最初の教会の群れも、その祈りによるリズムの中で、主が最後の過越しの食事の席で命じられたように、主に倣って互いに仕え合う交わりを大切にし、主の記念として聖餐を守ってゆく者となりました。彼らを福音伝道に力強くいそしみ、他者との関りを重んじる者としたのは、彼らの力ではなく聖霊のお働きであるのです。

 聖霊は、激しい風と表現されています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」と主イエスはかつて言われました(ヨハネ38)。自分が行きたい方向へと後押しして欲しいと願いがちな私たちですが、キリスト者の行く先は神さまによって示され、天からの風によって新しい動きへと押し出されます。先が見えなくても、今もこの先も、聖霊においてキリストが共におられることを知り、自分の力に拠り頼む道ではなく、天からの力の中を歩んでゆくのです。

 聖霊はまた炎のような舌と表現されています。大元は一つである炎が分かれ、一人一人の上に留まったとあります。旧約聖書は、罪の赦しのために犠牲の動物を捧げることを律法で教えます。動物は血を流され、内側の内臓まで焼き尽くされて、捧げられます。キリストは、私たちの罪の赦しのために血を流し、肉を裂かれて、ご自身を捧げてくださいました。そのキリストの霊によって、私たちは内側の奥底まで焼き尽くされて、新しく生きる者とされるのです。聖書において舌は語ることを表します。内側まで燃やし、舌を清め、新しく生かしてくださる神さまを伝えるエネルギーは聖霊が与えてくださいます。自分自身のこと、自分に基づいたことを語っていても、やがて狩ることは尽きてゆきます。しかし、天から吹き来たり、私たちに留まり、燃え続ける炎は私たちの内で消えることがありません。

 

生ける神のお働きを風や炎や舌と表現する聖書の言葉は、これまでを振り返って見るとなるほどと思わされます。弟子たちも、自分たちが大勢の人を前に福音を堂々と証しする者となるなど、かつてガリラヤで漁師をしていた頃には思ってもみなかったことでしょう。私たちが今ここで共に礼拝を捧げていることも、聖霊のお働きの実りであります。自分を救うことも、他者と一つになることも自らできない私たちの内に働いておられる聖霊の生けるお働きに感謝し、主が見させてくださる夢と幻を見つめながら、燃える舌によって主から授けられる言葉を語り、神さまの御業を共に証ししてまいりましょう。